文学と教育 ミニ事典
  
芸術的認識/形象的認識
 熊谷  芸術的認識というのは、形象的認識の極致と言っていいような、典型の認識ですよね。イメージを典型的形象にまで顕在化し造型する、という、そういう高度の表現行為を営むことでイマジナブルな認識を自分自身に成り立たせる――そのことが芸術的認識の前提であり基本ですものね。認識は認識、表現は表現、といった二元論は芸術的認識においては最初から成り立ちません。認識は確かだが表現はまずいとか、表現はすてきだが認識が甘い、というふうな議論は、芸術認識論の場からは早々にお引き取り願わなくてはなりませんよね。

 編集部  あまり時間もありませんが、ひとこと、日常性・非日常性という熊谷さんの考えかた、発想のアウト・ラインについて……。
 熊谷   日常性とか非日常性というのは、さしずめ、体験の日常性・非日常性というふうな意味だとご承知いただければ――と思うんです。生哲学や実存哲学一派の人たちの考えるような凝った意味は、わたしの使う体験という概念にはありません。ごくドライな意味での体験ということです。で、その非日常性のポール(極)に科学性と芸術性というのを位置づけて考えているわけです。つまり、@概念的認識(思考活動を主軸とした、概念による概念への認識)の極に科学的認識が位置づき、A形象的認識(イマジネーションのはたらきを主軸としたところの、自己のイメージの追跡による、形象造型へ向けての認識)の極に
芸術的認識が位置づくわけなんだが、そういう認識の営みを、自分自分の――自分という人間の実践的な営みとして、さっきの話じゃないけど主体的な実践の問題としてつかみ直すと、そこに体験という概念が導入されてくるわけなんです。
 そうやって考えて行った上で、ある意味で一番重視されなければならないのは日常性だ、というところへ判断が落ち着いたわけなんです、ぼくの場合は……。というのは、いっさいの認識体験、いっさいの感情体験の源泉と起点は日常性にほかならない、ということが一つ。
 第二に、最初未分化な形の日常性が、教育や学習を通して次第に科学性や芸術性の方向へ分化していくわけですが、しかし分化のしっ放しということはないのであって、それがもう一度日常性に帰り着いてある統一にもたらされるわけです。科学性と芸術性との、日常性における統一という意味です。そのことで、日常性が高まっていくのですね。日常的な生活実践や政治的な実践を行なうのは、実はこの〈日常性における自我〉なんです。言葉系(=第二信号系)や何やが行動の系(=第一信号系・運動感覚系)と結ぶのは、この日常性においてであるという意味で、そこに目を向ける必要があるわけなのですよ。
 第三に、こういうことが考えられなくてはいけないと思うのです。
形象的認識芸術的認識が成り立つのは、それが概念的認識・科学的認識に支えられてのことでしょう。逆も真なりでして、概念的、科学的認識の営みも形象的な認識に支えられてこそ、ギクシャクしないでスムーズに進行する、ということなんでしょうね。イメージの支えの弱い観念や概念は、それこそ悪い意味で観念的というヤツで、役にも立たない干からびた観念が観念的にそこに空転する、ということになってしまいます。確かな観念の裏打ちを欠いたイメージ――これはまた、フヤけたイメージでしかありません。
 ところで、観念とイメージとの、科学性と芸術性とのそういう支え合いですが、@科学性→日常性→芸術性という形で、またA芸術性→日常性→科学性という形で、日常性を媒介的通路として行なわれているわけです。それと同時に、G日常性⇔科学性、C日常性⇔芸術性という絶えざる往復・上昇循環がそこに行なわれていることは、これは一々断わるまでもないでしょうね。形象的認識/概念的認識
 ですから、ぼくたちが
形象的認識とか芸術的認識とそう呼んでいるものの過程的構造は、日常性を媒介として、そこをくぐって導き入れられた限りでの概念的認識――それを狭義の概念的認識と呼ぶとしますと、その、狭義の概念的認識を内包しているわけなのです。結論を言いますと、狭義の形象的認識と、狭義の概念的認識との過程構造的統一体として、いわゆる形象的認識(=広義の形象的認識)を考えてみているわけです。むろん、この場合、狭義の形象的認識が、この広義の形象的認識の核であり主軸であることは断わるまでもないことです。(いわゆる概念的認識・科学的認識の過程的構造についても、だいたいその裏を返した形で考えていただけばいいかと思います。さまにならない図形ですが、次の図形について、だいたいのところをお察しいただくことにしましょうか。この図形に文体のことを書き添えたのは、説明文体というのは概念的認識を、描写文体というのはその意味では形象的認識を成り立たせる文体なんだ、ということを言いたいからです。)
 ともかく、こういう押えかたをすることで、漱石や芥川たちのFプラスf方式の寄せ木細工的な文学構造論ともハッキリ袂(たもと)を別(わか)つこともできますし、文学・芸術における主体的真実の追求が、やはり客観的真実へ向けての欠くことのできない、一つの追求のしかたを示すものなこともハッキリしてくるかと思うんです。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.192-88〕


  
〔関連項目〕




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