N さんの例会・集会リポート   2004.05.22 例会
 
  
 <喜劇精神>に支えられた「笑い」とは


 文教研のNです。

 先日の例会は、Sさんが全国集会プログラム 基調報告@「戦中の太宰の場合」について、現段階での材料提供をしてくれました。この日の前半は、「ケストナー手帖(仮称)」をめぐってタイトルや執筆要綱などに関する質疑が行われたので、例会後半の1時間半ほどが、Sさんの話と質問に当てられました。

 Sさんは、<喜劇精神>に支えられた「笑い」とはどういうものなのか、ということについて、飯沢匡戸坂潤の文章を引いて話されました。

 飯沢氏の話を巡っては、二つの事が印象に残りました。一つは、日本人の「笑い」の歴史の問題です。飯沢氏曰く、日本人には「笑い」がない。しかし、それはもともとなかったのではない。江戸の町人文化にしても、それ以前にしても、民衆の中には笑いがあった。それが抑え込まれていく上で、大きな役割を果たしたのが、儒教に裏打ちされた「武士道」だ。この「武士道」」的な精神によって失われていく「笑い」を、「検閲下文化の復興」として持ち続けようとした人たちの中に、唯物論研究会の中の「サンチョ・クラブ」という面々がいた。飯沢氏の証言によれば、「笑い」に対する理論的土台の上に、創作活動を行おうとした人々の集団が、そこにあったというのです。

 そして、もう一点印象に残ったのは、「風刺には日付がある」という指摘でした。村上春樹さんのいう「翻訳には賞味期限がある」ということにも通じるでしょうか。ですから、そうした文学を再評価するには、しっかりとした場面規定が必要です。同時代人でない私たちが心の底から「笑える」ためには、かなりの労力を必要としそうです。

 戸坂潤の指摘(「笑い・喜劇・及びユーモア」・『思想としての文学』所収)については、ここを基本に太宰や井伏、ケストナーの「笑い」を考えていく必要を強く感じました。印象に残ったところ、というより、論理的にしっかり追っていきたいと思いました。「笑い」の基本的な論理構造。その段階的な現れ方。そうした事を、私たちは具体的に考える上質な材料を持っているわけです。2004年という現在の、このグローバルな現実の中で、この戸坂氏がいう「笑い」を、民衆本来の精神を取り戻す手段として使うにはどうしたらいいのか。全国集会ヘ向けて、力が湧いてくる感じがしますね。 〈文教研メール〉より


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