《資料》 文 学 の 仕 事 ―― 諸家の文学観に学ぶ
 

戸坂 潤 「わが文学観 ―― 要点三つ(『作品』 1936.1 )より


文学がどういふものであるにしても、少くとも、それが一個の社会現象となつて現はれて初めて完結する或るものだといふことは、云ふまでもないことで、そしてそれが一個の社会現象となつて現はれねばならぬといふことだけから、他の一切の遠近の諸社会事象と本質的な交流関係に這入つたものであらざるを得ないといふことになる。之(これ)は殆んど公理のやうにして明らかなことだ。文学の活きてゐる現実界がここにあるとすれば、文学的真実(、、)、文学的真理(、、)がその社会的役割(、、、、、)を離れてはなり立たないといふことも亦(また)、公理のやうなものだ。その社会的役割を文学者(作家=評論家=読者大衆(、、、、)も含めよ!)自身が自覚し得ようが得まいが、夫々(それぞれ)の文学に就いて、さう云へるのである。(…)

文学的真理(、、)真実(、、)は、生きた社会の大きな動きを離れては、無だ。
 真実とは自己との一致なのか。ではその自己とは何か。.君の小さな自己的な自己との一致が、なぜ真実や真理の名に値するのか。

文学をこの社会的本質から見て、即ち文学を一つの文化(、、)と見て、文学は科学と一双をなしてゐる。文学と科学とは文化のただ二つしかない部面であるからだ。私は文学を、科学と対比させずには、決して考へることが出来ない。尤
(もっと)も文学を科学からただ徒(いたずら)に区別することは、全く古くさい知恵の一つに過ぎない。さういふ調子で、之(これ)まで宗教的な俗物は科学と宗教とを、哲学的鈍物は科学と形而上学とを、文学的オッチョコチョイは科学と文芸とを、峻別してきた。無論科学の束縛をどうやつたならばゴマ化してはぐらかすことが出来るかといふ興味からなのである。(…)

では文学と科学とはどういふ交渉を持つか。(…)科学はなぜ文学を必要(、、)とするか、そして文学はなぜ科学を必要とするか、といふことが問題である。必要といふ言葉の代りに必然(、、)といふ言葉を置き換へれば、又よく意味が生きて来るだらう。――つまり私に云はせれば、科学はその認識目的を突き詰めれば、文学にまで延長(、、)されなければならぬのであり、それから文学が人間的認識の客観性(、、、、、、)を求めれば、科学的範疇に足場を置くことによつてしか、その探究が可能でない、というふのである。

モラル又はモラリティーといふものを持つて来れば、科学と文学とのこの交渉といふ課題の意味がハッキリするだらうと思ふ。科学的探求が科学的探求に止まる限り、公理乃至
(ないし)公式の体系に止つてゐる。之は例へば歴史に就いて云へば、社会の分析であつて、まだ社会の歴史的叙述(、、、、、)ではない。でヘロドトスはすでに文学の領域である、尤(もっと)も彼には遺憾ながら十九世紀以来の社会科学的範疇がないのだが。ゴーリキーの文学論を見ると、文学に於ける誇張(、、)の役目に就いて語つてゐる。誇張といふのは私に云はせると、科学的(、、、)範疇に基いた限りの空想(、、)の能力のことだらう。かうやつて科学的概念は文学的な表現にまで誇張され打ち出されるのである。道徳(モラル、モーラリティー)とは恰(あたか)も、理論の誇張のやうなものだ。――かうした大切な意味に取られた誇張こそ、評論(、、)の場面でもあるのである。

文学を科学から絶縁することは、だから絶対に許されない.夫
(それ)を許せば文学の一切が厳粛なナンセンスとなる。批評にも何にも手懸りがなくなる。夫(それ)は埃(ほこり)をバットで打ち返さうとするやうなものになるだらう。之(これ)は神秘主義の論理だ。だがさうかと云つて、文学を科学と一緒にしたり混同したりすることも許されない。(…)

で私は文学を、科学との間に於て、モラル、モーラリティーに於て、理解する.。之
(これ)は「文学」といふ常識的な観念から見れば、文学を途方もなく拡大したものに見えよう。だが今日の常識による「文学」といふ観念は、別に歴史的な権利を有つてゐるわけでもない。ただ皆が、人の真似をして、漫然とさう云つてゐるに過ぎない。文学は「文学」以上に広いものだ。(…)

 (『戸坂潤全集 第四巻』に「思想としての文学 4 批評観三題」として収録 )

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