文学と教育 ミニ事典
  
現代/現代芸術
 ○わたしは、“現代の芸術”と“現代芸術”とを区別して考える。“現代の芸術”というのは、今日の時代が生産している芸術全般のことをさしていう概念である。そういう“現代の芸術”の中に、いったいどれだけ、またどの程度に真実現代芸術の名に値するような、新しくアクチュアルな芸術と芸術精神が息づいているか、ということなのである。

 “
現代”は、主体の姿勢がどういうものであるかということを不問に付したまま、だれもがじかに 手で触れられるような形において、そこに静止しているわけではない。不可能を可能にしようとする夢をもつ人間の実践だけが、瞬間、瞬間のそれへのアプローチとタッチを可能にする。何かそういうものが“現代”というものである、というのがわたしの実感だ。つかめた、と思って足を休めた時には相手の姿はもうそこにはない。それが“現代”というものだ。
 「森の中にある者は木を見ない。」「森が森として見えてこない。」というようなことが、あるいはわたしたちの場合にあるのかもしれない。現代という名の森の中にあって、そのことをう思うのである。わたしたちは、どこか別のところからこの森に迷い込んできたわけではないのであって、わたしたちがそこに生まれ、そこに育ち、そこで生活しているのが、この“現代”にほかならない。実はそれゆえにこそ、逆にその実態が、全体像がつかみにくいのである。
 部分的に、かつそれを微視的にわたしたちは現代を知っている。が、わたしたちの知っているその部分が全体との関連を見失ってしまっていて、部分や側面としての意味を欠いている場合がほとんどである。まさに、木を見て森を見ない、いや見えにくい、見ることが不可能に近いのである。少なくとも、日常性の次元にとどまる限りは――ということである。
 で、その不可能と思われることを、虚構の精神と方法によって可能にしよう、という夢をいだくことこそが芸術精神というものだろう。ひとり芸術家だけの問題ではない。ひとしく、芸術に心のささえを求める人々に共通の問題である。

 もう一度言うが、古いしきたりと秩序に満足し、既成の秩序の前に頭を下げるところからは“
現代”は出発しない。変革と創造の実践的契機においてだけ現代がわたしたちのものになるのである。精神の秩序からすれば“現代”は、その人その人にとっての主体の問題、自我の問題であるからだ。
〔1969年、熊谷孝著『文体づくりの国語教育』p.16-17/改稿 1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.103-105〕


 ○古い秩序にベッタリの姿勢と、流行ベッタリの姿勢とは、見かけの上の違いにもかかわらず、精神構造はまったく同一のものだ、ということである。そこには、現代というものを見きわめてやろう、というものがない。真実これが現代だというものを、自己の主体的な実践の問題
――実践の対象――としてつきつめよう、というものを欠いている。適当に新しいものをあしらって、適当に古い秩序とよしみを通じる、という態度なのだ。叱られそうだが、前衛いけ花などがそういうものの今日的な代表だろう。(…)
 芸術もへったくれもなくなりかけている、この現代の芸術状況からどう脱け出すかが、そこでどうやら“
現代芸術”の課題だということになりそうである。
〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.107-109〕  


 

関連項目(作成中)

ミニ事典 索引基本用語