N さんの例会・集会リポート   2003.12.13 例会
 
  
  対話の発想があるのだろうか


 文教研のNです。

 13日の例会は、Izさんが司会で、Hさん、Iwさんが、話題提供者でした。さながらパネル・ディスカッションという趣で、いつもと又違う楽しさがありました。全国集会とか秋季集会にも、こんな企画があってもいいな、と思いましたよ。

 取り上げた論文は田中実「『文学のことば』の復権のために」(「教育」2003.7)齋藤知也「状況に切り込む文学教育――森鴎外『高瀬舟』をめぐって」(「日本文学」2003.8)です。たぶん文教研会員のどなたにとっても、田中実さんの論は「了解不能」になりそうなところがあったのではないでしょうか。Hさんの整理された媒介とIwさんの鋭い切り込みで、この論文を取り上げた事の意味が分かってきました。これまたいつもとちょっと違う意味で、例会に出てよかったと思いました。

 ようは〈文芸認識論〉の問題ではあるわけですが、その根本のところにおいて、「私の中の私たち」という対話構造を持ったものであるのかどうかが、大きな違いである事を感じました。田中さんが言う「到達不可能な他者」、これが「読み手に葛藤を起こさせ」「読み手の既存の世界観・価値観を瓦解させ、これに倒壊を起こす」というのですが、ここに対話構造はあるのでしょうか。

 Hさんは、田中さんが「到達不可能な他者」(それとお対の「原文」という概念)は実体としてある、とはいいながら、知覚できず、「了解不能」なものであるのだから、結局、彼の論は<不可知論>だ、と整理されました。また、「内部の瓦解を続けていくことが要求される」というように、破壊をし続けていく必要性の強調に、「永久革命論」と同じような論理構造を感じる(これは休み時間の発言でしたが)という感想を述べておられました。

 このことはIwさんの話題提供でも共通する事でした。最初にIwさんが「こういう文章(直接には齋藤論文)の好きなひとはどういう人なんだろう?」という問いかけから話されたのは、私にとって思いがけない問いかけでした。「自分だけに固有の物語」でないとイヤ、人と似ているのはイヤ、というある種自己の商品化。それは、共有する事に価値観を持つ人の感覚ではないのではないか、というものでした。「文化共同体、解釈共同体」に絡め取られないために、それらに「拘束されている〈わたしの中の他者〉〈わたしの中の本文〉を倒壊し続けていくこと」を強調する発想の中に、Iwさんは「全共闘」的発想を感じる、と言いました。

 齋藤論文の実践については、実は論との矛盾も生まれていること。つまりその中にこそむしろ可能性があることなども指摘されました。しかし、やはり問題は〈文芸認識論〉のなさ、つまり「認識論」、「反映論としての認識論」の視点がない。「実体」という問題についても、結局、素朴反映論的な理屈でしか説明されない。だから逆に分かりにくい。

 ということで、冬合宿には『高瀬舟』を読み合いながら、
   @「本来の読者」と「到達不能な他者」の比較 
   A「語り手」の問題と「読者の視座」、「文体」の問題
   B「媒体」としての作品と「反映論」 
という論点で討論することになりました。

 田中実さんは日文協の国語教育部会で活躍されている先生です。職場の中の良心的な教師の方々で、影響を受けている方も多いのではないでしょうか。互いに手を取り合っていくためにも、違いを知ることは大切な事ですよね。「対話」や「連帯」というコトバを綺麗事で終わらせないために、是非、私たち自身、力を付けたいものです。〈文教研メール〉より


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