文学と教育 ミニ事典
  
伝え合い
 多民族国家としてスタートしたフロンティアのアメリカは、国民の使用しているまちまち の多くの民族語の中から、イングリッシュを選んで「国語」とし、さし当たってそれをプラクティカル・イングリッシュの形で普及に努めた(…)。それは、民族の主体性における外界認知の基礎手段の体系――民族的体験の共通信号の系――としての国語であるよりは、同じ一つの国家社会を構成する諸民族にとっての日用的な通信手段にほかならなかった。
 そのような必要に応じての、実用(日用)英語習得のためのスキル学習とその方法、それがランゲージ・アートであり、また、そのような必要と目的に奉仕する方法に徹しようとするところに、ランゲージ・アート(言語技術主義)の根本思想もあったわけだろう。そのような出自を持つランゲージ・アートが、その後の「繁栄のアメリカ」の段階では、現状適応 のための国語教育のアート(手段)として、さらに対ベトナム戦争の現段階では、現状肯定 の国防教育としての国語教育の方法的役割を分担する、ということになるわけなのであろう。
 ランゲージ・アートの思想をささえている言語観は、(アメリカの場合と日本の場合とを問わず)機能的言語観、究極において言語道具説にほかならない。言語の機能を、はっきりとコミュニケーション・メディア(伝えの媒体)として押えている点は、それを素朴にサブスタンシャル(実体的)なものと考える汎言語主義の呪物的な言語観などと違う、道具説のすばらしい点だ。その限り、それは、近代的な言語観であると言っていいだろう。
 が、しかし、そこでは、コミュニッケーションということが
伝え合い という形ではつかまれていない。伝える とは伝えあう ということだ、という現代のコミュニケーション理論にとっての最も基本的な想念・発想を欠いている。そこにあるのは、上意下達の――つまり支配者から人民へという――一方通行の伝え 観、コミュニケーション理解のシッポを断ち切れないでいる“言語機能”観にほかならない、ということになりそうである。
 従って、思考ということが、“ことば”(内語)による人間の内側での伝え合いであるという、言語と思考の関係がつかまれていない。また、言語と思考という場合の“言語”というのが現実には民族語・国語のことであり、そのことでまた、思考の発想のしかたなり思考の脈絡が、そこに用いられる言語(国語)によって異なる、という言語事実(思考活動の事実)がつかまれていない。この道具説にあっては、言語――したがって民族語・国語――は、思考活動そのものとは内部的関連を持たない、いわばただの“思想を乗せて走る貨車”としてしかつかまれていない。
 思想を乗せて走る貨車云々。――個人の内側に成り立った思想をそっくりそのまま中身を変えずに、一方通行の形で相手に伝達する道具が“ことば”だ、という、それは“ことば”の機能観、コミュニケーション理解である、という意味である。“ことば”を操作する、“ことば”を通すということが思考(思考活動)を組むことであり、思想のありよう(思想内容)を変えることである、という言語事実がそこでは見落とされているのである。ともあれ、言語道具説のそのような考えかたに立ってこそ、観光に来日する外国人が事前にニッポン・コトバのしきたりきまり を覚える式のスキル学習を、ニッポンの子どもたちに対してもっと深めた形で科学的にやれば、それで国語教育のまず半分が成り立つ、という発想・判断になるわけなのであろう。さて、その後の半分は、これは文学教育という名の道徳教育で、というわけなのであろう。ここのところで、道具説の即物主義は「期待される人間像」の精神主義と結びつく、という点がこの教科構造論の特徴というか特色なのである。
〔1969年、熊谷孝著『文体づくりの国語教育』p.359-360〕
    

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