岐路に立つ国語教育
 熊谷 孝著『岐路に立つ国語教育――国語教育時評集』より


国語教育時評 1
静かな論争を期待する    (初出:「教育科学 国語教育」1965年4月号)


 時評の視点


 前号に書いた雑文の中で、この欄の時評の姿勢について、ふれるところがあった。書かでものことを、と後悔している。まさか、そのすぐ次の号から、この欄の執筆を自分が担当するようなことになろうとは思ってもみなかった。
〈注〉
 皮肉なものだ。あそこに書いた、批評というものに対するもろもろの要請――それが、そっくりそのまま、自分の責任としてはね返ってきた格好である。「批評の機能は媒介という点に求められる」云々。「無媒介に自己の独断を語ったようなものは批評とはいえないだろう」云々。どうも困ったことを、いってしまったものだ。
 国語教育時評という仕事は、ひとりではとてもである。それは、教育現場を中心とした、各方面の方々の協力がえられなくては、できない仕事だ。私のような一匹オオカミの場合は、なおさらのことだ。そこで、あらかじめ、読者の方々におねがいしておく。こういうことを書け、書いてみてはどうか、といったアドヴァイスなり要求なり示唆なりを常時、提供していただきたい。
 私のねがいとしては、一般の現場の実体や動きをキャッチして、問題の所在をつきとめることをやりたい。ジャーナリズムでの教育論議が地に足の着いたものになるためにも、これは必要なことなのだ。しかし、私がそういう仕事に着手できるかどうかは、具体的なかたちで 現場の方々の協力がえられるかどうか、という一点にかかっている。かさねて、ご協力・ご支援をねがっておく。

 この欄を受け持て、といわれたとき、正直いって、諾否に迷った。歯にきぬ 着せずにいうが、国語教育界における各民間研究団体相互間の関係、人間関係が現在、必ずしもノーマルな状態にあるとは思えないからだ。本誌・№66の寒川道夫氏の時評によれば、たとえば本誌の〈一読主義読解は実用主義か〉特集などに書いている者は「みんな民主主義の仮面をかぶったまやかし者だ」といった発言さえ一部には行なわれている、という。
 論理の問題イデオロギーの問題にすり替えてはいけない。イデオロギーの不一致は、論理の不一致をもたらすかもしれない。けれど、イデオロギーの一致が必ずしも直線的に、論理の一致を導くとは限らないだろう。
 時評を引き受けた以上、ところで、そういう渦の中にとびこむことも覚悟しなければならない。とびこまないまでも、渦の飛沫はさけられないような場所に自分を立たせなくてはなるまい。そうでないと、仕事にならないからである。きつい仕事だ。
 「執筆承諾」という返事を書いたときの気持は、微妙だ。そして、こうだ。対立する意見や見解のあいだに、もしも誤解にもとづくものがあるのなら、それを解きほぐし、双方の接点をさぐり求めていく努力――その点に自分の仕事の目標の一つを設定しよう、ということである。そのことは、しかし、八方当たり障りのないような、ものいいをする、ということとは別のことだ。渦のしぶきを浴びることは覚悟している。ことのめりはり だけはハッキリさせたい。これが時評に対する私の構えだ。
 あるいは、私の時評は目先では、かえって対立を激化させるような結果をつくりだすことになるかもしれない。場合によっては、それもまた、やむをえないことではないか、と思う。ともかく、従来、この欄の担当者が堅持してきたような、めりはり のハッキリした批評の態度に学びながら、私は私の時評のペンを執ることにしたい。
 そういう観点から、むしろ私はここで、論争よ起これ、といいたい。しかし、それは、静かな論争であって欲しい。あくまでも論理に対して謙虚な、静かな論争として終始することを期待したい。そのような論争であってこそ、そこに行なわれる問題の整理は、教育現場のもろもろの実践的要請に多角的にこたえ得るような、現実的で具体的な理論を準備することにもなるだろう。

 
 一読主義論争への反省
 
 〈一読主義〉対〈三読主義〉というかたちで論争が行なわれるよ うになってから、かなり久しい。問題は未解決のまま、こんにちに持ち越されている格好だが、ともあれ、それは、近来まれにみる熱っぽい論争だった。
 児言研の提唱する総合読み ―― 一読法は、実用主義にすぎない。それは、ただの能力主義だ。心理主義だ。という教科研側の批判が、総力を結集したかたちの児言研側の反批判をさそう呼び水となった。
 まずかったのは、故意に相手の神経を刺激するようなことばで批判が開始されたことだ。一読主義とやらは、みせかけ だけは新しそうだが、所詮実用主義のヴァリエーションにすぎないじゃないかと、そんなふうにいわれたのでは、相手もカチンとくるのが当然だろう。売りことばに買いことばである。
 だから、見た目にはなやかだった割に、この論争は実
(み)がなかった。目には目を、歯には歯を、そして、ドスを利かせたことばのやりとりに終わった観がないでもない。この序盤戦を、私はあまり買わない。途中からとび入りする格好になった私自身の不手際もふくめて、どうもみんなカッカしすぎたようだ。
 「三層式の基礎となった解釈学には問題があったとしても、その実践との結びつきには注意しなければならないものがある。」
(奥田・国分編『国語教育の理論』72ページ)というのが、ところで、教科研側の基本的な発想らしい。このようにして、「授業過程を、戦前の通読・精読・味読の三段階とする考え方をも批判的に摂取」して、「知覚・理解・表現読みの三段階を設定した」(同上・16ページ)、というのである。
 三読法への「実践の要請は……その偏狭な哲学を超えて真理をさししめしている」云々
(同上・72ページ)。結論をいえば、三読法は実践的に正しい、ということだ。
 児言研側の考え方は、ところで、解釈学(形象理論)はその方法(方法論)ぐるみに否定されねばならぬ、ということのようだ。つまり、三読法という方法自体が方法論的・実践的にズレている、という見解である。このようにして、両者の対立・対決が結果したわけだが、その熱っぽい対立のおかげで命拾いした格好になったのが、解釈学流の旧い三読主義であったのは皮肉である。疑う人は現場の実体をみよ、である。
 が、それはともかく、双方ともに、実践がさし示している事実 がこうだから三読法は正しい、いや、間違っている、といって主張をゆずらないのだから、これは果てしなき論議である。問題は、そこで多分、その事実、その実践の検証の仕方にあるのだろう。ということは、また同時に、検証に対する構え が問題だ、ということでもあろう。
 教科研の主張の前提となっている構えについては、発言を留保したい。まだ、よく、つかめていないからである。児言研の考え方が三読法に対して否定的であるのは、ひとつには、第二信号系の理論に媒介された、作用因としての「ことば」の機能論的な理解・把握
(前号・拙稿参照)が前提となってのことではないか、と思う。条件反射学のこの理論を、伝え理論の側面で媒介させて読み の機能と構造を考えてみた場合、読み はつねに総合読み以外のものとしてはありえない、ということになるだろうから。
 そこで、発達に即して発達を促すというかたちで、一歩一歩段階を追って、より高次の総合読みをそこに実現していくために、子どもたちがある次元ですでに身につけている読み(総合読み)の仕方を変革しつつ、それを確実なものにする、という方法―― 一読総合法への要請ということになったのではないのか。この方法にはまだ熟していない点が見られるにせよ、だから批判する側のいうような、「単なる指導上の配慮・くふう」にとどまるものではないだろう。それは、技術としての方法であると同時に、原理としての方法であるだろう。
 が、しかし、いわば言語心理学的発想に媒介されたこの方法論・指導過程論の原理的な構造が、当事者にあってどの程度自覚的なものになりえているかは、いちがいにいえないように思う。当事者ひとりひとりの論調に、その点、かなりいちじるしい相違を感じるからである。また、ときとして その発言の中には、方法がすべてだ、といっているみたいな印象を、他に対して与えかねないような発言も含まれていないことはないのだ。児言研側としても、その辺の問題について、統一した見解を用意する必要がありそうに思われる。


 ことばが不足しているのではないのか

 上掲『国語教育の理論』所収の奥田靖雄氏の論文は、上記の教科研方式の三読法を、文学の教授・学習過程に即して、もっとも論理的かつ具体的に語っている労作である。という以上に、「文芸学的な研究成果の教育研究・実践家の立場からの追求」
(同書・序章)である。共感するのは、まず、その生哲学(解釈学)批判である。或いは、生哲学方式の、「自己表現の理論にもとづく文学作品のよみ方」「作者の心にせまることをもってよみの中心的なねらいとする考え方」への批判である。こういう原理的なことがらをふまえた批判が、いまは必要なのだ。
 この種の批判が現在もっとも必要な批判だ、と考えるものだからして、論旨のすみずみまで、そういう批判を徹底させることができたら、という欲みたいなものが出てくるわけなのだ。その欲みたいなものを、ここに書きつけておくとしよう。それは、まず、こういうことだ。奥田論文は自己表現・追体験(同化)の論理への批判に急なあまり、前半、やや作家不在の文学論議に走りすぎていはしないか、ということである。
 作品表現として定着したその内容や主題を、作者の意図したそれと混同してはいけない、という指摘は正しい。したがって、作家の主観、作者の意図から独立したものとしての作品の形象、作品表現をみていこう、という考え方に対しても、むろん異議はない。
 ただ、そのことを強調するあまり、作者による送り内容と、読者による受け内容との函数関係の究明が、全然といっていいぐらい関心の外におかれてしまっている。何かこう印象として、この送り内容 を前提とすることなしに、受け内容としての作品形象がいきなり、そこに成り立つみたいな議論のはこび方になっている、という感じなのだ。
 ところが、論文の後半に至って、「主題を意識しない作家はいない」云々、「主題は作家がえがきだしているものだ」云々、というふうなかたちで突如(という印象である)、作家が顔をみせてくる。論文前半の作家不在の文學論議と、それがどこでどう結びつくのか、関連が、ハッキリしない。 
 さらに、そこに、「文学は一般的なものを具体的な、個別的な生活現象のなかに形象することによって表現する」云々、という方式による一連の整理が行なわれている。そこにいう「表現する」者というのが作者以外のだれでもないとすれば、それは結局、作者の考え(作者のつかんだ概念的・一般的な事物認知)に形象の衣
(ころも)をかぶせて外化したものが文学の表現だ、といっていることになってしまう。これでは、認識と表現の二元論である。
 が、論文前半の叙述から推しても、氏がそんなふうな考え方をしておられるはずはないのである。説明が不足しているのだと思う。惜しまれるのは、ことばが足りないために、氏の論述が次のような印象を与えてしまっている点である。自己表現の理論――文学は作家の自己表現だという考え方を批判するときには、やや作家不在の論議のかたちにかたむき、さて正面からご自身の文学論・文学観を展開するときには、作品内容の送り手としての作者を、無前提に、やはり一種の自己表現者のような扱いで登場させる格好になっている点である。そこに欠けているのは、文学・芸術固有の媒介的機能――そして、媒介者としての作家の機能と役割についての整理ではあるまいか。
 文学は、作家が自己を語るカタルシスの場ではない。作家はむしろ、読者大衆のあいだに分け入って、もろもろのその 生活の実感、その 感情、その 体験を自己に媒介しつつ、それに「ことば」を与え、思想にくみあげ、それを読者(本来の読者)に向けて返していく。また、そのことで、読者を相互に媒介しつつ、そこに相互の体験の交換・交流のための伝え合いの場を用意する。つまりは、その点に作家の任務と役割があるわけだろう。
 だからして、読者がその作品の鑑賞過程において出会うのは、作者その人であるよりは、その作者によって媒介された、もろもろの読者である。自分がその本来の読者のひとりであるような場合、「私」は「私」自身をそこに同時にみつけることにもなるだろう。他の場面、他の状況に移調された「私」自身を、という意味である。
 さらにまた、読者大衆の積極面のコンクリートな反映像としての〈内なる読者〉との対話(内部コミュニケーション)において、相互変革・自他変革の素地をかたちづくる、そのような〈作家の内部〉の機能と構造が、そこに説明されなくてはなるまい。この点の解明は、文学の認識・表現構造における作者の位置づけについて語ろうとする以上、不可欠の前提であろう。
 「主題が何かということが初めからつかめているのなら、何もわざわざ作品を書く必要はない。主題は作者にとっても、書いてみた結果つかめるようになってくるのだ」云々。――ある作家の発言だが、文学における認識と表現との関係・関連は、作家の主体に即していうと、そういうことにもなるだろう。
 ともあれ、作家は、自己を媒介者として位置づけ、媒介者としての自己に徹することで、自分自身をこえることも可能となるのである。エンゲルスが『人間喜劇』について語っているのも、そのことではなかったか。バルザックがその『人間喜劇』の創造において実現したように、自己の主観を遙かにこえた、偉大なテーマとゆたかな形象をそこにもたらす、ということも、このようにして作家にとって可能となるのである。
 つまりは、意図を更新しつつ意図をこえていく、という、そのような形象への外化行為こそ、作家の表現行為にほかならない。作家はそのような表現行為において、読者(本来の読者)相互の伝え合いの場、自他変革の場を用意するのである。
 本来の読者相互の、そのような伝え合いの場を自己に媒介することなしには、その作品に対する「私」という読者の理解は、(独断的であるという意味での)ただの主観的なものに終わらざるをえないだろう。ということは、また、媒介者としての資格における作家を疎外した作品論では、ついに作品の客観的理解をみちびくことはできないだろう、ということでもある。
 
紙幅の都合で省略するが、奥田氏の指導過程論に対する私の若干の疑問も、じつは、このような点での、氏の創造過程論や鑑賞過程論への疑問につながっている。妄言多謝。

  
 〈注〉 「民間教育運動を中心に」P92参照



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