文学と教育 ミニ事典
  
観念(の眼で見る)
 ○ 中学校から高校の時期にあっては子どもたちは、もはや小学生のころのようにはムジャキに、現実にむかって体あたりして生きる、ということをしなくなります。しなくなるのが一般のようです。わたしたちがやはり、この年齢期においてそうであったように、であります。観念と行動との一応の分化が、そこに見られるわけです。そのかぎり行動とは一応別個の、観念的なまとまりを自己の内部に求めて行っているわけです。
 日常の実際行動は、与えられた常識のわく 組みにしたがってその軌道の上でおこないながら、しかし自分たちめいめいの
観念の中にもぐりこんで行って、そのかぎり抽象的なかたちで社会の中での自分自身の位置づけをさぐり、可能性をさぐり、そこに、未来へ向けての自己の現実の生き方をくふうするわけです。わたしたちが、かつて、やはりそうであったように、であります。
 それは多分に観念的なものではあります。が、社会の現実像とのある函数関係において自己の未来像を胸に描くようになります。それは、小学生のころに描いた未来像とは別の次元のものです。社会像そのものが、そのかぎり現実的具体的なものになってきているからです。そのかぎり、また、社会の現実像の質が変わってきている、といっていいのかもしれません。そういう質的な変化にともなって、その社会と向き合っている自分というものに対する評価が自分自身の内がわで変化をとげている、ということでもあります。未来形における自分というものに対する自己評価をふくめて、であります。“成人”がそこの徐々に準備され形成されつつあるわけなのでしょう。
 が、そこに形成されつつある、“成人”が、(…)疎外されスポイルされた、おとなの現在像と相似のものでしかないような、そこへ子どもたちを追いこんでいくような条件が、こんにちではあまりにも大きすぎます。疎外がすでに子どもたちの内面におよんでいる、という意味でもあります。中学生・高校生の教育が、すぐれて人間回復のための教育活動として考えられねばならない理由もその点にあるわけでしょう。
 中学生や高校生たちの教育を
――まず、中学校の教育が人間回復のための教育活動としての視点を確実なものにすることなんだ、と思います。あえていえば、あすの高校生や、あすの職場人のための人間回復の作業を中学校の場で確実におこなう、ということなのです。そのことで、中学校の教育も高校教育も、ずっと生産的なものに変わってくるはずです。
 もっとも、これは今のところ夢ものがたりにすぎません。けれども、夢を捨てたら一体、教育に何が残るでしょう?

 
観念の眼で現実を見る、見なおすということがこの青年期のめだった特徴のようだ、という意味のことを先刻わたしは申しました。また、そういう操作が、子どもや若者たちの精神の発達を約束する契機になるのではないのかとも申しました。観念の眼で見るということは、ところで、現実に対するいわばひとつの実験的な操作にほかなりません。あえていえば、ことば による実験です。あすの日の行動・実践のための、ことば による実験です。中学や高校の段階は、だからして、すぐれた意味において〈ことばによる人生設計の実験期〉である、といえましょう。
 そこで、そのような実験がそのどものあすの実践にとって少しでも有効なものであり得るように、その実験に手をかす責任のようなものが、わたしたち教師にはあるような気がします。いや、むしろ、あすのかれらの実践をよりよいものにするために、現在の実験に手をかす、手をさしのべるということこそが、小学校教師の場合とはまた違った、中学・高校の教師に固有な任務なのではないか、と思います。
 
観念の眼で自己をみつめ自己の周囲を見なおす、というこの実験にとって欠くことのできない手段(実験の手段)は、ことば です。だからして、たえず新しい眼、新しい次元で自己内外の具体的状況を見なおしていけるような、プロダクティヴなことば 操作のしかたを身につけさせていく作業が、とくにこの時期において必要とされるわけです。つまりは、中学・高校の教育体系における国語教育の位置づけの問題です。同時に、国語教育の全体系における中学・高校国語教育の機能・役割・位置づけの問題です。
 わたしたちの当面の課題にしたがっていえば、それは、まさに、中学校段階における〈国語教育としての文学教育〉の任務というか、そのありかたの問題になってくるわけなのであります。文学科の設置をこの中学校段階の後期に
――と、わたしたちが提唱し主張する理由も、とくに文学教育活動の面での国語教育の充実がこの時期において必要である、と考えるからにほかなりません。

 話を一コマ前にもどします。一コマ前のところで、子どもたちの実験に手をかすとか、手をさしのべる必要、というようなことを申しました。注記すれば、それは、その実験をあくまで実験としてみのり多いものにするために
――ということ以外ではありません。くり返して述べたように、その実験はあすの実践のためにおこなわれているわけです。それは、いやおうなしに、やがて実践に結びついていくはずのものなのです。
 実はそれだからこそ、今はヘンに実践に結びつかないほうがいい。(ヘンに、というところにアクセントがあります。誤解なきよう
――。)少なくとも、実権を放棄するというか、それを永久に停止してしまうようなかたちで実際行動に結びつく(現実の行動場面に帰っていく)ようなことは避けるべきだ、と思います。中途はんぱなお手軽なかたちで、この観念的思索の時期を終わらせたくない、といいう意味ですこの時期を“卒業”するときが、つまり、いわれているように、かれらが“成人”になるときなのですから。
 わたしは、こう思います。観念的すぎると思われるまでの観念への沈潜がこの時期に、たっぷり時間をかけておこなわれてこそ、将来、たえず自己をつき放して、みつめなおすことのできるような、“成人”もそこに期待されるのだ、というふうに
――
 
観念への沈潜ということばに引っかかるものがあるなら、それを、現実を距離において見る、といってもいいのです。ともかく、それは、現実を一歩しりぞいたところで現実について思索する、というふうな意味です。誤解を避けていえば、現象ベッタリになって現象に引きずり回される、ということのないように、現実の中から現実を見る、ということです。そういう沈潜は、人間にとって生涯必要なことのように、わたしには思われます。
 青年期の沈潜は、ところで上記のように、そのかぎり多分に
観念的なものです。わたしたちがわたしたちの生涯を通じて必要としている沈潜とは、そのかぎりまた別の性質のものである、といわなくてはなりませんが、この年齢期において、こうした沈潜の時期をもたなかったような人が、上記のような成人の沈潜(あるいは成人としての沈潜)を先へ行ってから経験するというようなことは、まず期待できない、といっていいのではありますまいか。
 その人は生活年齢の上の(つまり生物学的な意味での)青年期は経験したかもしれないが、真実の意味での人生の青年期は経験しなかった、ということになりましょう。青年期らしい青年期を経験することなく、いつか三十、四十になってしまったような人
――それが、つまり、“おとな”というものです。いわゆる意味の“おとな”、“発達のとまった子ども”という意味での“おとな”というものであります。
 中学・高校の段階において文学教育が強化されねばならない理由は、もはや明らかでありましょう。それは、ティーン・エイジャーに青年期を、真実の意味における人生の青年期をもたらすために
――であります。〔1966年、文教研著『中学校の文学教材研究と授業過程』p.13-16〕


 ○実践とは、何らかの事態・状況の変革をめざす意識的、計画的な、またその意味で合目的的な行為のことを言うのであろうが、人びとを実際にそういう行為にかりたてる動機づけは、単に、「われ、かくかくの行為をなすべきであるゆえに」といった
観念にだけよるものではないだろう。べきだ、べきでない、あるいは、ねばならない、といった観念だけでは人は動かないし動けないのだ。それは、あるいは、動きようがないから動かない――行動に踏みきれない、と言ったらいいだろうか。特に、持続性を必要とし、持続的であることを要求されるな実践的行為において、そのことが言われるのである。
 そこで実践を触発する現実のモティーフは何かということだが、べきである、ねばならない、という観念は確かに必要である。が、その観念は、実践の過程と結果に関するある程度明確なイメージを、その裏打ちとして用意しえたものでなければならない。いわば、イメージぐるみのそうした観念がそこに必要とされるのである。言い換えれば、それは、自己の実践のありようとその対象となるものとのダイナミックスを照らし出してくれるような、顕在化されたイメージにほかならない。少なくとも、そのような顕在化されたイメージ、形象(Bild)にまで造型された客観化されたイメージによる自我の実感構造への揺さぶり
――あるいは、その結果としての実感構造の変革――ということが、持続性の一貫性が要求される実践的行為にとっては行為の前提にならざるをえないだろう。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.130-131〕  


 
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