むかしの「文教研ニュース」記事抜粋 
 1979                *例会ごとに発行されるニュースから、部分を適宜、摘記したものです。

   
1979/1/27 151,152

鴎外『最後の一句』(1/13例会)
 1月第一例会で『最後の一句』をめぐって大きな争点となった問題に関し、報告者N.Tさんに書いてもらいました。今号と次号にわたって掲載します。
私の「印象の追跡」の追跡
N.T

 ことばが多いくせに、肝心なことには舌足らずな自分であることを反省して、例会で、いろいろ学ばせてもらったことをふくめて、文字化することにしました。
 太郎兵衛の家庭・太郎兵衛のメンタリティーが「家族制度の論理と倫理をこえている」と報告メモに書いた。
 『阿部一族』を合宿で読み合った後ゆえ に、太郎兵衛の家庭に、長十郎の家庭、阿部一族、細川家の子どもたちの処遇、『かるさん屋敷』の白井一族の“家の論理”等々と、あまりにも対照的なものを感じ、感動した。たいへんさわやかな感動である。そして、この太郎兵衛と子どもたちのメンタリティーのありようを軸にして、「孝女いち」を「反逆児いち・民衆の子いち」に飛翔させた鴎外の虚構の意味が、前より一段と強く感じられるようになった。それを、あのことば に託したつもりなのだが……。
 「〜をこえる」「〜の克服」という概念が、今まで、どう使われていたか? 脱大正、脱近代、村の論理をこえる、近代主義の克服等々。「芥川の場合でいえば、自己の中流下層階級者としての主体に即すことで見えてくるのもを確実につかみとろうというのですね。そのことがまた自分を越える、ということにつながって行く……」(熊谷孝『井伏鱒二』116ページ)。
 元文年間に家族制度の論理と倫理をこえた人間が存在することはあり得る。その人間の具体的なありように即して、こえているのか否かを検討することが必要なのだ。
 「いち のことばで、“お父っさん”のもののみかたやら人間が、ますますハッキリする。養子と実子を差別していないのである。また、人間としての信義を守って、約束通り長太郎の跡目相続を決定し、いち たちにも常日頃そのことを口にしていたのである。そういう親の心はまた子どもの心である。親子のすぐれた連帯である」(『文体づくりの国語教育』312ページ)。血縁重視、実子相続重視ではなく、“人間としての信義を守ること”を重視するということ、このことだけでも、「家族制度の論理と倫理」をこえているということになりはしないだろうか。もらい子をする、しかも、女房の里から、ということと、このこととは、ディメンジョンを異にする問題だと思うのだが――。
 前には、極端に言うと、例会でのショッキングな指摘や、熊谷先生の文章が前提にあって、自分の考えをそこへもって行こうとすることが、どこかにあった。『阿部一族』をくぐることで、自己の文学体験の総決算として、熊谷先生のこの指摘が私には意味を持ってくるようになった。
 父の助命を思いついたとき、「ああ、そうしよう。きっとできるわ。」とつぶやいたいち。武士の殉死者のように、主人を思う気持と、遺族の安泰をねがう気持と、世間の眼を気にすることと、――そうした複雑、混沌ではなく、素朴に「ああ、そうしよう」なのである。太郎兵衛が子どもたちを遇するのに一番大切にしたものが、今度はいち によって生かされたような気がする。いち が主体的に選びとった行為なのである。『最後の一句』では、いち の書いた願書の文章そのものを紹介していない。原資料『一話一言』には、「親の代りに命御取被下候はゞ難有可奉候……」とあり、長太郎の願書は「親子のたね違ひ候へ共其恩をうけたるは同じ事にて、其上母の身代りならば女子なるべし、父の身代りにて候へばこの長太郎が命を召とらるべき事に候」とある。決定的な文体的発想のちがいを感じる。原資料と長い時間対話し、文体的格闘をしつづけた鴎外を、至るところに感じる。(以下、次号へ)
 
 平野町のおばあさまと同様に鴎外が創造した人物――夜回りのじいさん、門番、性格を変えて登場する母親たちとのかかわりの中で、そして、奉行所でのいきさつの中で、いち の決定的行為の意味がはっきりする。
 「彼女は期せずして大阪市民大衆の代弁者となっているわけだ。あえて言えば、大阪の市民たちが、そういう行為は夢としてあきらめていたような、その夢を“献身”においてかなえてくれたのが彼女の行為・実践なのである」(前掲書、315ページ)。
 吉宗の治世という歴史的現実を生きる人々のメンタリティーとのかかわりにおいて、いち の行為の必然性が描かれている。すぐれた歴史小説である、短編中の短編として、この作品をとらえたい。
 「小説ジャンルにおける長編と短編」という概念を学んだこともあって、『阿部一族』に長編的発想を感じ、『最後の一句』に短編中の短編を感じる。原資料の構成を変えて、第二パートは太郎兵衛についてのコメントになっている。このコメントの仕方が、他の部分と比較して、虚構性の上から、何か物足りなさを感じる。短編である故で、これでよし、とも思う。例会で「太郎兵衛は書かれていないが、描かれている」という指摘があり、学ばせてもらった。但し、短編的手法において描かれている、と言えないだろうか。もう少し、みんなに批判してもらった上で、『最後の一句』を少しあたためてみたいと思う。相変らず、舌足らずに終わる。


1979/1/27 152

朝日新聞の広告で――
 1月25日の朝日新聞に、社の百周年記念の行事の一つとして、出版一行広告が出されました。鳩の森書房では熊谷先生の『井伏鱒二』を紹介しました。その事自体も、たいへんうれしいことですが、その広告を見て、早速、本を注文した人がいました。
 熊谷先生の古い友人で、宮城の岩出山出身の方でした。熊谷先生が宮城に行っておられた頃、親しくされていた方だそうです。

前田千寸先生、やっぱり偉い先生だったんですね。
 というのは、今更、と言われそうですが、今いろいろな本で、千寸先生が紹介されているというのです。
   ・安田 武 『気むずかしさのすすめ』(新潮社)
   ・大岡 信 『星客集』(青土社)
 これらの本の中に、千寸先生の業績がふれられています。いつだったか、会員のTさんが千寸先生の話をきいて、わが身をふりかえって、ガックリしたと述懐していましたが、前に進むためのそれなら、何回ガックリしてもいい……と思います。(じゃないですか。)


1979/2/10 153

鴎外『護持院ヶ原の敵討』の総合読み(1月第二例会)
私の場合
N.K

 歴史にうとい私にとって、また、話の“結果”をせっかちにほしがる私にとって、鴎外の歴史小説は多少厄介な相手である。「登場人物のメンタリティーを探る」という読みの方向性が示されなかったら、『護持院ヶ原の敵討』などとても……というところ。が、九郎右衛門の、宇平の、文吉の“人間”を知ろうとしてページを開くとき、時代を越えて自分にはね返ってくる問題を感じ興味が湧いてくるのである。
 例会で特にショッキングだったのは、九郎右衛門と『阿部一族』の忠利の比較における熊谷先生の指摘である。幕藩体制の確立期に武士道精神を築きあげつつ、たくましく生きた戦国大名・忠利の、死の床での孤独。殉死を「許す」という言葉は、作中、ただ独り、真に時代を越えた合理精神を持つ忠利の“うめき声”に他ならなかった。“倦怠”とか“遊びの精神”とか同じ言葉を、切り口に使うとしても、それでは、九郎右衛門についてはどうか? 幕藩体制の崩壊期という場面規定が、読者の側に明確にない限り、問題はストップしてしまう。中流下級武士。できあがった体制の中で、生まれついた道をただ歩くしかない人生。その儘ならない世の中を生きてきて、“何事も強いて笑談に取りなす”癖がついた人間。会話や行動の端々にうかがえるみずみずしい子どもの心。ゆったりしたあたたかみと同時に、決断と行動の敏捷性は、常に“考えて”きた四十五歳の大きさを感じさせる。
 ところで、この叔父さんの愛情と信頼を、宇平はどのように受けとめたろうか? 血気にはやる純粋な若者、「若殿」のイメージを下地に、想像を絶する二年の遍歴の末のあの言動は、宇平のメンタリティーを集約している。決定的な瞬間における人の行為は、その人の日常性の総決算だから。
 理屈は通っているし、災難の大きさを考えると、同情は禁じ得ない。あの天保年間、制度だけは“当り前”として残りながら、それにともなうべき武士道のモラルは低下し、価値観がぐらつきだした社会でおきた事件、その時代の二十歳であることを思えば、当然の成行きかもしれない。時代の犠牲者として宇平を見る時、現代をもイメージしながら、疎外の根源へ眼が向くであろう。が、しかし、それでは一読者として、非常に好感をもつ存在である九郎右衛門や文吉やりよ はどうなるか? この素敵な叔父さんといっしょにいて、また、身を捨ててつかえてくれる文吉といっしょにいて、それをちっともくぐれない宇平である。他人を見る眼に乏しいということは、個の自覚もおぼつかないということである。そうして、一見、合理的にみえる観念が選んだ行動は、現実からの逃げでしかなかった。宇平の未来は想像に難くない。出会いを出会いとして受けとめ、自分を育てなかった宇平を見る時、読者としての私にせまってくる問題を感じるのである。文吉りよ についても、新たな感動とともに、深まるものがあったが紙幅が尽きる。多くの、大きな問題を掘りおこした形の例会であった。
 その一つに、終りの部分の、史実の叙述がある。ない方が、テーマがもっとすっきりと、読者の心に残ったのではないか? まだ判然としないが、それこそ、鴎外の癖かもしれず、テレかもしれず。いいかげんな当て推量はやめにしても、“「宇平がこの場に居合せませんのが」とりよ は只一言云った。”で終わってもいいような気が、今はしている。

〔上記報告は、例会後ニュース部の依頼に応えてN.Kさんから寄せられたものです。今後、ニュース部よりこのような以来があった場合、ココロヨク応じられるようお願いします。―ニュース部編集局―〕


1979/2/24 154

鴎外『佐橋甚五郎』メモ(2月第一例会報告)
個人的 中間総括として
H.M

 武芸は言うに及ばず、遊芸、ことに笛の名手であり、その能力は他にぬきんでていた甚五郎。有能な若者の命懸けの「奉行」を正当に認めることなく、利用だけはしようとする老獪な封建領主・家康。主君家康の身勝手な不信感を知るや、「ふん」と言って逐電し、二十数年の後、朝鮮使節団の一員として再び家康の前に現われ、驚かせた甚五郎の心意気、それに共鳴していた僕がある。
 一方、僕の内部には「甚五郎」に対する見切りもある。それは、彼の行為が、自己の能力を認めてくれないことに対する反発にすぎないこと、上の者のやり方如何では有能で忠良な家臣たりえたろうと思われるような意識の持ち主であることに関わっている。
 鴎外が好意を持って描いているらしい“意地”の体現者の中にあるこの種の限界(?)を確認することで、読みが終息するというのが、鴎外の歴史小説に対する時の僕の癖になっている。
 例会での検討はしかし、僕に新しい観点を示唆してくれた。それは合理主義者たる「甚五郎」への批判ということである。
 「はずれたら笑うまいぞ」と予防線を張っておいて、賭に勝つや「誓言」を盾にとって、自己の欲望を遂げようとする「甚五郎」は、「蜂谷の心をくぐっていないエゴイスト」(I さん)に他ならない。家康とは別の気持で、「間違うてをる」と言わずにはいられない。そしてまた、自分を我が子のように可愛がってくれていた甘利の寝首を掻いた「甚五郎」の「冷々とした心」(Nさん)には、底知れぬ不気味さを感じるのである。家康を狼狽させた点に、小気味よさを感じるあまり、「甚五郎」の中に潜むこうした冷たさを見逃していた僕の一面的な人間把握が、揺さぶりをかけられた。
 もちろん、「甚五郎」の合理主義が内包する冷酷さを指摘することは、家康の冷酷さを少しなりとも和らげることにはならない。助命嘆願に対する対応、甘利殺害後の召し出し方等、「甚五郎」に対する処置にみられる家康の冷徹ぶりは、一面見事とも言えるほどのものだ。それは、、幕藩体制という非人間的な封建秩序の創始者に似つかわしい非情さとして、隠居後も一貫しているものである。朝鮮使節をあしらうようなやり方(※本文中にある日付けの意味に注目せよとの熊谷先生の指摘)、「形式的なもてなし」(Nさん)は「腹に一物ある外交」(Sさん)という印象を強くさせる。ともかく、家康には「苦悩がない」(Aさん)のである。
 こういう家康であればこそ、「甚五郎」の一種ダイナミックな行為に拍手を送りたくもなるのだが、今は、「家康のことばは支配者の論理ではあるが、甚五郎がそれと対立する民衆的存在であるとはいえない」(熊谷先生)という指摘を踏まえねばならない。
 人間として、面白みのある人間が登場しないこの作品を、鴎外はどう思って掻いたのだろうか。じっくり考えてみたいと思う。


1979/3/26 155
2月第二例会(2/24) MEMO
 以下の記録は、例のS氏のノートより転写したものである。誤謬がありましたら、ニュース部まで連絡していただきたい。
鴎外の歴史小説の原点をめぐって
○それは『阿部一族』とみたい。「忠利」の発見こそ、彼の歴史小説の原点とみていいのではないか。
○それじゃ、その後の『佐橋甚五郎』や『護持院ヶ原の敵討』はどうなるんだ。鴎外の歴史小説の主題的発想の問題が、そうなれば、どうしてもかかわってくることになる。
○まず、『佐橋―』ということで考えてみよう。鴎外は何のために(どんなつもりで)……。
○『佐橋―』を『阿部―』の中に見つけようとするのではなく、『佐橋―』はそれなりに、別なおもしろみがあるのではないだろうか。つまり『阿部―』とは違った、そこでは描き得なかった“何か”がありはしないだろうか。
○『佐橋―』の場合、『阿部―』と同じmentarityの文学とは言えないのじゃないか。
○つまり、それは徹し切れていないのか、あるいは、かかれていないのか。どちらなんだ。
○むしろ徹し切れていなかったと考えられないだろうか。
○そうなった(そうなってしまった)鴎外の歴史小説を「文学史的な角度」から明らかにする必要がある。
○「教養的中流下層階級者」の視点というのは、“冬の時代”から“暗い谷間”をくぐったものによって、はじめて発見できるものである。その意味で、鴎外には、芥川のような視点がまだ定まっていなかったと言える。
○mentarityの文学と「教養的中流―」の文学。両者の関係は、文学史的観点から明らかになるはずである。


1979/3/26-28 155-157

文教研の誕生日を祝う会
 
今年も2.26を前にした2月24日、渋谷勤労福祉会館で開きました。以下はその時の各氏の発言です。内容は多少省略していますが、それでも雰囲気だけは……とNさんが記録してくれたものです。Nさんの懸命な記録をもとにして、Saが文体だけは尊重しながら、多少脚色しながら、記したものです。あまり、文句は言わないで各自読んでください。(敬称略)

〈福田委員長〉 1960年の2月26日、はじめ「文学と教育」の会として発足したわが文教研も昨年秋で、満20歳となりました。(拍手)
〈司会Sa〉 今日は「文教研と私・私と文教研」というテーマで、この一年間の仕事をふりかえりながら、お話をしていただくことにしました。
[略]
〈T〉 ほんとうのすしのうまさは、食べ終わった時ではなく、店から出て地下鉄の切符を買う頃だと、この間、板前さんかが話していました。例会の良さも、帰りの電車の中とか、家についてから、はっとわかります。しょっちゅう、文教研でしごかれている夢をみて、うなされています。文教研入会5年め。みんなのおニモツにならないで、何とか自分なりに責任をもって、やっていきたい。
〈N〉 おくれてでも参加したいのが文教研です(本日遅参)。カキのような自分ですが、参加したい、といつも思っています。
[略]
〈熊谷〉 「きりんも老ゆればドバに劣る」。「ドバも老ゆればきりんになる」、こういう諺はなかったでしょうか。いや、文教研にこれから加えてほしいということです。文教研はアカルイ。ホロビの姿であろうか?(『右大臣実朝』) 文教研のみんな一人ひとり、どういう出会いであったか。会うなりケンカした人もいましたよね。いや、けんかしなかった人はいないみたい。いくらけんか売っても、のらない人は福田委員長。文学はフリである(わかったフリの)。
〈I〉 文教研が終わったあと、ウワゴトを言うんだそうです。やればやるほど、おもしろくなっちゃうんです。今年は就職もしたことだし、マア、今まで文教研でサワイデきたことをもとに、やるだけですよ。言いたいことを言って、やりたいことをやる。マア、そういうことです。
〈H〉 文教研にとってぼくは何か! なんちゃって、それは文教研にきいてみなければわからない。きついです。文教研にくると(か、行くと、か)近代主義として批判されてしまうんです。自分がふっきれてい
ない。これから、それを出して行こうと思っています。
〈熊谷〉 資本主義社会に、生まれ育ち、だが、そこで死にたくないと思った。けどね、その資本主義社会に、どうして、こんな団体がアンでしょうね。そのへん、おもしろい。おもしろくしましょうね。バカみたい。
――(雑音あり)そういうバカさが魅力じゃないの! そのバカさを知れば知るほど、それをうしないたくないと……そう思うの。〈Su〉


1979/4/28 160

4月第一例会 『山椒大夫』−中間報告−
 この「覚え書」は当日、司会者グループの一人であったS.Tさんにお願いして、まとめてもらったものです。
S.T
1) 「歴史其儘」と「歴史離れ」
・複数の史料(虚構された史実の記録)をもとにして描かれた作品であること。
@ 鴎外が「伝説」をもとにして描いたと言っていることの意味
・鴎外は「説経(節)」に限定していない。
・否定的媒介として、史料を扱っている。
・A――――→A'――――→A”
史料     対話      作品(変形・移調されたもの)
A 鴎外が「一幕もの」を描きたいといっていたこと。
――以前から、史料の収集に当っていたのではないか。
      ★@Aとも、『歴史其儘と歴史離れ』参照
2) 大衆芝居的構成と文体
@ 会話の芝居調、そして展開も。
A 例えば、安寿が厨子王を逃す場面の「がまんしてみせます……」云々
――これは、自殺を覚悟の上の言葉なのかどうか……。覚悟の上ではないのか。
3) 作品トータルとしての文体の検討
・「後半の弱さ」云々(『文体づくりの国語教育』参照)ということ。
――前半、後半ということでなく、全体を文体の問題としてみた場合どうなるか。
@ 厨子王と母の再会――大衆芝居的感動性ありやなしや。
A 厨子王の処理のしかた――歴史的人間のメンタリティーの問題ということでは?
4) 印象の追跡の再検討(再追跡)を
・人間の可 性を信ずる作家・鴎外の眼があること。
――例えば、真剣に生きていくなかで、死を選ばざるをえなかった安寿に、そうした可性が最初から“あった”のではなく、安寿の可 性を信じ、見つめ続けるなかから、そうした「人間の姿」が発見され、浮彫りにされてきたいること、など。
5) 文学作品を、この場合『山椒大夫』を評価するとはどういうことか
@ 鴎外の歴史小説の流れの中で、こういう作品が存在しているという事実を押える。
――文学であることは確かだが、大衆芝居構成のとられた作品。近代小説ジャンルとして完成している『最後の一句』に向けて、そうした作品を急には書けなかった鴎外のあそび(遊びの精神)。その限り夢物語であり、その限りでの歴史離れ。
A 歴史の場面における歴史的人間のメンタリティー。
――これを否定すると「解釈」にすべってしまう。この作品においては、否定しきれるかどうか。


1979/5/12 161

4月第二例会 『山椒大夫』総合読み(その二)−作品の文章に即して−
 この覚え書も、当日司会者団の一人であったY.Aさんにまとめてもらったものです。
Y.A
〔T〕 S.T、K.M報告から
(1) 人物像をめぐって
イ) 「母親」像
・旅の一団の中心として、それなりに頑張っている。
・“世間知らず”といった面はあるが、『最後の一句』の中のあの、いちの母親と比較した時、安寿達の母親の場合には、そこにある“教養”が感じられる。
ロ) 「安寿」像
・登場してくる場面では、まだまだ幼い娘らしさ(ある活気、性急さ)がかんじられるが。しかし、その後、決定的場面での決定的行動が可能となる内面的な成長がみられる。
ハ) 「厨子王」像
・国司になった厨子王の目にとまった盲の老婆――、それを「哀れ」と思う厨子王。そこに、彼のこれまでの半生の体験が集約されている。
ニ) 「姥竹」像
・こういう条件の中での、彼女が自分なりに考えた“最善”の行為、という面もある。
ホ) 奴頭について
・その人間的ずるさ、――そのメンタリティーがよく描かれている。
・またその事は、「ずるさ」と同時に、人間的悲しみも……そこに。
ヘ) 曇猛律師
・一本筋が通っている揺るぎないその行き様。
・厨子王に対する彼の行為は、いわば一つの賭と言えまいか。
・それらが、大衆芝居仕立て的構成の中で実現している。
(2) 厨子王元服後の、いわゆる「後半の弱さ」と言われている部分について
――大衆芝居的構成ということを考えると、気にはならない。演劇でいえば、「暗転して……」というところか。
――drama性において、単純化の中に一貫しているのではないか。
(3) もう一歩のつっ込み、整理を要する点
(イ) 「奴隷解放」ということについて
(ロ) 「献身」という面について

〔U〕 「大衆芝居的組み立て」ということをめぐって 《討論》
(1) 「大衆芝居的」ということが“通俗”ではないことが、文章に保障されている――まさに言葉の芸術。
・「律師はまだ 五十歳を越したばかりである」――「もう 五十歳を……」(『電報』)。文章の中でのこの重み。
・佐渡の母――実はまだ三十いくつ。それが、やつれ果てた老女に読めてしまう。
・「正道はなぜか知らず、この女に心がひかれて……」――これ以外にない表現。そこに、読者のインプリケーションが。
・「さあ、それが運だめしだよ。」――このことば選びのみごとさ。これが「賭け」となってしまったらだめ。
   *「通俗性」を越える、越えないは、ことば(文学のことば)の問題。
   *歴史的人間のメンタリティー
      ――「歴史その儘」を生かして、文学のことばとして。
      ――「氏、素性」が生きている時代の「人間」のことばとして。
(2) 「大衆芝居的」といった場合の「大衆」ということの概念規定を明確にする必要
この場合の「大衆」とは――
・意識における民衆的存在であり、成立期の歌舞伎を生んだ民衆のこと。(熊谷)
・教養的中流下層階級者的存在(S)


1979/5/26 162

5月第一例会 『山椒大夫』教材化の視点
 
このまとめは、M.Mさんにやっていただきました。かぜぎみだったというのに、ありがとうございました。
M.M
T. A報告――対象:中学後期
(1) 作品表現の場面規定
@ 原資料、説経節「さんせう太夫」を含む、伝説というおさえ。
A 鴎外『山椒大夫』の「本来の読者」。
   文学的事象としての“大逆事件”厚い壁。鴎外の歴史小説、文学的イデオロギー。
(2) 安寿のマルチリウム―主題的発想と文体―
@ “お嬢様”の安寿から、山椒大夫の“奴隷”へ。
A 苛酷な現実の認識、苦悩、倦怠――恐ろしい夢の後の行動選択。
B マルチリウム――命を賭けてむつかった時、厚い壁が動く。精一杯の美しい生きざま。
C 事態の変化――厨子王と母親の再会(安寿のマルチリウムが引きおこした結果)。
(3) 安寿をとりまく人間群像
・姥竹、母との対比
・山椒大夫一家の中の人物、そのそれぞれの生き方
・奴頭と小萩
・曇猛律師、山岡大夫
U.教材化の視点をめぐって
(1) 教材化の視点とは何か
あれもこれも、わからせるというのではなく、何をどの段階で、どうわからせるか、ということではないか(教師の媒介で)。『山椒大夫』の場合、最初の出会いにおいて、これだけはわからせたいというものは何なのか。
――その場合、基本はあくまでも文章である。(熊谷)
(2) 『山椒大夫』でもっとも押えたいことについて
@苛酷な状況の中にあっても、現状に埋没せず、人間として真剣に生きぬく安寿の姿。
A “実践しない人に倦怠はない”ということを、以前学んだが、Zんじゅは行動しようとした時、倦怠が感じられ、厚い壁が見えてきたと思う。自分が捨身になった時、永久に変らないものとしてあった壁が動きだした。マルチリウムという言葉がピタッときた。
B 夢の場面に感動した。(「説経節」とは決定的に違う。)夢によって壁の本質を知り、そこから、安寿が現実を切り開いていこうとする姿。
C 「人間」の発見、人間の可変性、可能性を。
(3) 『山椒大夫』の文章に即して
@ 「二人の子どもは同じ夢をみた」(p.25)ことについて、それ以前の「安寿は守り本尊の地蔵様を大切におし、厨子王はおとう様の下さった護り刀を大切におし」(P.15〜16)この母親の別れ際の言葉の部分を基礎として、きちんと押えることが必要。「歴史其儘と歴史離れ」につながっていく。
A 夢の場面の文章――豊かなイメージがかきたてられる。すばらしい。
(4) 高校での教材化について
@ 鴎外の作品群の中で位置づけたい。
『阿部一族』などの流れの中で、時間はあまりかけないでやる。(Y)
A 方法はいろいろあると思う。
例えば、円周などで扱った場合、教師と生徒との徹底的な討論も可能。文学理論学習、文学史学習の側面からの支えも必要。(A)
B 高校卒二年目での学生の教材化――『山椒大夫』をとりあげている。(熊谷)
V.今後に残された課題
@ 鴎外のとらえた「民衆」という概念の明確化を。
A 小学校における『山椒大夫」』の教材化について。
小学生、幼児を対象とした「安寿と厨子王」がいろいろな形で出されているが、次元が低く、狂いがある。これは、そのまま放っておいてよいのか。


1979/6/23 163

5月第二例会 鴎外『高瀬舟』の報告をして
I.M
 私は、かなりながい間、『高瀬舟』という作品を単なるテーマ小説だと思ってきた。今回、報告を担当することになってからも、最初は、なかなかそうした偏見をぬぐいさることができなかった。喜助の告白に深いリアリティーを感じながら、一方では庄兵衛の心理描写に対して、大正期の下級官吏の心理が、そのまま注入されているかのような印象をもっていたのである。が、報告の準備過程で、熊谷先生から様々な指摘をうけたことで、そのような印象は根本的に訂正されていった。
 まず一つは、同じ階級社会に生きているかぎり、(寛政期であろうと大正期であろうと)下級官吏のかかえている矛盾に、つながりあうものは当然であって、庄兵衛のメンタリティーを歴史的場面を無視して、外からもちこまれたものと、はじめからきめつけてかかるのはおかしいのではないかという指摘である。場面が寛政年間に設定されているにもかかわらず、そのことの意味を、作品の実際の表現にそくして、追求する努力を、私はおこたっていたのである。が、こうした指摘を媒介することで、私には今までみえなかったこの作品の様々な側面がみえてきた。――たとえば、同心、と一口にいっても、民衆の心情をくぐりうる姿勢をもった人間もいれば、そうでない人間もいること、そして、この庄兵衛は、この場合、前者として設定されていることである。また、喜助の知足安分の境地といわれるものも、寛政期という歴史的場面の中で、最下層の存在として生きた人間のメンタリティーとして、歴史的必然をもって描かれていることが明確である。喜助像の明確化は、庄兵衛の位置づけを明確化することにもつながった。下級とはいえ、一定の収入を得て生活している庄兵衛には、喜助にはない独自な悩みがあり、また、その悩みのあり方に、重要な意味がある。
 「喜助は自己の倦怠を意識し得ない状態にあるが、庄兵衛にはそれが意識しえている。」という熊谷先生の指摘は、私に、この作品と倦怠の問題との深いかかわりを自覚させてくれた。さらに、例会で、中流下層階級者のメンタリティーとつながりあうものとして、庄兵衛のそれが評価され、また、この作品全体が、庄兵衛の視点を中心に描かれていることが明らかにされることで、この作品における倦怠の問題はいっそう深められ、追求されたように思う。「庄兵衛も喜助も、それぞれ独自なかたちで個の自覚がある」(S)。そして鴎外は、庄兵衛の視点を中心としながら、喜助の個のありかたをもみごとに描ききっている。
 このことは、鴎外文学と芥川文学との関連を新たに考えなおす必要があることを私に実感させてくれた。芥川が受けついだ「鴎外」とは何だったのか。芥川における歴史小説と現在 小説との関連etc.――今後、考えていきたいと思う。
 最後に、この作品の結末の部分についての印象も、例会の討論を通じて深められた。喜助を罪人jとする法に対して納得がいかず、悩みながらも、最終的判断は奉行にまかすしかないと考える庄兵衛に、初め、私は役人の限界だけを感じていた。が、
「奉行批判を直接口に出さないからダメだなどというのは、傍観者的な読み方であって、黒い水の面をすべっていく高瀬舟の描写は、読者の視座において、権力への深い怒りを喚起する表現になっている。」(熊谷先生)
という指摘は、私に鴎外文体の重みとすばらしさを新たに実感させてくれたのである。


1979/6/23 164 [前号と同日発行]

感謝状風目録
*註 この感謝状風目録は6月第一例会後の夕食会の席上、嵐のような拍手の中で熊谷先生に贈られたものである。起草者はS.M氏。

一、 ライフ版二百字詰原稿用紙綴 二十冊
 右は、この度の貴著『太宰治』の御出版にあたり、私どもの微意をこめてお贈りいたします。


 いづれの時なるや、もの書くわざの始まりたるは。昔、震旦(しんたん)の人、汀(みぎは)に遊ぶ千鳥の跡見しがはじめなりといふも、かかるあやしきわざは、もののけの 心に憑(つ)かねば、叶ふことにあらず。
 人は生来弱きものなり。懶惰(らんだ)なるものなり。いかでか、千鳥のごとく大空を飛翔し、砂泥(さでい)に忙しく跡をとどむることをなさむ。
 さりながら、ひと度、かのもののけの心に憑かむか、己が身に笞(むち)あて、彫心鏤骨(ちょうしんるこつ)の痛苦をも厭はず、冷酷無慚(むざん)の国権をも畏れず、我が心の趨(おもむ)くままに書き続け、却(かえ)って不可思議の悦楽に酔ふがごとくなるは、あやしきことなり。
 兼好が ものぐるほしと歎じたるも、もののけのしわざなるをば訴へたるならむ。
 願はくは、この白き紙片の上にて、もの憑き給へる師の御心の広大無辺に逍遙し給ひ、常永久(とことは)に三昧(ざんまい)の境に清遊なされむことを。
                                恐惶謹言
千九百七十九年六月吉日
                  文教研有志一同
熊谷 孝 先生



熊谷 孝著『太宰 治−「右大臣実朝」試論−』
(1979年6月 鳩の森書房刊)
〈速報 1〉吉祥寺・ロンロン内 K書店では、すでに品切れ。買いに行った人から苦情。
〈速報 2〉千葉市内のN書房から、サイン入のものを注文。


1979/7/14 165

熊谷先生の新著『太宰治』合評会――6月第二例会――
 この例会では、まずT.Mさんにメイン報告をしていただきました。記録と整理はN.Aさんにお願いしました。
N.A
T. T.M報告
(1) 文学史的観点から書かれた初めての太宰文学論であること
――従来のイデオロギー主義的、精神分析的太宰論の否定。読者はこの本を読み通す中で、それを怒りとして実感させられる。
(2) 『魚服記』論
――今までの多くの評論が、私小説的鑑賞法に終始しているのに対し、「この階級社会における疎外・抑圧・倦怠の問題を、民衆サイドの人間のメンタリティーの問題として、考えようとする姿勢」(p.27)と提起。
(3) 太宰文学に寄せる深い愛情に貫かれた本であること
――太宰と同じ“暗い谷間の時代”を生きた、同世代の読者である熊谷先生が「傍観者の完璧な言葉ではなくて、親身の心づくしの言葉」(p.59)で書かれた太宰文学に心底 感動し、支えられ、励まされたという証言。
(4) 基調概念の提唱
@ メンタリティーの文学:イデオロギー主義的文学論との訣別。
A 倦怠:作家・太宰治の成長過程のあとづけ。
B あそびの精神:4人の作家(鴎外、芥川、井伏、太宰)の文学系譜。
C 虚構、世代、心づくし、待つ、アマチュアリズム、など。
(5) 中期の太宰文学の評価(p.40〜53)
――世の多くの批評家は、抵抗を失った、だらしない姿という評価をしているが、この章を読んでいて、これこそが文学的抵抗なのだと思った。
(6) 『右大臣実朝』
@ リアリズムの文学である事の提唱。
A “芥川をこえた”という事の意味の押え。〈的の中に味方を見つける〉(p.254)
これは、太宰が鴎外から学びとったもの。
B 吾妻鏡:この史実自体がすぐれた意味での鎌倉文学である事の指摘。
C 金槐和歌集:実朝の多彩な人間像をここに見、太宰の創作過程における発想をあとづけていく。図式的、こじつけ的評論に対する反論。
.質問・感想・討論
[略]
(I) 「相手のメンタリティーにじかに食い入るような言葉の選択」(p.60)が文学にとっての心づくしであり、そのことが、「隣人」を掘り起こし、心を通わせ合うことを可能にするのだという事が明確になった。
(N) 「嘘つきと詐欺師との判然とした区別」(p.284)という指摘が、民衆、誠実、文学的抵抗の問題へとつながって展開されているみごとさに驚くばかりです。
(S)“人間みな同じものではない”という言葉が、“人間みな同じ”という精神分析的、自然主義的把握への強いアンチテーゼとしての意味も含みこんで、今、一層深くその重みを再認識させられた。
(O)「人間として面白みのあるメンタリティーというのは、自己の倦怠との対決の中からだけ生まれてくる。」(p.69)に、改めて整理させてもらった。
(K)熊谷先生の太宰文学に寄せられる深い感動と、その感動の分析をし続けてこられた姿勢に打たれました。
(H)鴎外文学に対する学生時代のひとりよがりな読みに気づかされた。自分自身が“教養的中流下層階級者の視点”に立たない限り、「虚構を虚構として愛し得る」読者にはなれないのではないか。読者の人間主体が問われている本である。

V.熊谷先生からの問いかけ
(1) 津島修治に関する精神分析は精神分析学以前のもの。――精神分析学は本人にとっての事実と真実の落差や交錯を分析する学問であり、神経病患者の医療に役立っている。それは“人間みな同じ”という網ですくいあげる原理と方法に基づいている。(自然科学の科学性もそこに……。)しかし、メンタリティーにおける人間存在という事を考える場合は違ってくる。
 太宰に関する精神分析は、“太宰が言ったこと=太宰の深層心理そのもの”、というやり方であり、“ナルシシスト太宰”という結論に終始している。また、それらの評論は、自分に不都合なデータは無視するという態度であり、その本ではあえてそこを書いた。
(2) 『葉』という作品は小説なのだ、というテーゼ。「死のうと思っていた」男が、「春ちかきや?」「どうにかなる」という――、これこそが真の新しさをもとめた小説である。太宰の行く道が一つはここにあった。行きえたか、行きえなかったか、それが私の夏[の集会]に向けてのテーマです。また、竜という主人公 が書いた花売り娘のコントを、あそこに位置づけていることの意味も考えてほしい。
(3) 文学系譜論(文芸認識論の大きな側面)
@ 四人の作家を、“あそびの精神”という系譜でくくった。
――“教養的中流下層階級者”ではくくれなかった(鴎外は、その外祖になる)。
A 系譜とは何か。
――文学・芸術というものは、根本の性格において未完結性・未完性をもつ。だからして、文学は完結をめざし、自己発展をとげる。そこに文学の発展的受けつぎ(=世代的受けつぎ)がある。鴎外の世代で実現しなかったものを、次の世代のチャンピオン(=文学的代弁者)が受けついでゆく。
B 太宰治=転向世代のチャンピオン〈二十世紀旗手〉
原点:鴎外につながる系譜のなかに位置づけて考えた場合、何か。
到達点:到達点というものはありえない。達成にむけての可能にして、必然的な形と押えたとき、たとえば『斜陽』にそれを認めることはできない。『右大臣実朝』に認める。が、この作品が完成品だというのではない。誰かが受けつがなければならない。作家(不幸にして、作家の流れの中に、これを受けついでいる者はいない。)、あるいは読者が。
C すぐれた文学史意識をもつことが、文学教師の任務であり、この文学史研究の仕事は民族への責任を果たす仕事だと思う。
D 『葉』の冒頭の「撰ばれてあることの/恍惚と不安と/二つわれにあり」の詩の原詩の堀口大学訳を一部紹介することを通して、ナルシシスト論ととりくんだ。ご意見を――。
 

1979/7/29 167

子どもに やけどを させないように
――広島市民間教育サークル会議、第二回 教育基礎講座での
熊谷孝氏の講義
 《要約》N.T
 参加希望者が多かったけれど、二百五十余名に制限したとのこと。静かな、しかもするどい反応のあるすばらしい集会であった。
 熊谷氏が講義されようとしたことは次のようなことであった。
 〈文学教育の理論と実践〉第一部 理論と実践の間/第二部 文学教育に関して理論と実践の再検討を/第三部 三つ子の魂(メンタリティー)に文学のエスプリを/第四部 私自身の三つ子の魂に――恩師前田千寸先生のこと/第五部 文芸認識論と文学史論の視点からの提言
 第四部を除いて、三時間(Nの下手な長談義少々 を含んで)にわたっての講演であった。例のケチケチ休憩 を入れてのことだが。
 人間が生きているとは、行動していることだが、意識的な行動を行為と呼ぶ。この行為のうち、特別な行為(未来の先どりにおける意識的・計画的な変革のための行為)を実践と名づける。ストーブに向って進む乳児に対して、襟首をつかまえて方向転換させるか興味を別の方に向けるか、手段はさまざまだが、とにかくストップをかける。やけど必至の条件を、やけどをしない状態に変革する――。人間的なあたたかい心づくしにみちた行為であり、実践の名に値いする実践である。
 教育実践は、持続的、継続的な実践であり、教育の営みにとって、一番大事なものであるが、理論が先行する。理論は対象論ないし目的論と、方法論の統一されたものである。
  • ある一定の対象(目的)のつかみ方(A)が、そこでのそのつかみ方と見合う形の方法(A')を要求する。いいかえれば、一定の仕方における、いろいろさまざまな手段の組織を要求するわけだ。(方法とはその意味で手段の体系である。)……が、A'という方法の組み方では不十分だとか、実践的にマイナスだという場合には、(このように実践を仲立ちにして)方法の側から対象のつかみ直しが要求される。つまり、理論というのは、それ自体、動的なもの(運動するもの)である。少くとも、ホンモノの理論(理論という名に値いする理論)は「この理論を信奉すれば万事解決」といった固定したものではない。理論に停滞は許されない。(当日のレジュメから)
 国語科の教材として、説明文も、文学作品も何もかもやる必要があるのだろうか。説明文はたいへんやさしい。語彙がむずかしいだけだ。文学作品の文章はむずかしい。わかるようにする必要がある。ところで、文学をどうとらえるかで、方法論が決る。又、一方、実践を仲立ちとして、文学のつかみ方も、ダイナミックなものになる。
 講演はこのあと、文学とは何か、私の文学として何をこそ、という話になるのだが、あと、項目のみ――。虚構とは? 『電報』『右大臣実朝』に即して。『皇帝の新しい着物』が三つ子の魂に革命のメンタリティーを培った作品であること。西鶴『大下馬』の「人はばけもの」(疎外された人間の姿)というとらえ方が、リアリズムの産物であること。疎外からの解放が文学の課題であること、等々。
 この疎外状況の中で、子どもにやけどをさせないように、日本をほろばさないようにと、参会者へあたたかい対話をなげかけて講義は終わる。


1979/9/29 168

9月総会
 残暑もきびしかった9月は15日、川崎の市民プラザで文教研新年度の体制を決める総会が開かれました。
福田委員長の挨拶から
 新年度の出発に際し、ここであらためて、国語教育・文学教育の中での文教研の位置を明確にしておく必要があるのではないでしょうか。
 戦後三十有余年、わが国の国語教育界のさまざまな流れの中で、文教研理論の果した役割は大きいものがあります。
 文教研は今後とも他の多くの民間教育団体との友好的な関係を保ちつつ更に大きく発展していくよう、ともども努力していきたいと思います。
 とはいえ、好むと好まざるに拘らず、他団体あるいは個人との間で理論的な立場から論争を余儀なくさせられる立場に置かれた場合には、毅然とした態度で、いつでも、これらに対応していかなければなりません。このことは、決して、友好的な姿勢と相反するものではありません。
 熊谷理論を軸とした文教研の諸活動が、日本の民間教育運動に正しく位置付けられるよう、お互いに努力して行きたいと思います。(拍手)
 そのためには、いろいろあるとは思いますが、一つには、会員一人一人が、文教研の主張をまわりの人たちに大きく広げていくという課題があります。機関誌「文学と教育」、そして、文教研関係のいろいろな出版物を積極的に紹介する、ということがあります。また、文教研の輪を日常的に広めながら、全国集会には「一人が一人を」を是非実現していきたいと思います。
 “文教研のまつり”夏の全国集会は成功させなければなりません。[以下略]

サークルの現状
〔木更津サークル(千葉)〕メンバーはH.M、他4人。昨年11月から月一回でやっています。『羅生門』『山椒魚』『言語観・文学観と国語教育』などを読み合ってきました。
〔保土ヶ谷サークル(神奈川)〕メンバーはO.S、他5人。二年程前から始めています。作品を一つ一つ読んでいっています。
〔Mサークル(東京)〕M他何人か。小学校の教員の間では、機関誌のコラム「私の教室」はなかなか好評です。
〔明星サークル(東京)〕A、I 他。


1979/9/29 169 [前号と同日発行]

第一期研究プログラム決定(9月総会)
 常任委員会から、研究プログラムが発表されました。
 鴎外文学の発展的受けつぎの問題なり、文学にとってのイデオロギーの問題、文学の問題としての文学的イデオロギーの問題また、それと同時に、『高瀬舟』の見直し、『山椒大夫』の再評価、その教材化の視点野津か見直しと具体化など、前年度では明らかにしてきました。
 今年度第一期では、透谷など、鴎外以前に目を向けることで、より一層はっきりと――系譜論的視点で――鴎外の歴史小説をつかんでいこうとするものです。

会費値上げ
 今回の総会で、会員の会費値上げが決定されました。これは、昨今の物価の値上りのため、止むをえず対処したものであって、ビンジョウ値上げなんていうものでは、決して、けっして、ケッシテありません。
・首都圏会員 2000円(+500円)  ・地域会員 300円(+100円)


1979/10/13 170

文学教育の原理と方法('79新年度最初の例会)
 新年度最初の例会テーマは「文学教育の原理と方法」。報告者のS.Tさんは次のように言っている。「対話のできる人間、自己の文体をもった人間、すぐれた言葉操作のできる人間、これが国語教育のめざすものである」。Sさんはこの前提に立って、ただんたいの1主張に見られるコトバと発想の分離、コトバそのものを文法的図式にで説明しようとする国語教育論に対してするどい批判をくわえた。意見発言者のN.T、I.M両氏も賛成の意見ではあったのだが、これら討論の中で熊谷先生から、国語教育の中心は文学教育だと言いながらも、学習者が何を求めているのか、それ自体意識していない段階でほんとに文学教育ができるのか、われわれがもっている弱点をもっとはっきり出してみようではないか、という指摘がなされた。[そこでニュース部では、その問題に関連してA.Hさんに書いてもらった。]

私の場合
A.H

 「文学は無礼ではないんですよね」――例会で熊谷先生から、こううかがった時、はっとした。文学ってそうなんだ、そこが違うんだ、そう思った。しかし、自分の日常の授業が、いかに無礼極まるものであるか、ということに思い至った時、はずかしくってたまらなかった。“管理、カンリの教育で学校も家庭も子どももめちゃくちゃにしている”などと憤慨していた自分の教育はいったいどうなのか。文法の授業に限らず、何を語っても“教えてやる”という意識フンプンの管理主義教育だったのではないか。文法は学者によって、いろいろな見解があって、これが絶対正しいという訳ではないんですよ、と言いながら、実際には結論が決っているかのように、「チシキ」を与えようとしていたのではないか。どれだけ自分も一緒になって生徒と考え合おうとしていたのだろうか。「こんな」という単語がなぜ連体詞なのか、あるいは形容動詞なのか。「遠くの方」の「遠く」の品詞は? こんなことを疑問に感じたこともなかった。イシアタマの無神経。生徒も質問などしない。こちらがわからないことは、わからないとして、自分を正直に出すことをしていないから、質問も出ない。既製品として、きれいに並べるので、子どもたちもありがたそうに受けとるしかない。私は何か大変な過ちを犯しているのではないか。報告者の方から、対話のできる子、自己の文体を……といったことが話された。そうだそうだとうなづいた。そして、私は他団体の言語観・文学観、そのイデオロギー主義を一人前のつもりで批判してきた。しかし、自分は本当に対話しようとしてきたのか。生徒と共に学びあおうとしてきたのか。どれだけ、私も学習者なんだという意識があったのか、教えこもう教えこもうとしていたのではないだろうか。
 『阿部一族』の忠利と弥一右衛門、すべてはメンタリティーの問題だった。管理主義の教育――塾がやっている、教育ママがやっている、学校の生活指導がそうだ、云々、という発想。自分自身のイデオロギーとしては、管理主義の教育は生徒をだめにしてしまうと思っている。対話精神が大事だ、自己の文体をもった人間を、と思っている。イデオロギーとしては――。しかし、イデオロギーとしてそう思っているということで安心していたのではないか。免罪符を持っているような気になっていたのではないか。
 自己のメンタリティーの問題として、実際の授業の場で、“私”の話すこと、“私”の話し方、“私”の授業の展開の中で、そのことがほんとに生かされているのだろうか。授業の場で、自己を問うことをネグレクトしてきたのだと思う。今までの発想を本気で変えないと、どうしようもないと思った。“これでいいのか”と絶えず自分にそう問い続けることから始めるしかないと思う。
 太宰治の『葉』の中にこんなことが書いてある。生まれて初めて算術の教科書を手にした。その巻末のページに回答が記されているのを発見して、つぶやく「無礼だな」。――なんてすてきな発想をする生徒だろう。この発想だけは忘れないでいたいと思う。


1979/10/29 172

10月13日例会『侏儒の言葉』にみる芥川龍之介の文学的イデオロギー〈文学教育の方法と原理〉
『侏儒の言葉』の報告を終えて
T.J
 いわずもがなの事ばかり並べ立てた報告で、恥ずかしかったが、話合いの中で、Sさんや熊谷先生の切り口鮮やかなお話をうかがって、どうしても言語化できなかったもやもやが、少しは、はれてきたのはうれしかった。
 二週間このかた、読めば読むほど、この作品の不思議な魅力を何とか自分なりにつかまえてみたい、と悪戦苦闘したつもりだった。何にしろ以前はこんなの高級品にみえて、肌に合わなくて、とても読めなかったのに、何だか、今読むと強烈に胸におちるのだ。
 教養的中流下層階級者のひだひだにわけ入ってつかまれた真実の諸相が、ぐっと目の前につきつけられる。それは一体何だろうかと答を出そうとしたが、何かの色眼鏡でまとめようとすると、こぼれおちるのを感じてだめだった。結局、自分の手に合う代物でないような気がして、居心地悪かったけど……。“箴言集ではなくて”というジャンル論へ追いこんだのは……。
 熊谷先生が、この作品の何が文学なのかという問いかけを出された時、“文学”という共有領域を不問に付したジャンル論次元の無意味さを思い知った。それはすでに、ジャンル論をつめてやった時に、学習ずみのイロハであったはずなのに。私は肝心な“文学”というコンタクトレンズをはめ忘れたまま、形式の色眼鏡やら、マルキシズムの色眼鏡やら、かけたりはずしたり盲人に等しかったのに、変わった眼鏡をはずしたくなくて、はずしたくない理屈を考えていたにすぎなかったようだ。だから、先生のお話は本当にショックであった。
 私は、芥川が大胆に、実に細やかに披露してみせてくれた言葉の芸をアピアランスとして、からの、あたりまえのことを守るために、普遍化を求めて必死でたたかいぬいた姿として、どれだけ受けとめられていただろうかと思って、恐ろしくなった。“道徳は古着である”、――昔、通りの古着屋の軒下に“ピラピラ”下がっていたという古着のイメージだなんて。私はまた、バザーで仕入れた古着が、着用しているうちに、結構、サマになって、悦に入っている、そんなイメージで済ませてわかったつもりになっていたから、はなから狂っていたのである。
 “資本主義に毒された封建主義”――この言葉も強烈だったが、しかし、その封建道徳にひそむ人間らしさを、目の前の“あたりまえのこと”として守ろうとするメンタリティーとしてはぐくまれず、どこかで、封建道徳を全面否定したい感情の上に立って読んでいた。
 一事は万事で、廬山の峰々をまともに眺めるのは容易なことじゃないと痛感した。
 けれども、教師である自分は、「相手の鑑賞活動に手をかす営み」を続けなければならない。狂った方向に、手を貸してはならないのである。

(Tさんは前回例会後、熱を出してねこんでしまったそうです。ほんとにありがとうございました。)


1979/10/27 173

11月第一例会へ向けての 提案と資料若干
熊谷 孝
1.当日は全体討論から始めます。
 前回の例会の際にお配りした《小説総論》の訳稿や解説を、ご検討いただけましたでしょうか。誤訳や不的確な訳出の個所などをご指摘いただけたら、有難いのですが。
 さて、次の例会での私の分担任務は、この二葉亭の論文について、その特殊な用語に解説を加え、自分にできる範囲で文意を明らかにする(そういう努力をする)、ということです。それ以外のことは、全体討論の課題になるわけです。たとえば、《小説総論》の文芸認識論史上の位置づけの評価といったことは、これは参加者各人の課題だ、ということなのであります。
 そういうわけで、私としては、事前に訳稿と解説を提出しておけば、当日は口頭による報告は省略できるし、すぐ全体討論にはいれて能率があがる、と考えたわけなのであります。(例会当日の時間の配分からいっても、そういうふうにプログラムを組まないと、肝心の討論が中途半端なものに終わることは見えています。)
 で、効果的に討論を進める上に、なお次の二、三の材料を補充しておいたほうがいい、ということに気づきました。ニュース編集者の手を煩わせて恐縮ですが、その点について一筆。
2. 《小説総論》の文意把握に、《美術の本義》を参照することが不可欠な理由。(例)
○「夫(そ)の米(ベ)リンスキーが、世間唯 一意匠ありて存すといはれしも」云々。(小説総論)
○「世間只一意匠のもみ在て存し、而して意匠の外又一物の存するものなし。(美術の本義)
3. 《解説》の項、p.6「真理」云々。
○「意匠の由て生ずる所のものは真理なり」云々、他。(美術の本義)
4. 《解説》の項、p.7 「そこ[ベリンスキー『美術の本義』]では、神のイデーに発する精神的なものは、物質と単に対立するのではなくて(中略)神のイデーの特殊化を実現するという論理であります。」
○「ヘーゲルによれば弁証法とは矛盾・否定・対立によって媒介されたところの、真理に向っての論理の運動のことだ。」「(事物の)機械的な区別の代りに、対立したものの間の統一がある。」しかし、「元来ヘーゲルは事物を現実的に処理することよりも、事物の持っている意義を、世界の有つ意味を解釈することを目的としていたのである。世界史はだから彼によると、神の世界計画が如何に合理的に実現したかという神義論だというのである。世界の現実の始まりは、神の世界計画などにはなくて、星雲の横たわる空間か何かであったに相違ない。」「こうやってヘーゲルの弁証法は、概念の独立な(中略)運動の法則となるのである。論理はかくして論理それ自身として他の一切の事物から独立化する。そうすれば、現実の事物もまた、この体系から云えば論理そのものの自己発展の所産だということにならざるを得ない。」(戸坂潤『論理学』
 

1979/11/10 174

11月第一例会を前にして
N.T
例会が終ると、問題の本質がやっとわかってくる、というか、何を問題にしなければいけないのかという、課題が生まれる。十月二十七日、大きすぎるほどの課題を感じたので、あえてこの紙面をお借りすることにした。

一、『文芸一般論』とほとんど同時期に発表されている『大導寺信輔の半生』の、例えば、本所の自然、木曽、瀬戸内の自然のあのシャープなとらえ方。あれを書いた芥川が『文芸一般論』で、文芸の内容を認識論的方面と情緒的方面と二元論的にとらえているのは、何故なのだろうか。
 『文芸鑑賞』で芥川は書いている。「理解すると言う意味は……哲学じみたことばを使えば、認識的に理解するとともに情緒的にも理解することをいう」云々と。しかし、この後に、「ある感じ」を生じない(=情緒を伴わない)のは、「文芸の鑑賞には縁のないもの」「けいこする余地のないだけに一層致命的な弱点」「鑑賞上のあきめくら」であると述べている。『文芸一般論』と微妙に異なる側面があるように思う。
 「哲学じみたことば」で整理されると、情緒 などが持ち出され、たいへんギクシャクしてしまう。が、「鑑賞上のあきめくら」などと、比喩でしか言えない形で述べられたとき、『大導寺信輔の半生』の彫啄に心血を注ぐ芥川の本音と重なるものを感じる。何かグサリとくるものがある。このギクシャクとグサリと――『文芸一般論』との連続面を大前提にした上でのことだが、『文芸鑑賞』を芥川文学の中に位置づけてみたい。
二、漱石の文学論は難解な心理学の教科書を読むようで、さっぱりわからなかた。かろうじて、傍線を引いたのは、次のような個所。「情緒は文学の試金石にして、始にして終なりとす。ゆゑに社会百体態の下において、いやしくも吾人が f を付着しうるかぎりは 文学的内容として採用すべく……」(圏点=イタリック太字は筆者)
 芥川の作品創造の実際では、この次元をこえていると思うが、「哲学じみたことば」で語ろうとする時は、F+fに依拠するのだろうか。芥川はF+fのために、ずいぶん道草を食ったのではないだろうか。二葉亭はすでに「梅が枝にさえずる鶯の声をきくときはのどかになり……意を持たない事物があろうか」と発言している。(訳稿『小説総論』引用)
三、前回の司会から「マルキシズムをくぐるとは、どういうことか?」と問われ、即答できなかった。一般論としてどうなのか、『文芸一般論』『文芸鑑賞』に即してどうなのか。イデオロギーと文学的イデオロギーの関係で言うと、どうなのか。二葉亭四迷・北村透谷の評論を学習した後で、芥川の評論をもう一度、考えてみたい。
 現在の私が、どれだけ、マルキシズムをくぐり得ているか、自己確認をするためにも、である。
  • 書いてしまいました。書きたくなったからなんです。というより、前昭の報告があまりにも未整理だった穴うめもかねてです。書くことで、私自身にはいくつか整理できましたので、自分には意味がありました。(N.T)

1979/11/24 175

10月第二例会
(今回の例会のまとめは、当日の司会のひとりであったS.Fさんにお願いしました。)
私は こう整理した
S.F

 「平易に考えたい」という芥川の文章に接して、なかなか明確な論旨だとか、比喩がおもしろいとか、さすがは芥川、と読んできた上での参加。『文芸一般論』のN.A、A.H報告、『文芸鑑賞』のN.T、K.S報告を、自分の網にひっかかったものだけを聞いて、なるほどとうなずき、赤線をひいた片言隻語などのおもしろさに喜んでの、木をみて山を見ずの読みの姿勢だったので、討論の中での熊谷先生の指摘にびっくり。
 N.A、A.H報告は、教養的中流下層階級者の視点による文芸認識論の成立、という立場から、(ア)「内容=形式」論の問題、(イ)イデオロギー主義批判の問題、(ウ)ジャンル論の問題 の三点に中心をしぼったものであった。
 また、N.T、K.S報告は、作家でなければかけない評論という前提に立ち、(ア)読者論の位置付け、(イ)鑑賞上の訓練の必要性の問題――どういう風に、何を、どういう議論を――を中心にしたものであった。
 討論は、私たちの今まで学んできた文教研(熊谷)理論から、批判的な検討がなされた。その中でも、特筆すべきは、熊谷先生から、文学的イデオロギーという概念による整理が必要だということを前提にして、つぎのような指摘があったことだ。
(ア)芥川の“認識的方向と情緒的方向”というとらえ方について。情緒も認識の一つであるし、情緒に支えられない認識はないわけだが、整理の都合上、論理の問題として、形象的認識と概念的認識というように区別する。そのことの有効性について。
(イ)作家であるが故にすぐれている、といえるものと、作家であるが故に、すべってしまったもの。協業と分業という面からの評価の問題について。
(ウ)ジャンル論の問題として、詩と散文というとらえ方に対する批判。
(エ)教養的中流下層階級者の視点を、私たち自身が読者として、持っているのかどうか。その視点をふまえつつ、芥川の文章を読むことの必要性。
(オ)文芸を文芸たらしめるものという、文芸的価値――文芸精神、エスプリの問題、小説を小説たらしめるものとして、価値論を明確に一つにすることの問題。
 つまり、芥川にほれるが故に、アバタもエクボ的な理解の仕方についての、問題指摘がなされたわけである。


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