むかしの「文教研ニュース」記事抜粋 
 1980                *例会ごとに発行されるニュースから、部分を適宜、摘記したものです。

   
1980/1/26 177

1月第一例会 教養的中流下層階級者の視点と前衛の視点と
 以下は、当日、熊谷先生をはじめ報告者のA、N両氏の他各氏の発言内容を断片的ではあるが、ひとまず語録風にまとめてみた。例のS氏のノートを元にしてのまとめである。

「教育労働者」としての自己とは
 教育労働者と言った場合、まさか“職場”のことを言っているわけではないだろう。民族の未来にかかわる仕事をしている労働者――だから、それを正確に把えるためには、「存在と意識」といった場合の「意識」に関わる問題として、考えなければならないはずだ。
○文化を支えている「プチブル」の存在意義
 「教育労働者」というものを、そういう観点から把え直していく必要がある。mentarityの変革――それを目指すことが文学教育のねらいである。
「内容と形式」の問題を「思想性と形象性」と置きかえてしまうことについて
 それは、「文体」概念の欠落から来る“ブンレツ(ばらばら)主義”的「ブンガク教育論」といわざるをえない。
蔵原惟人の「政治主義」に対する批判
 生きている条件と切りはなしては「人間」はつかめない。
「真の楽天性」と「倦怠を感じない楽天性」
 その違いは「持続性」の有無にある。
「教養的中流下層階級者の視点」と前衛の視点
 蔵原が批判したその「プロレタリア文学」などは真の前衛とは言えない。それは、mentarity抜き、別の言い方をすれば、自己確認もなく、したがって自己変革もない主体抜きの前衛論だからである。真の前衛の視点に立つためには「教養的――」の視点をくぐらなければならない。“越える”のではなく、あくまでも“くぐる”こと。
文学的イデオロギーを徹底して追求した芥川
 「教養的――」の視点をくぐることなしには、真の前衛の視点に立ちえないことを実践的に明らかにした。⇒『大導寺信輔の半生』
○芥川による『羅生門』の改稿過程から見えてくるもの
 芥川はそのことを通して、「文芸一般論」で論究している「内容と形式」の問題を実践的に追求した(まだ理論的弱点もあるが)。理論的側面から言えば、それを改稿しなければならなかった必然性は、「人間の可能性をさぐる」という、その後それが井伏らにつながっていく観点(ヒューマニズム)があったからである。このことは自然主義とは決定的に違う、芥川において初めて成立った文学の視点(「教養的――」)ではなかったか。
芥川の「反近代主義」
 「本所の自然」あたりに見られるmentarity。
芥川の「文芸認識論」
 四迷、透谷、漱石、鴎外をくぐり、それを経て、マルキシズムをくぐったことからくる必然的結果である。⇒『文芸的な、余りに文芸的な』


1980/2/9 179、180、181[同日発行]

1月第二例会(1/26) 奈良本辰也「詩仙堂の庭」の印象の追跡
 編集部の仕事でテンテコまいのS.Mさんに、メモでもいいからと言って、無理に、というより強引にたのんで、まとめてもらいました。[ここでは、討論その他の部分を、ごく断片的に抜出して掲載する。]

〔討論〕から
○石川丈山という歴史的人間を虚構している文章――そこに文学の眼を感じた。
○丈山の文化へのあこがれ――文化を自分の内側にもったものの反骨精神。
○亀井勝一郎などのものとは違う文章――庭の歴史性の指摘、作庭の場面規定をしっかりとつかんだ鑑賞。人間ならだれでも「理会」できる筈、というのではなく、ある教養がなければわからないこと。
○筆者(奈良本)は丈山に“ほれて”いる。
○しかし、その丈山へのほれ方が問題だ。歴史家の眼でとらえている(歴史意識を根底としている)点が大切だと思う。
○最後の段落の「……歴史的なものと、超歴史的なもののふたつが分裂して、……歴史を昔しに還す想像力をもって……ひとつに溶けあって……」という筆者のとらえ方に疑問がある。
〔熊谷先生から討議したいこととして出された諸点〕
1.この筆者の「超歴史的なもの」というとらえ方について。
2.筆者における丈山の虚構(歴史的人間を虚構する文学の眼)について。
3.筆者は丈山にほれている、歴史家の眼がある、ということを明らかにしたい。
4.丈山の「頑固一徹」ということについて、『かるさん屋敷』(井伏)を頭に置きながら、“人間としておもしろみのある人間”――個性的な人間ということを考えてみたい。
5.この文章が日本文化論になっているという指摘をめぐって。
6.「僧都」についてのSa氏報告の指摘をふまえながら、そこにも筆者の虚構の眼があるのではないか――家元制度とたたかって来た筆者・奈良本氏のことを考えた場合。
7.「普遍に通じるもの」というSa氏の意見について、この場合、文教研で用いている「普遍」の概念に通じると考えていいか。
8.奈良本氏の文体について――勝本氏とは違うが、ある種の美文調の文章。その発想と、功罪。
9.「庭」を観る視点について――個々人の主体を通してみる、ということについて。
10.丈山の文章を昔読んだが、擬古文で、教訓的なもので、つまらなかったという印象を持っている。その人がこの庭(詩仙堂)を作った。その丈山をフィクションの眼で見た(典型といわれるようなものを刻んでみせた)奈良本氏の虚構について。

「詩仙堂の庭」の教材化をめぐって
A.Y

 「詩仙堂の庭――個性と教養の問題」(奈良本辰也著『日本の庭』河出書房 1960年10月刊所収)をめぐるYさん、Saさんの報告は、庭を通しての日本文化論の魅力を追跡された。
 熊谷先生の助言を媒介に、さらに明らかになったことは、詩仙堂こそ、石川丈山の最大にして最高の傑作ではないか、という点であろう。また、天皇の会見申し込みを断りながらも、村民には慕われ続けた丈山の反骨精神、頑固一徹、それは面白味のある人間の系譜にもつながるのではないか、という問題でもある。
 ただし、「詩仙堂が持つ優れた個性の表現は、現在では明らかに、歴史的なものと超歴史的なものの二つに分裂」しているという意見には、歴史家の姿勢を感ずることはできない。幕府体制初期において実現した個性と教養の所産である詩仙堂、それがこんにちなぜ訴えるのか。人間的・民主的・民族的体験の継承という側面から、あるいは芸能・文化系譜論の視点から位置づけ考察したい問題である。〈超歴史的なもの〉という発想では、それぞれの歴史的段階における文化の継承も再創造的な、きわめて主体的ないとなみの質が見失われてしまう。
 こうしたマイナスの部分も、教師は充分に把握した上で、この随想を高校段階で教材化したい。そのさい、感動的な場面に焦点をあてたい。不完全さを批判しつつ、肯定面に学ぶという姿勢である。


1980/2/23 182

2月第一例会 民話の教材化――「かさじぞう」に即して
 テキストは瀬田貞二・再話 福音館刊の『かさじぞう』。報告者はF.Tさん。今回のまとめはK.Sさんにお願いしました。
T.基本過程としての作品把握
1) 人間味のある仏様
 道ばたで見かける地蔵様は、人間の誰かと似ているとさえ思うほど。乏しい金を出し合い、心をこめて刻んだ庶民の仏様、庶民の生活に直結した仏様。この伝説に託された庶民の願い。ある特定の地域のものでなく、そこに普遍性が。
2) 類型的普遍化
@ まずしい善良な庶民であり、互いに信頼し合って生きている。
A 素朴な地蔵信仰が基調になって。→じいさんが地蔵様に笠をかぶせる。
B その善行への報いがある。
――類型的な普遍化、そこに説話文学の一つの特質がある。
3) テキスト『かさじぞう』に即して
・ 冒頭から方言らしさを生かした民話調の語り口である。
・ じいさんと地蔵様とは一心同体。
・ じいさんへの絶対信頼と、地蔵様への思いやりに満ちたおばあさん。三者一体。
・ 読者に共感と親近感をもたせる。そういう反応を引き起こす文体の作品である。
・ すばらしい絵。
・ 絵と文章とが一体になって、読者を物語の中に引込んでいく。
4) 教科書の中の「かさじぞう」
・ 五社中、四社が取りあげている。だれの文章を採るかが問題。下記参照。

『かさじぞう』(瀬田貞二) 『「かさこじぞう』(岩崎京子)
・「あやあ、むごいことだなあ。はだかでゆきかぶって、さぞさむかろう。」 ・「おお、おきのどくにな。さぞつめたかろうのう。」
※地蔵様との間にすき間がない。快適なテンポで話が展開されている。
――説話の特質が生かされている。
※両者の間にすき間、まのびも感じる。「おきのどくに」と突き放して眺めている。
――小説的
〔説話〕閉鎖的な集団の中で、語り手と受け手とが、同じ発想に立っていることが前提であり、そのことによって成り立つもの。 〔小説〕個が独立しており、作中人物が行動しているだけであって、それをどう見るかは、個としての読み手にまかされているもの。
 *この説話と小説の規定は熊谷先生による。

U.教材化の視点―説話は説話として―
1) 素朴なおもしろさを保障しながら、たしかな“夢”を
 たとえ、大人の目からは“夢”としか思えない地蔵様との対話も、自他未分化な発達段階にいる子どもたちにとっては、“現実”そのものである。
2) 共同体意識をはぐくむ
 説話は、共同体の中で生活してきた者のメンタリティーが生んだもの。地蔵様、じいさん、ばあさん、この三者の織りなす“人間模様”は、自己中心的な傾向から脱しきれない子どもたちの心にゆさぶりをかける。自分と自分のまわりを見つめ直す契機にしたい。
3) 絵物語の特質を生かして

★共同体意識を現代にそのまま移そうとするなら、これは反動以外の何ものでもない。共同体意識を媒介しながら、前に進むことが好きだ、という、現代の子どもの積極的な感覚に似合う典型が必要である。作家がどう意識していようが、「民話」は“再話ではなく、“創造”である。――「民話」といっても、それが文字化された時には、文字化した主体の虚構が加えられる。――そこが教材化の視点である。(熊谷先生の発言)


1980/3/27 184

文教研 誕生日の集い 
 文教研は1960年に発足しました。ですから、今年は二十年めということになります。その祝いの会を2月23日に持ちました。以下のメモは、その時の各氏の発言をまとめたものです。メモ自体に多少のデフォルメがあるかもしれませんが、お許しください。じつは速記者も祝いざけを飲みながら……でしたので……。
○「エルム期」[草創期の少し後]に入会した二人の男の嘆き
〔その1〕 S.Fさんの場合
「とにかく来い、とNさんに言われたんですよ。だから来たんです。そしたら、頭から金(会費)を出せ、と言われた。箱根の手前に住んでるというのに……。」
〔その2〕 S.Mさんの場合
「そのNさんから、『会員になれますかッ』て言われたんです。そのあとがいいじゃない、『酒はどれくらい飲めますかッ』だって。」
※S.MさんがS.Fさんに同情して作ったウタ。
     の戸に 降る秋雨よ 縁の先 読みてある な濡らしそ
[エルム荘での例会。部屋が満員で縁先に座ったS.F氏に、いつしか降りだした雨が降りかかる。議論に熱中のあまり、それに気づくものはいない。氏は濡れるままに議論に参加していた、という伝説が語り継がれている。ウタには氏の名前の一部らしきものが詠込まれている。]
○今だから言う  S.MさんとNさんはケンエンの仲、その秘密
「例会が終って帰る時の東横線でNさんはズーッとしゃべりっぱなし、ぼくはズーッときかされっぱなし。Nさんとは別の電車にのって眠りたかっただけです。」(S.M)
○いいたい放題
「あの頃、I君はまだ坊やだった。それだけじゃない、今をときめくSaさんもI君の友だちだとワタシ思っていたんだから、アハハハ……」(A.H)
○そんなら言わしてもらいます
「俺は小学校五年生の時、小学校の免許もないA先生から国語を教えてもらったんだ。それからというものは中・高とヘンコウ教育しか受けてこなかった。」(I.M)
○ぼくだって被害者のひとり
「『人間だったら、文教研に入れ』(N先生)、結局、アレヨ アレヨ……サ。その頃、ボクも含めて、N先生はアコガレのまとよ。関係ないけど、ぼくの兄貴はS先生が担任だったというじゃない! なーんていうの……この人脈!」(T.M)
○“まじめ”な話
「いえ、決して組合活動がだめだと言っているんじゃないんです。これからもずっとやっていきますよ。ただ、そのなかで自分がカスれていくような気になっていた事は事実です。そんな時に、文教研があったんです。」(Y.H)


1980/5/17 190

値下げ断行 機関誌「文学と教育」 380円⇒330円⇒180円
 112から値下げを行なうことを、前回の例会で決定しました。現在、毎号500部を印刷していますが、いつも100〜50部が残(ザン)となっています。それらももちろん機会あるごとに販売していますが、もっと多くの人たちに私たちの考え、主張を知ってもらいたいということから、身を切るおもいで、あえて値下げを行なったものです。[以下略]

広島の研究会 第三回教育基礎講座 熊谷先生の講演
 去る5月10日(土)、当地で研究会が開かれ、熊谷先生は「文学の授業―その創造と変革の道すじ―」という題で講演をされました。首都圏グループで参加した人はA、N、S、Kの各氏でした。この会に参加した人は110人以上であったそうですが、その研究会の基調報告はもちろんのこと、ウラバナシも含めていずれこの紙上に載せたいと、ニュース部ははりきっています。


[この年は、これ以後のニュース発行はなかったもよう。]

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