「文教研ニュース」記事抜粋  
 2002        *例会ごとに発行されるニュースから、部分を適宜、摘記したものです。
   

2002/9/14  835 [担当:A]

全国集会
〈8月5〜7日実施〉総括から
 〈あいさつ〉は、委員長のN.T.さん。機関誌の宣伝に重点を置きながら、風格のある語り口に終始した。マイクの扱いかたも抜群。

 〈基調報告〉@「戦後の近代主義との対決」は、I .M.さん。60分という時間ワクの中で、「対決」の過程構造をわかりやすく、簡潔に解明した近代主義とは、一口で言えば資本主義肯定の論理である。新自由主義で言う「自由」とは、弱肉強食の銘柄競争に勝利するための条件にすぎない。人格形成の目標は、人並み(以上)の月給を取ることに設定されている。人間としての尊厳を置き忘れた目標である。その点、脱近代の方向は、連帯志向の個性の実現である。「主権にふさわしい行為の自己実現の幅の広がり」をめざす。とくに、人間観の基底となる社会構造・社会像、その人間像をつらぬく価値観、その特徴などが、A前近代、B近代(主義)的、C脱近代的という三則面から解明されたことは注目に値いする。その解明の要約ともいうべき〈資料 2〉は、『文学と教育』196号の全国集会特集にも再度、活かしてほしい、という要望も出された。

 〈基調報告〉A「文体の喪失と回復」は、S.S.さん。@の「対決」を大前提に、神野直彦著『人間回復の経済学』(岩波新書02年5月刊)を興味深く紹介し、人間回復へのいとなみこそ、文体喪失の不幸な事態から脱出する道筋であることを解明された。いわば人間回復は、連帯志向の個性の復権にほかならない。連帯づくりこそ、「文体づくり」の基本なのである。そうした展望のもとに、日本と世界における文体論の核心が見事に紹介された。とくに、日本文体論学会シンポジウム「いま“文体”を問い直す」(02.6.5/土)における三氏――原子朗(詩人)・井上ひさし(作家)・小森陽一(東大教授)――による発言の要約は、こんにちの文体概念の見取図となり、あわせて文教研用語の独自性と柔軟性を実証するキメ手ともなった。リファテール『文体論序説』、ヤコブソン『一般言語学』など、描写文体をも射程においた問題提起になっているとのこと。怠け者にはありがたい報告であり、講義でもあった。さいごに、文体回復の優れた事例として、大江『芽むしり仔撃ち』の文体特性が指摘され、二日め三日めのゼミへの貴重な布石となった。

 夜の〈フリートーキング〉の企画は、成功であった。大江文学に対するさまざまな鑑賞体験が紹介されることで、文教研のふところの広さが実感された。と同時に、大江文学の難解な部分を理解しうる通路ともなった。

 〈ゼミナール〉については、チューターによる厳密な総括が機関誌に発表される。ここでは、とくに記憶に残った発言のみ摘記する。 ○大江『芽むしり 仔撃ち』という作品は、脱近代の主題を明示し、異端の文学系譜につながる文体となりえている。○ゼミが、報告形式でなく、話題提供方式による問題提起にそって展開される、ということの意味を生かしきれなかった。が、ともあれ、参加者が自己の感動体験を凝視しうる「よび水」となるために、どういう訴えが必要か、明らかになったと思う。○ケストナーの言う、子どもの心を失わないオトナの視点が、この作品にも水々しくつらぬかれている。それは、人間本来の共同性が、太平洋戦争末期から戦後の高度経済成長前夜の状況の中で、見事に典型化されたこととかかわっている。


◆2002/12/14  840 [担当:N]

フランツおじさん・レーマン先生を中心に
(秋季集会
〈11月10日実施〉総括のうちケストナー『私が子どもだったころ』について・抄)
○ケストナーのような人間も、ほんのわずかであること。同年代の人々もニヒリズムに陥るか、ナチスに大共鳴していくかであった。また、若い時代からナチスに入っていた人も多いわけで、なぜケストナーが、本当のデモクラシーを求めるようになっていったのかという問題もある。家庭が革新的であったという訳でもない。しかし本当の意味での自己決定をなしうるようなメンタリティー・人格を形成していけるような人間関係があったということだ。そういう意味での人間としての魅力とか面白みというのは、お母さんにももちろんあったし、周囲にもあった。そこのところを吸収して育っていく。そこに先生がちが絡んでくる。レーマン先生の教え方はナチスの親衛隊を作り得たかもしれない。ケストナー少年だったからこそ、ああいう面が見えてくるのであって、(レーマン先生は、はたして)メンタリティーにおいて性格的にどうであったか。平和主義者とは、とても考えられない。

○屈折した人間のほうがかえって恐い。(レーマン先生を)もし平和主義者というならば、観念的な平和主義者ではないか。

○『飛ぶ教室』の正義先生はトータルとして〈人間として面白みのある人間〉と言えるが、フランツおじさんやレーマン先生はトータルとしてそうではない。だけども、ケストナー少年が狂言回しとして位置づくことによって、側面が引き出されてくる。そして、そこに面白みと魅力を感じる。そういう視点とかユーモアとか喜劇精神というものがある。重要なのは現代の問題になるが、そういうところに人間的な魅力があるとか面白いなどと、感じるような感受性が育っているかである。この作品はそういうものを醸成する文体になっている。

○「あのおじさんに、はっきり言ってあげる人はいなかった」と最初の段階でおさえている。可能性を求めてとらえているが、フランツおじさんは“新自由主義者”として自立している。

○フランツは、経済・商売主体としては自立しているが、精神主体としては歴史(時代)の流れの中にそのまま組み込まれただけであって、自立していない。経済的に自立していくためには、封建的人間そのままではだめであって、その限りでは自己変革されている。変形されていくだけで、本当の新しさになっているかというとそうではなく、保守的なものを色濃く引っ張っている“変態階級”(井伏鱒二『さざなみ軍記』)で、精神の自由は出てこない。新興ブルジョアジーの抬頭期の新しいタイプの過渡的人間としてのフランツ。ケストナーはよく見ていると思う。

○フランツの生き方は、経済的には自立しているが工業化が進み大工業になると、更に資本の奴隷になっていく。善悪の決め方はできず、〈名誉心〉のために働き人間的な魅力はなくなっていく。

○フランツは点子ちゃん(『点子ちゃんとアントン』)のお父さんのような悩み方はしないだろう。

○ドイツの歴史的・社会的背景と日本の歴史とがどこで重なるか考えたが、なかなか重なって見えてこない。『〈戦争責任〉とは何か――清算されなかったドイツの過去――』(中公新書1597、木佐芳男著)を読んだが、日本とドイツとの違いを感じた。日本は誰が責任者かをはっきりさせず、誰にも責任を負わせない。また法律的には再軍備はなく、しかし(事実上)再軍備をし、誰も責任は取らず、問題にもしていない。歯がゆい感じがする。近代化のあり方の違いがあるのかなと思った。


2002/12/26  841 [担当:A]

12月例会(12/14)で神野直彦著『人間回復の経済学』を検討
 司会(I .M.さん)より、貴重な資料が二つ提供された。
1.神野直彦著『人間回復の経済学』(岩波新書 02年5月20日刊)目次+キーワード 10ページ。
2.比較研究のための参考資料:大谷禎之介著『図解社会経済学』(桜井書店 2001年3月30日刊、3000円)抜粋4枚。

 〈資料 1〉は、詳細な目次とキーワードがから成り立っている。読者ひとりひとりの関心と興味の索引がわりの役目も果たしている。発言するさいの有力な呼び水ともなった。例えば、新自由主義の成立と展開と展望をさぐろうとするとき、この〈資料 1〉を一読すると、即座に「新自由主義をかかげる政権」(p.31)
、「新自由主義的税制改革の合言葉」(p.38)、「新自由主義による人間の生活と財政の破壊」(p.43)、「所得再配分機能への新自由主義の攻撃」(p.45)「新自由主義の論理矛盾(p.46)、「新自由主義の伝播」「新自由主義の、アングロ・アメリカン諸国への伝播(p.47)、「新自由主義が受容されていく基盤」(p.51)、「新自由主義は打開策か」「飢餓による貧困への恐怖というムチを復活させようとする新自由主義」(p.99)、「人間をより非人間的に使用しようとする新自由主義」(p.100)、「ネオティラー主義を志向する新自由主義」(p.126)、「新自由主義にもとづく構造改革によって実現される競争社会への恐怖」(p.184)等々の項目が確認できる。なお、要約に際しては、著者の言葉を最大限活用しながらも、たとえばあいまいな言葉「背景」(p.51)を「基盤」とさりげなく是正している。厳密な概念操作である。自己のヨミの恣意性を正す武器ともなる目次一覧でありキーワードの位置づけであろう。

 〈資料 2〉の『図解社会経済学』は、『人間回復の経済学』の根本理念を解明する上での、鏡となろう。人間らしい未来を構想し、子孫のためにしあわせな未来を実現しようと、著者は熱いおもいの言葉で読者によびかける。それにも拘わらず、著者はマルクスの発想に直接言及しようとしない。そこに、いわば左派リベラリズムとも言うべき本書の特性と問題点が内在していよう。その点、『図解社会経済学』の著者は、マルクスの基本理念を継承しながら、こんにちの社会を解明する上に必要な新しい視角と方法を読者に提示する。とくに、従来の日本の学界が、〈ポリティカル・エコノミー〉を「政治経済学」と翻訳してきたことの矛盾の解明は圧巻である。「政治経済学」という名称は、「純粋に科学的」な経済学と異なる、という奇妙な観念をはびこらせる一因ともなっているからである。著者の大谷禎之介氏によれば、ここでいう〈ポリティカル〉という言葉は、「政治にかかわる」というよりも、もっと広く「社会にかかわる」という意味にほかならない。したがって、〈社会経済学〉という発想は、『人間回復の経済学』の独自性と問題点を照射する鏡となりうるのである。大谷氏によれば、〈社会経済学〉こそ現代社会の過程構造を明らかにし、ひいては「人間回復」への道筋を照射しうる経済学にほかならない。
 
 〈資料 2〉と関連して、〈資料 1〉の最後に紹介された渡辺治著『「構造改革」で日本は幸せになるのか? 「構造改革」に対決する「新しい福祉国家」への道』(萌文社 2001年7月20日刊、952円)という論考も、本来なら〈資料 3〉として位置づくべき必読参考文献と言えようか。

 ゼミの最初にあたり、司会より『人間回復の経済学』を三部構成という順で検討してはどうか、という提案がなされ、諒承された。
    T アプローチの視点 〈はじめに〉〜〈1章〉
   U 現状分析・批判――ケインズ的福祉国家と新自由主義 〈2章〉〜〈3章〉
   V 変革の方向性 〈4章〉〜〈7章〉

 
 ゼミは、触発されたこと、疑問に思ったことを率直に出しあう、というかたちで進行した。したがって、発言内容の記録は、記録者の価値判断にしたがって取捨選択したというよりも、記録者の好みというか、記憶に残った範囲で摘記したきらいがある。発言された方々は、この記録をひとつの叩き台として補ってくださるならさいわいである。

T アプローチの視点
・著者の経歴が面白い。東京大学を卒業してから自動車工場の組み立て工として働き、更に自動車のセールスマンとして働き、のちに東大の教育現場に就職している。その履歴効果が本書にどう反映しているか、たしかめてみたい。

・「知識集約型産業」を基本とする社会では、福祉の充実が見られても、租税負担率が高い、という印象をもつ。スウェーデンスタンダードが、どのようにな理由で支持され、浸透しているのか、たしかめてみたい。

・主流派経済学、その亜流としての俗流経済学、さらに政治経済学や財政社会学の主張を吟味しながら、人間回復の経済学のありようを追跡してみたい。

・人間はホモ・エコノミクスか、という問いかけを大切にしたい。経済人は人間の行動基準になりえないからである。人間の行動の基準は、あくまでも人間の夢のと希望に求められる(p.17)。

U 現状分析・批判
・時代をピリオドとエポックとの連続と非連続において考えることは重要である。「新生への道」に向かってハンドルを切るか、「破局への道」に向かってハンドルを切るか、いま私たちは、「エポックとしての転換期」(p.20〜21)に生きている。

・「民」とは人間のことである。「統治される者」という意味である。民を、「市場」とか「市場経済」に直結するのは詭弁(p.26)である。

・構造改革の必要性だけが強調されて、何をいかに改革するか、という処方箋があいまいである。痛みをわかちあおう、と言いながら、その激痛は弱者や敗者のみおそいかかっている。「いじめ社会」(p.28)である。学校のいじめは、オトナ社会の反映にほかならない。

・新自由主義の起点としてのサッチャリズム(p.31)。失業と倒産の増大(p.40)。人間の生活を破壊し、財政を破壊する。犯罪の凶悪化。道徳教育で救えるはずがない。真の道徳や愛国心が必要なのは、新自由主義を主張する政治か・財界人・官僚・御用マス・コミであろう。

・レーガノミックスや中曽根政権の新自由主義(p.47)は、新自由主義の変化形にほかならない。

・アメリカの心理学者マズローの欲求段階説を批判抜きで援用(p.78〜79)しているのは問題。乾孝先生が指摘するように、自我はオレ領域⇒仲間領域⇒家族領域⇒社会領域の相互浸透の中で、ラセン状に発達していくものである。自己実現欲求が本能の延長線上にある、と考えることは間違いである。

V 変革の方向性
・非営利組織としての「協会」(p.143)を重視しよう。国民による草の根の運動こそ、民主主義と活性化させ、社会経済を充実していく核(p.145)である。

・生産の場としての労働組合運動と、生活の場における非営利組織の協力(p.148)が望ましい。

・学習サークル運動は、労働運動の一環(p.149)である。そこにリーダーは存在する。が、教師は存在し
ない。

・経済民主主義の実現は、国民教育運動の支え(p.155)なしにはありえない。

・人間として生きる時空間をおとりもどすために、女性のはたす役割が大きい。

・自然環境の再生と都市再生の結合(p.176)。文化の復興と教育重視との連動。スウェーデンやフランスの都市再生のいとなみと、高知や長野、鳥取の経験(p.180)jを見直そう。

・スウェーデンの経験を学ぶとき、巻末の参考文献のさいしょに掲げられたアーネ・リンドクウィスト、ヤン・ウェステル共著、川上邦夫訳『あなた自身の社会/スウェーデンの中学教科書』(新評論 1997年6月10日刊、2200円)はひじょうに役立つ。そこでは、スウェーデンの犯罪の状況が明確に語られ、どういう条件で育った人間が犯罪者となっていくのか、もし自分がそうした犯罪の当事者になることなく、人間として生きぬくためにはどうしたらいいのか、ルル語られている。圧巻は第4章のコミューンである。コミューンという言葉は、共同という意味を持ったラテン語のcommunisに由来する。同一のコミューンに住む人々、つまり住民は、一つの共同体を構成する。住民は、共同で、コミューンデ行われる事柄の大半を決定する。その決定は、選挙された議員によって行われる。その執行は行政職員が担当する。住民は、共同でコミューンの権力およびさまざまな施設を所有する。施設は公園、学校、運動競技場などを含む。住民は、さまざまなサービスにかかわり、その運営経費を支払う等々々。訳者によれば、教科書の文章は、簡潔で明晰である。そのうえ、「君自身はどう思うか、友達の意見と比較しよう」というよびかけにつらぬかれている。


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