文学と教育 ミニ事典
  
ユーモア
 ○井伏文学の大事な文学性質の一つにユーモアということがあります。ユーモアという笑いの特徴的な性質は、それが自分をつき放し戯画化して自己凝視ができる人のものだ、ということができましょうが、(…)〔1978年、熊谷孝著『井伏鱒二――〈講演と対談〉』 p.73〕


 ○これらの作品[『幽閉』や『山椒魚』]や、またそれに続く井伏作品の多くがペーソスユーモアを湛(たた)えた作品になっているというのも、一つには、やはり、民衆サイドの人間個々人のどうにもならないその無力感と、無力で矮小(わいしょう)な、そうした自分自身に対する、謙虚でごまかしのない自棄評価が意識の根底にあるからでありましょう。
 その
ユーモアの性格について言うなら、そこでの笑いは、むろん自己顕示の哄笑などであるはずはありません。多くの場合――あらゆる場合ではないけれども、多くの場合――そこで笑いものにされている人物の性格や想念や行為の一つ一つに作家の主体がかかわっているようです。いってみれば、笑われても仕様のない、しがない自分であることがそこに意識されているわけでしょう。(その点、太宰文学のユーモアやジョークも、井伏文学のそれに通じるものがあるわけでしょう。……というようなことを思うと同時に、一方では、自分のモラルやモラル観、信条といったものに対して絶大な自信を持っているような、教祖的な作家・評論家の書くものに、ユーモアのカケラすら見られない理由についても、ははん、それもそのはずさ、と肯けて来るものがあります。)
 そこで、つまり、ユーモアを必要としないモラリストや自信家にとっては、井伏文学は無用の文学だということになりましょう。一方、『山椒魚』の主人公ではありませんが、体当たりしてみても弾き返され笑いものになるのが落ち、という現実のカベの厚みを身にしみて実感し、自分のやくざな身の上を嘆いている者にとっては(「ああ神様、どうして私だけがこんなにやくざな身の上でなければならないのです?」――『山椒魚』)、井伏文学のユーモア
ペーソスが、自身、絶望の淵に沈まないための必要な支えになって来るのです。
 その笑いは、「濁った水のなか」で笑うことで、ますます水を濁らせてしまう、あのえび の笑いではありません。それは、いっとき水の濁り忘れさせてくれる笑いです。(なんだ、痛みどめの麻薬の効果か、などとおっしゃらないでください。あなたには歯痛の経験はないのでね。切開手術の経験もないのですね。経験のない人は少しのあいだ黙っていてください。歯痛でのたうち回っている人間には鎮痛剤が必要なのです。また、手術に麻酔は必要なのです。)
 麻酔の利いている間に(苦笑したり微苦笑している間に)どう自分を処理するかは受け手(読者)――当事者しだいです。痛みが薄らいだその瞬時に享楽に身をゆだねる刹那主義に走ろうと、その間にからだ の腐った部分を切り取ってしまう手術をやってのけようと、重ねて申しますが、それは当事者(読者)しだいです。文学はそこまでの責任は負いませんし、また負えもしないのです。どういう生活実践がそこの導かれて来るかは、〈創造の完結者〉としての読者の主体のありようしだいです。〔1978年、熊谷孝著『井伏鱒二――〈講演と対談〉』 p.198-200〕



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