文学と教育 ミニ事典
  
古典と現代
 今日の時代に対する不満と、時代の流行に追随できない気持が、時としてわたしたちを過去への郷愁にかりたてる。知悉(ちしつ)の過去への郷愁である。(…)

 
古典もまた、(…)過去の精神に属している。単に過去に属してはいないにしても、それは過去の精神の所産にほかならない。それがたとえ偉大な人間精神の所産であろうとも、である。
 誤解を避けていえば、現代の精神の原型を過去に求め、
現代がそれを見失ってはならないにもかかわらず、すでに見失ってしまっているもの、見失いつつあるものを古典の中に探ることの意味・意義・必要を否定しているのではない。そうではなくて、精神安定剤をそこに求めるような格好での古典への接近では、あまり積極的な意味は持たないだろう、ということなのである。
 もっとも、精神安定剤も、今日のような状況の中では、時として必要なのかもしれない。けれども、ただそれだけのものとして“過去”に
――あるいは過去の精神に――ベッタリもたれかかるというのでは、時代の流行にあっさり身をゆだねるのと同じことで、主体の未熟あるいは主体・自我の放棄をしか意味しないだろう。実を言えば、古典古典としてのアクチュアルな、したがってまた、プロダクティヴ(生産的)な機能を発揮するようになるのは、逆にわたしたちがある実践的な視角を現代現代の芸術に対して用意し得たような場合に限られるとさえ言っていいのだ。
 古典古典としての機能を発揮する?
 ……それとしては過去の精神の所産であるところの古典が、現代の課題的必要と要求に答えるような、イマジネイティヴな芸術的虚構の機能をわたしたちの精神生活面で発揮する、果たす、という意味である。
 ともあれ、古典は、
現代現代の芸術に対するわたしたち自身の関心と実践のありように対応して、その姿を顕在化するのである。多少ニュアンスは違うが、伊藤整も言っている。「古典を味わうには、現代の文学のどこが空虚であるかを知らねばならない。いな、古典から逆に今の文学の空虚を学のである。私自身の体験では、古典のすぐれたところは、私の能力の範囲でしかわからない、という思いをすることしばしばである」(「埋もれた真実を拾う」)と。
 古典の深さを知るためには、
現代の芸術のどこが空虚であるのかを知らねばならない。そして、実をいえば、「古典から今の文学の空虚を学ぶ」ことができるようになるためにも、ある実践的な視角において現代がつかめていなくてはならないのである。このことは、どの古典をか何らか“わたしの文学”“わたしの芸術”“わたしの文化”として心にあたためているような体験の所有者にとっては、まことに自明のことであろう。その意味では、いっさいは、わたしたちの主体の位置づけかた、その実践的なありようにかかっている。〔1969年、熊谷孝著『文体づくりの国語教育』p.18-20/ 改稿 1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.105-107〕
 
   

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