N さんの例会・集会リポート   2003.12.26-27 冬合宿
 
  
  『高瀬舟』の読みを通して


 文教研のNです。

 26、27日と冬合宿に参加してきました。内容は前回例会に引き続き、田中・齋藤論文の理論を「高瀬舟」の読みを通して、熊谷理論と対比しつつ検討することです。

 この冬合宿でやった事は何なのか、もう一度考えてみました。文学教育の場において、田中実さんは「『文学のことば』の復権のために」ということをいう。読みのアナーキーということがいわれ、文学教育をとおしてともに語り合うことが、軽んじられている現実がある。こうした中で、文学に出来る事は何なのか。本来、文学現象とは、どういう性質のものなのか。論者の人柄やイデオロギーの問題ではなく、論理的に詰める必要がある。この合宿では、それを語り合う中で、最終的には人間観の違い、というところまで話は進みました。

 今回の合宿の今までにない特徴は、こうした理論的対立の問題を作品の読みを通して検証した点でしょう。「高瀬舟」について作品の朗読もきちんとして、印象の追跡を行いながら論理的検討が行われました。冒頭から色々な話題が出ましたが、印象的だった齋藤論文との違いの一つは、最後の部分でした。「次第に更けていく朧夜に、沈黙の人二人を載せた高瀬舟は、黒い水の面をすべって行った。」ここについて、齋藤論文は「〈喜助と庄兵衛がいかに出会えないか〉という問題としても読めるだろう」といっていますが、この「沈黙」はそうしたものなのでしょうか。
 言葉を交わしていなければ、人はコミュニケーションしていないのでしょうか。庄兵衛の内側で喜助との対話があればこそ、彼は自分自身の姿に気づき、彼の内面はゆれていくのでしょう。人間が丸ごとわかりあうなんてことはない。だからこそ、共軛しあう部分で繋がりあう事が大切なのです。

 場面規定論の重要性、哲学史を取り込むことの重要性などが明らかにされました。そうして、作品の検討を終えた後、最後のS発言、Iz発言も印象的でした。Sさんは、田中さんの場合、「了解不能な他者」「プレ本文」といったものを求めていく、というが、それは本来、探し回ってどこかで「見つける」ものではない。それは自己の内なる読者の組替えのプロセスであり、「ラッキョウの皮」を自ら一枚一枚作っていくように、「作っていく」ものなのだ。そのために相互に映し合うのである。「自己化された他者」を倒壊するというが、相手の中にもまた自分という他者は相手によって「自己化」されて映っている。そこにおいて映しあえるはずなのだ。しかし、そこに目を向けず、つかめないものを追いかけようとする姿勢には「神」を信じる要因が揃っている。これでは体制側に組み込まれていく、と発言されました。

 Izさんも、一見「到達不能な他者」などというと、自分を絶対化しない立場のように思える。しかし、実は自分自身も相手からすれば「到達不能な他者」なのであり、自分のことは自分にしかわからない、という自分に都合のいい論理にしかならないのではないか。既成のものからの解放、ということをいうけれど、認識の問題として考えたとき、自分以外のものから解放されるということではないはずだ。自分自身をも商品化して考えるような価値観に染められている現在。自分の内側「私の中の私たち」自体が命令型コミュニケーションにさせられている今、それを相談型のコミュニケーションに変革していくために、文学は何が出来るのかを、問わなければならない……、といった発言でした。

 ということで、ともかく、新鮮な感覚で書く、ということを大切に今の時点で感じたことをご報告しました。かえって分かりにくくなりましたか。すみません。

 今年も残すところあと三日。日本社会の現状は、ある意味で私が生まれて生活してきた中で、一番悪い年であったかもしれないと思います。しかし、今こそ私たちが培ってきたことを試されるときだとも実感します。この〈文教研メール〉もおかげさまで4ヶ月続いてきました。ご協力ありがとうございました。試行錯誤そ続けながら、来年も会員相互の対話の場の一つとして、育てていきたいと思います。これからも、どうぞよろしくお願いいたします。それでは、よいお年を。
〈文教研メール〉より


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