文学と教育 ミニ事典
  
対話/対話精神
 日本の近代文学は井伏鱒二の出現によって対話精神を樹立させることができた、(…)対話の回復だと言ってもいいんですが……。
 これまでの文学……たとえば明治・大正の自然主義、自然派の文学、その亜流の、また別派の、私小説、やがて新現実派のテーマ小説、あるいは新ロマン派の作品、あるいはまた当時全盛期を迎えていたプロレタリア派の小説や評論。その中には、自分というものをすっかり対象の中へ埋没させてしまったようなものもあったし、メクラ滅法自分の中にのめり込んでしまったようなものもあったわけですが、、方法的に言いますと、作者は万事お見通し、という格好の創作方法だったわけでしょう、これまでは、そして、おしなべて……。
 近代小説の作者・作家の立場というか位置・位相ということについて、名前は忘れましたがアメリカのある女流文学者が、こんなふうなことを言ってるんです。ここに、こうカベがあるというのです。万里の長城みたいなものを思ってくださればいいでしょう。カベの片側では事件が進行している。カベの反対側には読者がいるわけなんですが、読者にはその事件の様子はわからない。ただ、時折り叫び声や物音が聞こえて来るだけだ。ところで、高いカベの上には一人の男が立っている。あるいは、一人の女が立っていて、事件の模様を次つぎと読者へ向けて伝達してくれる、これが小説家というものだ、というのです。
 作者は万事お見通し、というのは、そういうことです。この女流文学者によりますと、これが近代作家の立場だし近代小説のありかただ、というわけです。カベの上の人影、それが作者というものだ、というわけですね。この指摘は当たっています。近代小説とは、おおむねそういうものだったのですね。日本の場合でいえば、井伏以前の小説はそういうものだったわけです。万事お見通しの立場にある作者が、自分の意見や見解や判断を交えて、ごくごくひかえめな作家の場合でも感想程度のことは口にしながら「事件」をコメントするわけですね。
 井伏作品はそこが違うのですね。私の自己流の言いかたをもってしますと、〈声なき対象の声に聴く〉というあれなんですね。作者は万事お見通しどころか、わからんところだらけだから、読者の皆さん、お互いに対象の声に耳を傾けながら一緒に考え合おうじゃないか、という姿勢なのです。読者との
対話において対象と対話する……いってみれば、そういうことなんです。いってみれば、また、従来の文学の多くは、作者から読者へ向けての一方通行のコミュニケーションという格好のものだったが、井伏文学ではそれが対面通行のダイアローグ対話というかたちの表現になっている、ということなのですよ。〔1978年、熊谷孝著『井伏鱒二――〈講演と対談〉』 p.106-108〕


関連項目(作成中)

ミニ事典 索引基本用語