文学と教育 ミニ事典
  
冒頭の書きだし/冒頭の印象
○主観的な反映像としての印象は、文章全体を読み終わってからはじめて明確な姿をとるというものではない。最初の一行に触れたときから、なんらかの印象が成立するのである。その印象がまっとうなそれであるかどうかは別として、作品の全体像へのなんらかの予測を含んだ印象がそこに成立しているのである。白紙の立場で読みすすめるというのは、人間の反映過程を無視した機械的唯物論の立場以外にありえない。
 部分部分の読みをたいせつにする総合読みは、したがって、
冒頭の印象の追跡から出発する。自己の印象がどの時点においてまっとうであったか、どこで狂ったのか、あやまった表現理解は、どんな事情で生まれてきたのか、それは自己の文体的発想――文体として定着し文体に集約された発想――のひずみやゆがみとどう関連しているのか等々を、ごまかすところなく点検し、追跡するために、まず冒頭の読みを重視するのである。〔1970年、文教研著『文学教育の構造化』 p.23〕 


○改稿されたこの作品
[『丹下氏邸』]の方は、冒頭から何とはなしに、どこかそういうユーモラスな雰囲気を漂わせている作品になっているわけなんです。書きだしの冒頭の部分というのは、人間でいえば顔つきとその人の表情みたいなものでして、オーストリアのカインツという人が『言語心理学序説』とう著書の中で言っていることなのですけれども、話がうまく通じるかどうかは、話の出だしをどう受けとめるかという聴き手の解き口で決まる、というのです。
 それをカインツの用語では、“話の志向”、レーデ・インテンツィオンと言うんですけど、そのことを話し手や書き手の側に回っていいますと、
冒頭の書きだし書きだしの部分が意外に大事だということになりますね。達者な作家はみんな書きだしがうまい。川端康成の有名な『雪国」の書きだしみたいにですね。〔1978年、熊谷孝著『井伏鱒二――〈講演と対談〉』 p.19-20〕
 

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