文学と教育 ミニ事典
  
倦怠(アニュイ)/倦怠の問題/倦怠の文学
 ○夏目 アニュイ(倦怠)(…)自分の人生が先行き決定されている人生でしかないことを実感したとき、人生はアニュイなものとして映って来る。人生にアニュイを感じたときが、岩屋に幽閉されている自分を発見したときだ……というのが[井伏鱒二の]『幽閉』の世界だ、というご意見でしたが。
 熊谷 (…)芥川竜之介の『トロッコ』の終わりに近いところで、「塵労に疲れた」二十六歳の良平の姿が描かれていますけれど、あの塵労に疲れたメンタリティーが
倦怠につかまれた人間の心的状態・状況なのでしょうね。
 夏目 (…)芥川や井伏・太宰の文学的性格を、熊谷さんは
〈倦怠の文学〉という言いかたで呼んでおられるでしょう。それは、倦怠の問題に最も必然的な課題を見つけて、それと取り組んでいるのが、〈教養的中流下層階級者の文学系譜〉につながる人びとだ、という意味ですね。ところが、倦怠の文学イコール敗北主義の文学、その敗北主義を肯定するのは、おかしい、というような声がありますでしょう。ですから、倦怠とか倦怠の文学という概念を、いつかの機会に外へ向けてはっきりコメントする必要がありますね。
 熊谷 
倦怠の文学という言いかたに対してむき になるというのは、倦怠 ということをネガティヴなものとしてしか考えないからなんですよ。もっとも、倦怠というのにも、いろいろありましてね、「疲労と倦怠感にアリナミンA」ですか(笑い)……でも、あれと一緒にされたんじゃたまったものじゃない。「塵労に疲れた」というのは、塵労……煩悩ですね、その塵労に溺れてしまって疲れたというのじゃなくて、疲労困憊(こんぱい)するまでに塵労の中にあって塵労と闘い続けて来た、ということ、そのあげくの死に生きの姿、ということなのでしょう。違いますか。(…)
 夏目 熊谷さんは講演の中でおっしゃっていましたね、「非行動的な人に
倦怠の思いは生じない。行動し実践するから、その実践を阻むカベにぶつかり、そして倦怠を実感するのだ。だから倦怠の問題は、階級社会が存続する限り、永遠の問題だ。倦怠を感じる人のすべてが反権力の闘争に参加するとは限らないが、倦怠感を身にしみて味わったことのないような人が闘争に参加したためし はない」というふうにおっしゃっていましたでしょう。
 熊谷 もう少し日本人らしい言いかたで喋ったつもりですけどね。(笑い)……

 熊谷 
倦怠という言葉は昔からあったんでしょうが、それがアニュイの訳語として特殊な意味で使われ、そしてそれがインテリ用語として普及するようになったのは大正期でしょうね、多分。それ以前にも、漱石なんかが「アンニュイ」という表記法で使ってはいますけれど、いわば知識人の共通の合い言葉みたいな格好で使われるようになったのは、大逆事件(明治四十三年〜四十四年)以後のことじゃないんですかしら。それが流行語みたいになって来ると、いつの時代にも気障なヤツっているものでして、実際は倦怠なんか感じてもいないくせに、オレは、アタシはブンカジンだよということを言いたいばっかりに、名刺の肩書き代わりに、倦怠だ、アニュイだという言葉を連発するような連中も出て来たわけですね。
 それでだかどうだか知りませんが、芥川や井伏は、「
倦怠」という言葉に代えて「屈託」という言葉を使うようにもなって行きますね(笑い)(…)芥川や井伏にそういう違和感をいだかせた連中のことは論外として、やはり大逆事件がシンボル・マークだということになると思うのですが、自分の人生はもはや決定し尽くされている、とれゆえの人生への倦怠感というのは、第一次大戦後のヒューマニズムの昂揚にもかかわらず、依然たる帝国主義による疎外に対する、それなりの抵抗感覚ですね。
 夏目 井伏の文学的出発は、そういう抵抗感覚に始まっているわけですね。まだまだ近代主義的な想念に縛られている点はありますけれど、これは一応別わく の問題にしまして、その抵抗感覚ということに関連して、〈個の自覚〉ということを、おっしゃっていましたね。
 熊谷 ええ。個としての自己の自覚ということなしには、わが人生というつかみ方も、人生に対してアニュイを感じるということもないわけ。むしろ、自己の人生に
アニュイを感じるということが、人びとの、この場合、自己の存在証明の仕方だったという、もの悲しさみたいなものがそこにあるわけでしょう。大逆事件以後の、また第一次大戦以後の歴史の現実場面を抜きにして、そういう想念自体を嘲笑したり切り捨てご免みたいに批判することは至って簡単だけれども、いやそれを至って簡単なことだとアンチョクに考えることに僕はあまり賛成ではないのですよ。たとえ、ひずみゆがみ があったとしても、この時点で人びとが身につけた〈個の自覚〉、〈個〉を通してものを考える、行動を選択する、という主体的な姿勢は評価されなくちゃならないでしょう。〔1978年、熊谷孝著『井伏鱒二――〈講演と対談〉』 p.129-133〕


 ○井伏文学が倦怠の文学だというのは、それが倦怠の心情にのめりこんだ文学だという意味ではありません。倦怠の問題を自己のジェネレーションの問題として、また自己の存在証明の問題として飽くことなく追求しつづけた、という意味です。それは、いわば、井伏鱒二その人にとっての、コギト・エルゴ・スムだったわけです。どうもうまく説明できませんが、世代的な自他の倦怠(アニュイ)の問題について思索しつづける、そのような自己の意識のありかたに、自我、自分の個我の存在証明を見つけた、という意味です。
 
倦怠につかまれた井伏のコギト(自我の意識)は、ところで世代を同じうする他者の倦怠の意識の存在を前提とし、それとの相互関係を前提として成り立つわけのものでした。『幽閉』の世界がそこに位置づくことになるのでしょうか。〔1978年、熊谷孝著『井伏鱒二――〈講演と対談〉』 p.191-192〕


 ○倦怠感にとっぷり漬かり切って、現実を、他者を白眼視する姿勢から生まれるものは、近代主義的な性格のエリート意識と傍観者の態度です。しかし、傍観者的独善への危険性があるとはいっても、自身に倦怠を全く感じないというのでは、これは教養的近代以前というか無文化と言うほかないでしょう。また、倦怠の問題を自己の問題として実感し得ないというのでは、その人の民衆意識にどこか欠けたものがある、ということにもなるでありましょう。
 と言いますのは、
倦怠の問題は権力の側・体制側の関心事ではなくて、それはあくまで民衆サイドの人間個々人にとっての生活意識と行動選択にかかわる問題なのですから。自己の無力感にあがきつつ、わが人生に倦怠を実感すればこそ、やがて人びとはそこに、倦怠に陥らずにすむような生き方を模索する(模索しつづける)、ということにもなって行くのですから。〔1978年、熊谷孝著『井伏鱒二――〈講演と対談〉』 p.197-198〕


 ○誤解のないように申し添えますが、
〈倦怠の文学〉と私が言うのは、自分の倦怠感なり倦怠の想念にとっぷり漬かり切って安易な自己肯定に陥っている文学……のことなどではありません。階級社会の存続する限り免れ得ない倦怠の問題を、それと対決する実践主体の問題として受けとめ、不可避的な自己の世代の文学的課題として対象化した文学、それが私の言う〈倦怠の文学〉ということにほかなりません。(…)

  (…)
同じ〈倦怠〉〈倦怠の文学〉だとはいっても、芥川は芥川であり、井伏は井伏であり、また太宰は太宰です。その意味では異なる倦怠の問題が、異なる世代的個性によってつかまれているということなのですから、三者三様、その具体的な内容や性質に違いが見られるのは当然のことですが、しかしここには基本的な点で連続面があるはずだ。むしろ、それが無いとしたらおかしい、というふうな思いになった、というのが私の気持ちの楽屋裏なのです。ともあれ、そういうことでの、〈倦怠〉概念の基調概念としての仮説的な導入、ということなのです。〔1987年、熊谷孝著『増補版・太宰治――「右大臣実朝」試論』 p.255-257〕


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