文学と教育 ミニ事典
  
“あそび”/“あそび”の精神
 ○アマチュアリズムは、そしてまた本来的にアマチュアリズムに根ざすところの、“あそび”の精神は決して本能的なものではありません。それは意識的な精神の行為なのです。むしろ、よりよい実践への志向(インテンション)以外のものではありません。
 
“あそび”の精神が、精神のアマチュアリズムからしか生まれ得ないというのは……いえ、これは蛇足でした。作りたいときに作る、つまり作りたいから作る、つまりまた作りたいものを作りたいように作る、というアマチュアリズムの精神と姿勢に前提されなくては、作るという行為自体が“あそび”として楽しめるものにならないのは自明のことだからです。〔1987年、熊谷孝著『増補版・太宰治――「右大臣実朝」試論』 p.109-110〕


 ○進撃の譜にかえて起床の譜を吹く……それは、やろうとしてやれることではありません。と同時に、意識しないでやれることではない……。そのようにして、「生死の境に立って」そういうことが意識してやれる、しかも自然にそれができる、というのが
“あそび”なのであります。それは、笑いの中に自分をつき放して冷徹に問題のありかを探る、という喜劇精神とも通じるものがあるようです。いや、むしろ、喜劇精神というのは本来、このような“あそび”の精神において志向され媒介された精神のことなのでしょうね。〔1987年、熊谷孝著『増補版・太宰治――「右大臣実朝」試論』 p.110-111〕


 ○
“あそび”の精神とは「子どもが好きな遊びをするような気持ち」でいっさいのことに立ち向かうところから生まれるものだ、と鴎外は語っています。いわば、“あそび”に人生を賭けるのです。賭けは成功する時もあれば失敗する時もあるわけです。つき が回って来なければどう仕様もないのが賭けです。ところで、これは“あそび”なのです。所詮“あそび”であり、ただの“あそび”にすぎません。失敗してもともと でしょう。……と、そこまで割り切って考えないことには、“あそび”にはなりません。ガンベッタ「の兵士がいっさいを起床の譜を奏するという“あそび”に賭けたように、であります。
 
“あそび”の精神にとっては、したがって「真剣も木刀もない」のです。木刀の場合は遊べても、真剣の場合はこれは別、という人は遂に“あそび”の精神とは無縁の人です。木刀の場合も真剣の場合も、人生の「あらゆる仕事に対する“あそび”の気持ち」……その気持ち、メンタリティーがいつかわれわれにこの“あそび”の精神をはぐくんでくれる、と木村(=鴎外)[森鴎外『あそび』の主人公]は考えるわけなのです。
 ところが、この木村のことを、「文壇では批評家が真剣でないと言って、けなしている」のです。批評家だけではありません。彼の細君ですら、「あなたは私を茶化してばかりいらっしゃる」と言って非難しています。その細君とは結局、離婚することになりますが、どうもそんなわけでして木村の
“あそび”の精神は周囲の理解を絶しているようです。
 しかし、他人に理解されようとされまいと、また他人に不快の念を起こさせようとも、彼にとっては「この、
“あそび”の心持ちは与えられたる事実」以外のものではありません。それは、夢中になって石ころや折れ釘などを集めてはさも大事そうにしまい込む、子どもたちのガラクタ集めの遊び心に通じるものがありそうです。それは、いわゆる意味の有用・無用の観念を離れるところから生まれる“あそび”の心なのです。実益はなくとも面白いものは面白い、というアマチュアリズムの精神に前提され裏打ちされた“あそび”の心にほかなりません。〔1987年、熊谷孝著『増補版・太宰治――「右大臣実朝」試論』 p.112-113〕



 ○ ガラクタ知識は所詮ガラクタ知識だけれども、しかしそのガラクタ知識がないことには仕事にならない。どこからどう手をつけていいかも見当つかない、ということなんですよ。で、そういうガラクタ知識というものは、子どもたちが石ころだの折れ釘だの、つまらないものを夢中になって集めて、さも大事そうにしまい込む、あの、ガラクタ集めのマニア的なものがないと……つまり、いわゆる意味の有用・無用の観念を離れて、おもしろいからつい夢中になってそれに打ち込むというものがないと、ガラクタ知識の手持ちはできない。鴎外は、それを“あそび”という言葉で言っているわけですが、“あそび”というのは、しかし「本能」じゃなくて「意識」的な精神の行為だと鴎外は主張するわけですよ。
 新聞で読んだんだけれど、ハーヴァードの数学担当の教授をしている日本人数学者(このかたは数学のノーベル賞といわれるフィールズ賞受賞者だそうですが)、この数学者が次のようなことを言ってるんです。数学の研究作業も、全部理づめでやると、非常につまらない結論しか出ない。今までだれも解けなかったような問題、まったく新しい問題について、何となくできそうだなあという、バク然とした、ただの感じだけにすがって、五年も六年も考え続ける。そういう中で、ふっと京都の庭のことを想い浮かべる。(ちなみに、この数学者は、旧制三高・京大の出身です。)すると、長年考え続けていた幾何学の図形について、あれを樹木に、これを庭石に、間に小径(こみち)をつけて……とイマジネイトして行ったら、全体がうまくまとまった、というんです。
 概念による概念の形成という学問の作業も、そこにイマジネーションがはたらかなければ――つまり、イメージづくりが共働しなければ概念づくりもうまく行かない、という事例としておもしろい事例になるわけですが、そこに、そういうイマジネーションがはたらくためにはガラクタ知識が必要だ、ということを示している点でも、この数学者の経験はおもしろいですね。京都の庭に関するガラクタ知識(?)が、ここでものを言ってるわけですね。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.187-188〕  




 ○ 実人生を、芸術を、ふざけ半分に考えている、というのは誤解である。ディレッタンティズム? ……冗談じゃない。彼[鴎外『あそび』の主人公木村]の気持からすると、「真剣も木刀もない。」ということなのだ。いっさいの人生の営為が「あそび」だ、ということ以外ではないのである。
 ――「ガンベッタの兵が、あるとき突撃をしかけて鋒が鈍った。ガンベッタがラッパを吹けと言った。そしたら進撃の譜は吹かないで、起床の譜を吹いた。イタリア人は生死の境に立っていても、遊びの心持がある」云々。
 
「あそび」の精神は、いわばこのラッパ兵のそれである。真剣も木刀もないのである。それが平穏な日常の生活場面であろうと、生死のどたん場であろうと、区別はないのだ。それが自分にとって生きがいであるもののほうを選ぶ、ということなのである。「あそび」――それは、与えられたる事実である。
 ガンベッタのラッパ兵にとっても、それは「与えられたる事実」であったに違いない。それが自分にとって楽しいから起床ラッパを吹いた、というまでのことだろう。それは意識してできることではない。と同時に、意識しないではできないことである。そこでは、日常の生活における「あそび」の精神への徹底が問題である。
 この兵士が生死の境にあって起床の譜を吹けた ということには、ガンベッタの兵士たち の間に「あそび」の精神が先在していた、ということがあるわけだろう。そうでなくては彼は、起床の譜を吹奏することは不可能だったろう。また、それを吹いてみたところで、どうということはなかったろう。「あそび」の精神に生きる者同士の信頼感というか連帯感が、むしろそこでの問題だろう。

 きみは何を考え、どう思ってきみの作品を書いているのか、という職場の同僚の問いに答えて、木村はこう言っている、「作りたいとき作る。まあ、食いたいとき食うようなものだろう」と。それでは、
「あそび」とは本能なのか?「本能じゃない。」と木村は答える。なぜなら、自分はそれを「意識してやっている」から、と。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.196-197〕 




〔関連項目〕
文壇/文壇人/アマチュアリズム

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