N さんの例会・集会リポート   2006.02.11 例会
 
  
 人を行動に駆るメンタリティーのありよう――太宰治『新釈諸国噺』「女賊」「赤い太鼓」


 文教研のNです。

 先日の例会では太宰治『新釈諸国噺』の中の「女賊」「赤い太鼓」を読みあいました。

 「女賊」については、話題提供者の I .M.さんが4点に渡って論点を提起してくれました。

 1
 山賊、瀬越について。
 戦国時代が場面というなかで、彼は決して一般的な山賊ではない。毎日殺戮を繰り返し、その一方で高邁な趣味を持つ。それが矛盾しない人間だ。こういう文化性・趣味性とは何か。こんな人間が存在するのか。しかし、そこには実際の権力者の姿が明瞭に表されてはいないか。

  瀬越が見初めた娘の父親について。
 由緒ある公家であり、そうした教養を持ち合わせてはいるが、それも結局アクセサリーでしかない。娘に対し、自分が山賊の嫁にやっておきながら、それがあたかも運命であるかのごとく「女三界に家なし」という言葉で言いくるめようとする。自分のために他者を犠牲にしてもそれを正当化し、何も傷つくことのないメンタリティー。「女三界に家なし」の繰り返しは、昭和19年の読者にとって、実は「捨て子」にさせられていく民衆、自分たち自身へ向けられた権力者の自己正当化の言葉ではなかったか。

 3 瀬越の妻となった娘について。
 状況に適応していく中で人間性を失い、殺戮もむしろ喜びとなっていく。そこには父親と夫との二重の疎外の中で、加害者へと変貌していく姿がある。エセ連帯感の中で夫を英雄視していく姿。そこには銃後における女性の変貌の問題があるだろう。

 4 「父子二代の積悪はたして如来の許し給うや否や。」という終わりの問いかけるもの。
 父の死によって山賊集団はばらばらになる。そして、残された娘たちの、一反の白絹のために相手を殺してでもそれがほしいと思うメンタリティー。どうしてこんな人間ができてしまうのか。瀬越の、京都の親の、一人一人の責任は。人間をこうした行動にまで追いやってしまうものは何なのか、読者に問いかけてくる文末だろう。

 以上のような、整理された問題提起を受けて議論は進みましたが、そこでは『右大臣実朝』における後鳥羽院像、そこに描き出された「山賊」的文化・教養の問題を含め、本当の教養とは、文化とはということが多角的に話題になったと思います。

 「赤い太鼓」
については、話題提供者の K.M.さんがこの作品が持つ他の作品とは違う印象、お裁きの場面とそこの中心人物である「板倉殿」への強い共感を軸に、人に施しをした気になる顔役たちメンタリティー、「恥をかかされた」と感じる徳兵衛や女房が子供まで巻き添えにして死のうとする意識などを問題にされました。討論を通して、徳兵衛をめぐる問題には昭和18年段階における隣組的問題、そして、「板倉殿」のような役人と現実の役人のあり方の対比の問題が指摘されました。「板倉殿」の、人間の誇りに訴える爽やかな人間性と論理性が鮮明になっていったと思います。

 次回は「粋人」「遊興戎」と読み進めます。

 〈文教研メール〉2006.2.24 より

 

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