文学と教育 ミニ事典
  
主 題(テーマ)
 ○ テーマというのは、素材とともに与えられる作品の内容的統一のモメントであります。主題(テーマ)は、素材に先行するのではなくて、まさに、素材とともに 自己のものとなるのです。作者にとっても、また読者にとっても、それは同じこと、同じ関係なのであります。
 それは、読者の側からすれば、与えられた素材(素材の配列の仕方)にしたがって、自己の感情を組みかえはぐくみつつ、その内容を再構成・再創造するかたちで統一する体験にほかなりません。
テーマの理解・把握とは、素材とともに与えられた作品のテーマと、その同一素材(同一事物)に対していだく、自己のテーマとの対決の体験以外ではありません。(中略)その作品と向かい合うまではバクゼンとした形でしか意識されていなかったような、その事物(その素材、その題材)に対する自己の感情にテーマを与えることで区切りをつけ、あるまとまり を与える体験なのです。
 事情はそのかぎり、作者の場合も同じことでしょう。現代詩の若い詩人、渡辺武信氏のことばを借りていえば、「自分にテーマがつかめているのなら、なにもわざわざ詩を書く必要はない」のです。その事物が「どういう意味を持っているかは、詩を書いた結果わかってくる」のです。書く ことでテーマをつかむのであり、テーマをつかもうとして書く のです。あるいは、自己の感情にテーマを与えることで作品にテーマを与えるのであり、また作品にテーマを与えることで、自己の感情にテーマを与える、ということなのであります。
 ということは、作品の表現が現実に保障するそのテーマは、作者の意図をこえている、ということなのです。それは、ときとして、「書いた結果わかってくる」ものだという以上に、「書いた当人にもつかみきれないものが残る」という文脈での、作者の意図をこえている、という関係なのであります。
 だからして、また、作品の
主題が“意図されたもの”と“意図をこえたもの”との構造関連において教師その人につかまれていなくては、文学に対して(同時に教室の子どもたちに対して)責任をとった作品の教材化ということは不可能に近い、ということにもなるのであります。作品研究――教師の作品研究が文学教育活動の必然的前提条件である、というのは、そういうことなのです。〔1965年、文教研著『文学の教授過程』p.42-43〕


 ○ 「作者は、この作品で何を言おうとしているのか?」というような発問のしかたで
主題をつかませようとする指導が(…)行われている。作者の表現意図――作者が意図した主題――が、とりもなおさずその作品の主題である、という考え方である。国語教育関係の報告や論文などで、しばしば見かける論調、考えかたである。主題指導とは、そこでは、つまり「作者の意図に迫る」作業だ、ということにされてしまうのだ。
 しかし、これは、ごく常識的に考えてみてもわかるように、つもり と事実、意図と実際の結果とを混同した考えかたである。言い換えれば、意識と行動とが常に対の関係にあるとする、プリミティヴな考えかたによるものである。
 表現は、むろん多分に意識的な行為だ。が、作者の表現意図を越え、作者の意識の面にはのぼってこない、にじみ出る表現――流露をそこに伴なうのが、むしろ普通である。(…)

 話をそこまで持っていかなくとも、たとえば、技術が伴なわないために、トラを描いたつもりが結果はネコにしか見えない、というようなことだってある。文章表現の場合も、同じことだ。作者の意図した
主題がその作品の現実の主題である、というふうには必ずしも言えないのである。

 ところで、トラを描いたつもりがネコになってしまった、というこの例だが、トラがトラに見えなくては、これはどうしようもないけれど、しかしそれがトラだということがわかるというだけでは、芸術体験はそこに成立しない。なぜ、それがネコやライオンやヒョウでなくて、トラでなければならないのか? また、なぜ、それがそのような――という以上に、そういうイメージにおける、その――トラでなければならないのか? というトラの形象 (Bild) がある意味形象 (Sinnbild) においてつかまれなくては、それは芸術としての絵にはならない。
 思うに、そこで、その形象が語りかける意味を感情まるごとに体験する(鑑賞する)、という営みの中でその作品(形象)の
主題もつかまれてくる、という関係にちがいない。それは、そのときどきの鑑賞者の自我の状況に応じて、そのように つかまれるものである、ということだ。文学・芸術の――つまり芸術作品の主題は、このようにして、やはり感情まるごとに体験される何かである。それを、ことば(概念)に言い換えてみたってしようがない、というような場合もあるのではないか。また、ことば(概念)では――言い換えれば説明という手段尽くせない何かが、常にそこに残るのではないか、ということだ。(…)

 問題を教育の場にかえして言えば、主題の要約や、要約された
主題を提示することなどが表現理解の指導の到達点である、というふうなことになってはナンセンスだ、ということなのである。指導の本番は、むしろ、要約の提示という、そこのところから始まる、と言っていいのである。要約された主題――主題の説明――と主題それ自体との関係は、いわば山の案内書や山の地図などと、実際に登山の体験から得たものとの関係のようなものだろう。山によっては地図は不要だ。が、やはり地図にたよらなくてはならないような未知の山、けわしい山などもある。しかし、いくら地図をそらんじてみたところで、登山の醍醐味は、実際に自分で登ってみないことには、わからない。 Thématologie(主題学?) でいう一般的規定に従って言えば、主題 (Thema, subject) というのは、素材とともに与えられる作品の内容的統一の契機である。ところで、また、鑑賞体験は、そこに与えられた素材――素材の配列のしかた――に従って、自我の感情を組み替えはぐくみつつ、その内容を再構成・再創造する形で統一する体験にほかならないであろう。〔1969年、熊谷孝著『文体づくりの国語教育』p.132-135〕


 ○ 言葉づらにとらわれて自分の思考そのものにひずみ をもたらすことのナンセンス(…)。
 さしあたって、今日の話題であるテェマとか主題という言葉(用語)についても同様のことが言えるかと思います。作者の表現意図が作品の主題だ、というような主題観なども、主題ということの概念内包をそういうふうに規定して使うことにしようという協定でも成り立てば、それはそれでいいと思うのです。問題だな、とわたしが感じるのは、そういう主題というのが、つまり作者の言おうとしていることがその 作品の一番の眼目であって、だからしてまた、追体験によるその主題把握が作品理解・作品鑑賞の目的になる、というところへこの主題観がつながっている点が、わたしは問題だと思うんです。
 作品鑑賞の目的は、――目的なんて言うと何か味気なくなってしまいますけど、かりに目的という言葉を使って言えばの話です、鑑賞の目的は、鑑賞の対象になっている作品に頭を下げることじゃないでしょう。そこで話題になっている事柄をめぐって、相手の発想とこちらの発想をぶっつけ合って討論するというか話し合うこと、それが目的と言えば目的じゃないんですか。「これはバイブルに書いてあることだから絶対だ」式の、神棚に文学作品を祭ってパン、パーンと柏手を打ってそれに最敬礼する、という対文学的な姿勢は、どうも非文学的なんじゃないかと思うわけなんです。そういうところへ、この主題観が、なぜだか結びついてしまっている……。
 それからですね、その 作品において実際に作者が言いえている ことや、作者の主題的な意図を越えて実際にその作品の表現において実現していることなどがそこでは問題ではなくて、単に言おうとしている こと――表現意図が関心事なのですね、そこでは。
(…)
 それから、この主題観では、なぜかやはり素材主義的な文学観・文章観につながってしまうのですね。文章に即して、そこに書かれている事柄を要約すると主題がわかってくると、こう言うんですが、文章に即すると言うのが、何のことはない、その文章の語り口や発想・文体などを無視した文章把握に立った、素材の抽出にすぎないのですよ。それは結局、個々の言葉が個々の事物にはりついているものと考える、ナイーヴな汎言語主義の言語観・文学観を言い表すもの以外ではないでしょう。どうも、うまくないな、と思います。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.166-168〕


 ○ これは、ある大江作品に対する大岡昇平の批評の一節ですが、「安保体験は現代青年の一部にとって切実でありながら、文学的形象に結晶しにくい不毛な主題なのであるが、(この作家は)それを歴史的展望の下におくことによって成功」させた、というような主題という言葉の使いかたに見られる主題概念は、作品形象と不即不離の距離を保った、ドライに吹っ切ったつかみかたによるもので好感が持てます。
 また、やはり、同じ作品に対する大岡の批評の一節ですけれども、「混乱した素材と、その中から作家がつかみ出した作品という統一体との距離」に作品の主題を見る、という主題観・主題概念にわたし自身は親近感を覚えます。(…)わたしは主題概念を、「素材と共に与えられる、作品の内容的統一の契機――統一の契機としての思想内容」というように概念内包を組み替えて使うことで、主題という言葉が有効性を発揮するようになる、と考えているわけなのです。
 そこで、主題というのは、作品の内容に関して与えられる概念だということになるわけですが、その内容 というのが実は形式 と一体的なものなのですね。芥川竜之介が言っておりますでしょう、「『太陽がほしい』という荘厳な言葉の内容 は、『太陽がほしい』という形式 でしか現わせないものなんだ」という意味のことを……。まさに、それなんでして、ある発想 による言葉の選択と配列によってそこに実現するのが形式 ですし、その、選択された言葉の配列によって保障され顕在化されるのが、その作品の内容 なのですね。少なくとも、初めに内容があって、形式はあとからやって来る、というようなものではないことだけは確かです。主題が作品の内容にかかわる概念だというのは、そこで、つまり、形式と相即的、一体的な関係にある内容というものにそれがかかわっている、ということなんですね。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.168-170〕



   

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