文学と教育 ミニ事典
  
素材主義/イデオロギー主義
 文学はもともと言葉の芸術なのですから、本当はどの作家のどんな作品についても、文章のことは抜きにはできないはずなんですけれども、それがその実際問題としては、文章以前の素材、材料で勝負しようとしているみたいな、そういう作品もないわけじゃありません。たとえば、こう材料を剥き出しに読者に示しまして、材料そのものに栄養分が含まれているのだから、ナマのまま囓れといった調子で、ナマの大根や人参を泥のまま突きつける……というのは困るんですが、実際にはそれがないわけじゃなりません。
 いわば、また、ナマ人参やナマの牛肉のかたまりを片手にぶら下げて、これのカロリーはこれこれでヴィタミン何々と何々がこれこれ含まれている、だからお食べ、さあおあがり、というような演説を作中人物にやらせているような作品もないとは申せません。
素材主義、イデオロギー主義の作品ですね。
 読者の側へ回って言いますと、農民一揆を肯定的に取り上げているから、これはいい作品だ式の評価の仕方がまた一部に見られます。小中学校の文学の授業なんかでも、教材には民話を、というような提唱があって、現代語にリライトされた民話がよく扱われるんですが、その場合、リライトの仕方はあまり問題にされない。つまり、文章は二の次なんです。
 井伏の愛弟子の太宰治が書いた『古典風』という作品。どなたもお読みになっていらっしゃるだろうと思いますが、あの中に、

 所詮は、言葉だ。やっぱり、言葉だ。すべては言葉だ。

 というのがありますでしょう。やっぱり、言葉だ、すべては言葉だ、というえるような言葉のすぐれた選択と配列になって来ないと、その文章は文学作品の文章だとはいえないわけです。文学作品の文章の第一条件は、文体のある文章であるということですからね。〔1978年、熊谷孝著『井伏鱒二――〈講演と対談〉』 p.61-62〕
  

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