文学と教育 ミニ事典
  
史実/歴史小説
 夏目武子 この間うちの研究例会で、熊谷さんに『右大臣実朝』の虚構のありかたについて報告していただきました。〈『金槐和歌集』について〉と〈『吾妻鏡』の中の実朝像〉という報告でした。(…)
 この問題の報告の中で、「『吾妻鏡』と『右大臣実朝』との関係は一方が
史実で、他の一方はその史実に基づく虚構だというような関係にはない。」という意味のことを、おっしゃっていたように思いますが。
 熊谷 一方が史実で他の一方が虚構だ、という言いかたは短絡的にすぎるけれども間違ってはいません。間違ってはいないが、しかしそれが自明のことだという調子でそういう言いかたを繰り返しているうちに、いつのまにか、史実の記録には見あたらないような事柄の叙述部分だけが虚構で、あとは虚構でない。それは史実通りなのだから虚構とは言えない、というような、虚構概念のイロハをさえつかみそこねたみたいな作品論に滑りかねないから要注意、ということを言ったまでなんです。
 夏目 その点はおっしゃる通りですね。現に、たとえば鴎外のある種の
歴史小説は古典や古文献に拠って書かれているから、独創性のない作品だ、というに近い作品論や作家論も少なくないのですから……。『右大臣実朝』を『吾妻鏡』の記載と対比させるという作業も、まかり間違うとただの資料主義に滑ってしまって、今おっしゃったような意味での虚構部分と非虚構部分とを区分けするためのものになりかねませんからね。
 熊谷 それなんですよ。……史実なり事実との関係で虚構ということを言えば、それは本当のことに対する拵えごと、つくりごとという関係なのではなくて、人間というものに対する関心、あるいは人間的な感動において事実の意味 を探る、つかむ、ということでしょう。たとえば、シガレットをくわえた、ライターをカチッとやったという行動……そういう行動をしたという、それ自体はどうということもない事実ですけれども、その当人にとっては激しい内心の動揺を抑えるための行為だったかもしれないのですね。
 ですから、そういうふうに見ていくと、事実とは一体どういうことを言うのか。どういうことが事実であり史実だということになるのか、ということになるでしょう。
 夏目 シガレット・ケースに手が行ったという行動が事実なのか、それとも行為的な意味においてつかまれたその行動をこそ事実と呼ぶべきか、という問題ですね。
 熊谷 そうです。そういう行為的な意味における事実なり史実を、つまり人間的な真実を大胆な仮説に立ってつかみ取ろうとするのが文学であり文学的虚構ということなんだ、と思います。その 事実の中に、こちらの主体が感情ぐるみのかたちで入
(はい)り込む、ということがないと虚構の営みは出発しない……。
 夏目 そうなりますと、鴎外の“歴史離れ”ではありませんが、史実の記録にはない表現部分の持つ虚構的な意味というのは、どういうことになるわけなのでしょうか。

 熊谷 こちらの主体が史実の中へ分け入ることで、人間がそこに息づいている行為的な意味での史実 を探り当てようとしますね。ところが、ですね、それは、過去の日付けは改めることはできない、という意味での時空的に限定された過去の世界でしょう。そういう世界の中で行動する人物のやること、なすことというのは、やったこと、したこと、という完了形の限定 を受けるわけです。(…)ですから、そういう行動的事実を、行為的な事実に従って変更する、というような、プログラムの変更の自由は作家の側には全くないわけです、本格的な
歴史小説の場合には……。
 となると、そういう動かすことのできない行動的事実……いわゆる意味での史実ですね……そういう史実史実の間を縫って、人間的・行為的真実とマッチするような個別の
“史実”を移調として創造する、虚構する、ということになるわけでしょうね。夏目さんが今、鴎外の“歴史離れ”のことをおっしゃったけれども、それで鴎外をもじって“史実離れ”という言いかたをするとしますと、『右大臣実朝』というこの作品の場合には史実離れはありません。史実離れをするのではなくて、人間がそこに息づいている史実を発見するための、クリエイティヴ(創造的)でイマジネイティヴな、想像豊かな場面への移調が行なわれている、ということなんだと僕は思います。
 夏目 史実とは何か、ということを文学の立場から、また虚構という視点から、実は歴史というもの、歴史ということを考える視点から、もう一遍問い直す必要が生じてまいりますね。
 熊谷 史実とか事実ということを、一般にアンチョクに自明のこととしてムジャキに考えすぎてますね。
 夏目 史実というと、主観の入
(はい)り込む余地のない、歴史的な客観的事実だと考えられがちですが、違うんですね。それは、実際には記録された史実なのでして、いわば主観に与えられた事実以外のものではありませんね。『吾妻鏡』の記載は一応の意味で史実だということになるのでしょうが、それもある立場の主観によって把握された史実だ、ということですね。
 熊谷 どんな現象的事実も主観に反映された事実なのでしてね。主観を通さなくては何も見えて来ない……。
 夏目 その主観が客観的に、より客観的にもの を反映し得る立場の主観かどうかが問題なだけのことですが。
 熊谷 そういうことですね。(…)

 熊谷 (…)文学にとって……史実とは何かというと、それは人間的真実をはずしてはあり得ないわけなのでして、所詮それは仮説にすぎないものなのかもしれないけれども、ぎりぎりこれしかあり得ない、という現実像・人間像の造型がそこにおこなわれるわけですね。(…)

 夏目 太宰の虚構は史実を否定するところに成り立っているのではなくて、それはむしろ、史実を裏づけるものになっている、ということでしょうか。その裏づけが、メンタリティーの賦与に伴なう表情の賦与というかたちで成り立っている面が大きい、ということですね。
 熊谷 そうなんでしょうね。もっとも、表情を与えると同時に、表情を生かすかたちで、という面があるのかもしれませんが、そういう言語表現であってこそ、実朝のメンタリティーが生きて来るし、それに食い入ることができる、ということですかしら。〔1987年、熊谷孝著『増補版・太宰治――「右大臣実朝」試論』 p.135-145〕


〔関連項目〕
虚構/虚構する

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