文学と教育 ミニ事典
  
改稿/改稿過程
 井伏という作家は自分が納得ゆくまで、あるいはまた、あとで納得がゆかなくなると、自分の旧作を何回も何回も書き替えているのです。一度、雑誌に発表し、、それを単行本に再録する際に改稿したそのあとでも、気の済むまで改稿しつづけるのですよ。十年がかり二十年がかりで、それをやっている。
 その改稿には、文章に凝るというかたちのものもあります。自分の発想が実際の文章として、その文章に定着し切るまで徹底して言葉探し、言葉選びをやるのです。
 それから、発想そのものの変化、転換に伴なう表現の選び直しですね、そういう改稿もあるわけです。多くの場合、その両方のファクターが入り交っているわけなんです。
 ですから、井伏作品の場合は、題名が同じだからといって、その中身まで、つまり作品形象のありようまでもが同じだとは限らない。正直いって、それで頭が痛いんです、このひと月来の私は……。私が頭が痛いというのは、それを井伏さんにぶつけるのは筋違いでして、もの申したいのは、井伏文学がご自分の守備範囲だと考えているようなスペシャリストの方たちが、どうしてそういう基礎的な、
改稿過程をきっちり跡づけるという作業面に目を向けないのかな、という……実はもの申すではなくて、そういう仕事を結局自分でやるほかないところへ追い込まれた私の愚痴です。
 つまり、そういう作品の改稿過程を辿って、その改稿の持つ虚構論的な意味……というと、こむずかしく聞こえるかもしれませんけれど、改稿することの、また改稿したことの文学的必然性ですね。あるいは、作家主体に即していえばその文学的執念ですね、内的必然性ですね、そういうことを明らかにしてゆく必要があろうかと思うのです。〔1978年、熊谷孝著『井伏鱒二――〈講演と対談〉』 p.14-15〕


 文学史ということを念頭において考えますと、作品の
改稿過程や改稿のありかた、改稿の必然性あるいはその意味というようなことを考えてみる必要性が生じてまいります。少なくとも、初出と現在のかたちのものとの混同や取り違えは困る、ということなんです。
 ところが一般にどうも、そういう困ったことが行なわれています。
改稿過程を逆に辿り直して問題のありかを探る、という問題意識、文学史的な課題意識が欠けているせいだと思います。〔1978年、熊谷孝著『井伏鱒二――〈講演と対談〉』 p.22〕


 教室での(…)扱い方についてなのですが、『山椒魚』を扱う場合に例をとれば、今のような『山椒魚』の作品形象が完成・完結するまでには、大正十何年かから昭和二ケタの年まで二十年近くかかっているのだよ、という、文学創造の歴史としての文学史の重みについて学校の先生方は教えるべきなのでしょうね。そういう教育の仕方で文学教育が行なわれていれば、たとえ『羅生門』の
改稿がどうのというような自分になくとも、あの訳文の場合なんか」ですけども、相手をまちがっていると決めつける前に、今の自分にはまだわかっていないような何か文学史的な事実があるんじゃないのかと、いちおうは考えてみるような構えを、人びとの心のどこかに根づかせることになったろうと思うのです。
 つまり、今までの、また現在の文学教育のどこかがおかしいのです。〔1978年、熊谷孝著『井伏鱒二――〈講演と対談〉』 p.27-28〕
    
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