文学と教育 ミニ事典
  
道徳感情
 「無礼だなあ。」――これが、文学精神である。
 教師があらかじめ徳目と見合うような解答を用意しておいて、あの手この手と策を講じて児童や生徒たちをそこへ誘い込む――これは文学教育では、むろんないし、プロパアな意味で道徳教育でもないだろう。こと文学教育に関して言えば、それは作品の表現が示しているような、まあたらしい感情、感情体験につながっていけるような感情の素地を、子どもたちの体験の中に探り求めて、それを子どもたち自身に自覚させる作業だ。そのようにして、素地について自覚をもたらすと同時に、そういう感情の素地をひとまとまりの感情体験にまではぐくむ仕事だ。それは、いわば素材(事物)とともに与えられた作品のテーマと、その同一事物に対していだく子どもたち自身のテーマとの対決を成り立たせる(媒介する)場である。
 それは、あるいは次のようにも言えようか。作品と向かい合うまでは漠然とした形でしか意識されていなかったような、その事物に対する自己の感情にテーマを与えることで区切りをつける体験である、というふうに――。つまり、そのことで、子どもたちは人生に対するある姿勢を主体的に準備するのである。あるいは、そういう姿勢を調える足がかりをつかむのである。
 そういう姿勢は当然、モラーリッシュなものを含んでいる。
道徳感情――それは本来、人間の感情(生活感情)をある側面において切り取った時に呼ばれる呼び名にほかならない。が、ここでハッキリさせておきたいのは、文学教育によるそのようなモラル・モラリティーの形成は、まさに、文学教育プロパアな活動の結果としてのみ 生まれうるものだ、という点である。ある種の徳目に合わせて、それを教え込む手段として文学作品を「利用」する、というような姿勢からは、かつての修身教育がそこに再現するだけのことである。文学作品を「道徳」教材として「利用」することは許されない。道徳教育プロパアな視点からいって、それは許されないことである。
 ことばを重ねるが、文学作品は、それをあくまで文学作品として扱うのでなければ、モラルの形成も、モラリティーの変革もそこに実現しはしない。文学は、そして究極において、めいめいがめいめいに、自分でわかるほかないものだ。自己の感情の素地が育
(はぐく)まれてくることで、同一の作品の表現する感情も(したがって道徳感情も)前とは違った次元で「わかる」ようになってくるものだ。(…)
 
 文学教育の作業は、だからして子どもたちの感情と想像の素地をはぐくむことだ。それは、感情を組み替え、作り替えつつ想像的意識をはぐくむ仕事だ。そういう営みを、文学教育は、作品の文学として の読み――じっくりとした読みの指導を媒介として行なっている。そういう教育活動は、広い意味で、そして真実の意味において道徳教育活動の一環である、と言っていい。いや、文学教育を欠いて真実の道徳教育は実現するはずがないのである。
 わたしの言いたいことは、こうだ。文学作品の主題を強引に徳目化して解釈したり、文学教育の内容や方法や教材をヘンに道徳づいた ものに改めようとする企ては、逆に道徳教育にとってマイナスである。早い話が、「道徳」実施要綱が指示しているような、芥川の『くもの糸』を「利己的な行動を反省して互いに助けあう心持」を養う教材に「利用」する、という風な厚顔無恥というか非常識というか、ああいう強引さは「道徳」教育の信用を落とすだけの話である。〔1969年、熊谷孝著『文体づくりの国語教育』p.368-370〕
    

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