《資料》 文 学 の 仕 事 ―― 諸家の文学観に学ぶ
 

A. ティボーデ 『小説の美学』Le Liseur de Romans(1925 )より


■小説の普通読者(レクトゥール)とは――それは、小説といえば何でも手当り次第に読み、《趣味》という言葉の中に包含される内的、外的のいかなる要素によっても導かれていない人をいう。(…)ここでレクトゥールと名づけた読者たちは小説に娯楽、清涼剤、日々の生活のちょっとした休息、そういうものしか求めない。この人達は忘れっぽく、その読書は絶えず新しいものに走り、自分の生活の素材や本質に大して影響しない。小説を読む人の大多数はこの階級に属する。もっとも、あらゆる時代に大多数人間は芸術というものを一瞬の気晴らし道具と考えたものである。が、もしこういう人が大多数ではなくて、全部であったら、芸術は進歩しないだろう。 p.28-31

■こういう平穏無事の層、それを待ちうけている地面によって従順に吸収されて行く規則的な雨のその上方に、空中の世界が存在する。そこでは雲が往来し、雨が作られ、気候がつくられる。つまり、私の言おうとするのは、生きている文学の世界である。つまり、小説のレクトゥールだけが全部の場所を占めているのでなく、リズールもまた存在しているという意味なのだ。小説の精読者(リズール)という人種は文学というものが仮の娯楽としてでなく本質的な目的として実在する世界、即ち人間の他の諸種の人生的目的と同じ深さをもって全人間をとらえうるものとして存在する領域において選ばれている人達である。 p.32

■真の意味におけるこのリズールの第一位には、私が小説の生活者(viveur de romans)と呼ぶ種類の人を置くべきだと思う。およそ小説、説話的または戯曲的仮作(フィクション)は多少ともわれわれを現在われわれのいとなんでいるのと別の生活を体験させ、芸術家の創造した世界を信じさせることを目的としている。が、それらの作品にもまた読者にもいろいろ段階がある。
 初歩的段階は、鵜呑みの信じ易さ、であって、これは読者の無知愚かしさを示すばかりだ。たとえばセルバンテスは、小説中に語られたことを如実に信じる愚直な下女を描いている。その下女達は政府や宗権によって是認されているという理由、王様や宗教裁判は虚妄を決して是認しまいという理由で信じるのだ。こうした機械的な信じ方は、かの芸術と生命の世界を支配する感応作用 (suggestion) とは関係のないものである。真の感応作用、小説生活者すなわち小説を生き、ロマネスクに生きる人間をつくる感応力をば、セルバンテスはドン・キホーテ自身の中に英雄化している。ドン・キホーテは騎士小説の世界の実在を信じるが、それは出版者の公的特権によって保証されているからではない。この世界だけが彼の天性の願望にかない、人間性について彼のもつヒロイックな理念に応じるからなのだ。(…)彼が小説的(ロマネスク)世界の中に現実の世界を認識するのは、彼が自分の内的、精神的世界をこのロマネスクの世界の中に投射するからである。
(…) p.32-33

ドン・キホーテにあっては小説の読者は同時に小説生活者となり、小説生活者は自己の生活の生活者となっている。しかもこれは理想(イデー)の生活を生きる人、ヒロイックな努力によって分娩されねばならぬ生活の生活者となっている。公的証明にたよってロマネスクに信をおく低次の信じ方の階級と、プラトンがイデーを信じ、カントが義務を信じたごとく、ロマネスクはあらねばならぬという理由でこれを信じる最高度の感応作用との間に、まだまだ無数の中間的段階があって、それぞれの程度に応じつつ小説読者は小説を生活する人となっているのである。 p.33-34


■小説が読者によって生きられるため、技術的な可信力(クレディビルテ)が生命ある感応に達するためには、二つの方法、二つの相反した方法をとることが可能である。その各々がそれぞれ二つの相反する小説形式の原理となる。すなわち、それはドン・キホーテ的面とサンチョ的面。
 作家がヒロイックな面まで自己を高揚させ、イデアルな生活の翼をひろげて、それを読者の心に感応させる。そして読者がこういう面と共感しうる何かを己れの内にもっている場合、この小説を多少とも自ら生活することになる。これがつまり、ドン・キホーテとその愛読した騎士小説との典型的な場合である。(…) p.34


■一方でまた、作家はこれと正反対の、表面はより易しく、より確実とも見える方向をとることもできる。自分の小説が読者によって確実に体験されるために、作家は読者が実地に生きた、もしくは現に生きつつある生活から取材して、読者の目にその生活を鏡面のごとくそのまま反射させる方法、これはつまり写実主義(レアリスム)と呼ばれる小説である。こうなると、小説は読者に新奇な生活を体験させるというのでなく、彼らの日常の生活を生きさせる手伝いをするようなものだ。その日常の生活を強調し、分析してみたり、またはかえってより一般的な生活の流れに調和させて見たりする。だが、ここにもまた二つの場合がありうるわけだ。一方には、ジョージ・エリオット風のレアリスム、他方にはフローベール風のレアリスムがある。一つは小説が読者に、最も暗く卑賤な生活のただ中において、最も光彩あり劇的な生活におけると変らない高貴さ、悲壮なものの力を発見させる。これはエリオットが「アダム・ビート」の有名な一章で展開している原理だ。も一つの方法は、小説が読者に、彼の幻想をすっぱり棄てさせ、己れの惨めさ笑止さを意識し、ひいて人間性一般の惨めさ滑稽さを考えさせるものである。これはフローベールの小説で、また自然主義小説の多数のものはこれに類する。 p.35-36

■この二つの型の小説を併せ読むことは、即ち自己認識し自己を判断することに導かれるので、これはつまり十七世紀にモラリストや説教家が行った役目を、小説の上に見ることとなる。一方では普通の人間、ありきたりの庶民的な人間の姿を見せつつその偉大さを具現する小説。他方では、人間のみじめさ、弱小を示す小説。これら小説家の一群は幾百万のひとに向って、パスカルが若干の隠遁者達に対してエピクテートス、モンテーニュから要求したのと同じ役目をつとめるわけだ。 p.36

■小説家は彼の小説の人物像によって読者の状態を模倣させつついわば読者に従う。そこで彼は自分の本の巻頭にラブリュイエールのように《私は公衆(ピュブリック)が私に貸していたものを、また公衆に返すだけだ》と言ってもいいのだ。しかし、これと反対のことが起りうる。読者の方から《われわれは小説家が前貸ししてくれる生活を、あとから体験するのみだ》と言いうる場合もあるだろう。――この前貸し(crédit)が、そもそも、作家が読者の信じる力をもふくめておいた現実をさらに生むものとなるのだが。これはややバルザックの場合がそうだった。彼は七月王政治下に生活していたのに、彼の小説中に描いた社会はむしろ第二帝政治下のそれに似ている、とよく人が言ったものだ。これは、第一、バルザックのような人はいつも自分の時代に先行し、決して遅れて歩くことをしない。時代を現在の相の中に見るよりは、もっとその生命的な動きの中に看取し、現れつつある未来の相の下に見るからである。第二の理由は、特にバルザックの小説は読者の上にある暗示をあたえ、読者をして自分たちの生活、社会の中に、作者自身の魂や生命を自然と導入させるようにしているからでもある。バルザックはなるほど戸籍簿の向うを張って競争した*。しかし、一方また戸籍簿の方もバルザックと張り合い競ったのであって、社会にバルザック的人物が追々生れてきた。スタンダールについても同じことがいえる。「赤と黒」はあんなに多くのソレル的野心を目醒めさせた。今日ではドストエフスキーである。彼はロシヤ革命の社会を見、これを創ったといわれている。ちょうどバルザックが第二帝政時代の社会を予知してこれを覚醒させ、ルソーがフランス革命のそれをつくったようにである。(…) p.36-37

 * 戸籍簿の…… バルザックは、彼の全小説に与えた総題《人間喜劇》の序文に於て、戸籍係と競争する、と公言した。(ダヴィッド社 1957年刊 A.ティボーデ『小説の読者』に付した、訳者・白井浩司の注による。)

■天成の小説家は自己の可能的生活の無限の方向をもって人物を創造し、技巧的小説家は自己の現実生活の唯一本の線に沿って創造するのである。真の小説は可能なるものの自叙伝でなければならぬ。(…)小説の神秘力は可能なものを生かせることで、現実を再生させることではない。(…) p.59-60

 引用頁は白水社 1953年刊・生島遼一訳 『小説の美学』 による。 )

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