《資料》 文 学 の 仕 事 ―― 諸家の文学観に学ぶ
 

大江 健三郎 「いま、なにが日本の作家に必要か」(『朝日新聞 夕刊』 1972.1.7 )より


現代日本文学は、人間の仕事としてその総体において真にまともなものか? それをあらたに問題にしようとする声は、可能なかぎり多様であるほど望ましいであろう。
 ひとつの理論が、教条的に支配し、それを疑う声がおしつぶされるとき、文学は死ぬ。もっとも、広く常識にうったえて説得的な、文学への批判が、その常識の域をこえることはまれであった。硬文学流の、文学への批判は、つねにたのもしかったが、そうした声を発する者は、しばしば時の権力に弱かった。
 文学は、新しい現実と新しい人間とをめざす、言葉と想像力の孤独で不安な努力によってのみ実現するものであって、「常識」も「権力」も真に有効な援助をあたえてくれはしない。文学もまた、ほかのあらゆる職業についてと同じく、専門家の仕事である。

思い込みを捨てよ  それを確認しながらいうのであるが、わが国の作家は、その生き方と作品を、日本の現実につきあわせつつ、みずから検討しなければならぬところへ来ているであろう。いまや様ざまな職業の日本人が、切実な必要にせまられて、また具体的にのしかかってくる先行きの不安にうながされて、それぞれに自己検討をおこなっている。時代の転換期の嵐(あらし)を見すえ、そこに積極的に入ってゆこうとする、作家がかれ自身を検討せねばならぬのはなおさらであろう。(…)

「戦争責任」という言葉が見すてられた今、作家たちこそが、この言葉をみずからよみがえらせて、三十年前と今日を、自分の責任によってつなぐべきではないのか。われわれは言葉の専門家ではないか?
 いまや日本の作家は、かれの日本的思いこみから自由になって、任意の、この世界のある一点から、たまたまわが国を遠望するような具合にして、自分の仕事を見ることからはじめるべきであろう。

見よ現実のひずみ  日本的思いこみから解放された眼は、相対的に批評しうる対象として、日本の現実を見、日本をめぐる国際関係を見る。そのただなかにいる作家が、現実にどのようにむかいあいつつ仕事をしているかを見る。逆に、ひとつの作品からさかのぼるようにして、日本の現実にいたり、なおアジア、世界にむけてひろがる眼が、その展望につきあわせつつ、この作家・作品はそこではたして自立した意味をもつかをも見る。
 日本的思いこみのフィルターをかけられていた眼をいったん自由にすれば、今日のわれわれの現実のひずみ、滅びへの傾斜はあきらかに見えてくるであろう。その相対的な視野のなかの日本は、核戦略の威嚇
(いかく)のたくらみの、かっこうなイケニエとして突きだされながら、その酷い他人様の核戦略を、もっともたよりにしている国である。(…)

作家はかれの想像力をはげしく集中した言葉で、現実と人間に照明をあたえ、新しい現実、新しい人間へとみずからのりこえる力をそれにあたえようとして仕事をしている。しかもそのような日本の現実にあるところの作家の作品から、この現実のひずみ、滅びへの傾斜とつながる回路が、いっさい跡づけられぬとしたら、相対的な視野のうちに、世界、アジア、日本、日本人、作家の仕事を展望する眼に、それは異様なほどの欠落をあきらかにするはずではないか?

相対的視野を欠く  このような欠落を日本の文学的状況にひきおこした力のひとつに、おもにアメリカ・ヨーロッパ圏から日本文学を評価する、これまでのそのしかたが、あげられねばならぬだろう。フジヤマ、ゲイシャの異国趣味の視点が、日本文学をすくいあげようとしてきた。しかしその視点を拒むどころか、すりよるように反応したのは、日本の作家の自由意志であった。もっとも国際的な評価の高かった日本の作家の、あのおそるべき日本「中華」思想への自己燃焼を思い出せ。それはまた、わが文壇の枠(わく)内に、およそ日本をこえた相対的な視点をもちこむことはけっしてせず、いったんそこから自由になった眼には、気恥ずかしいような、難解小説論議やら、文壇衰弱説が、尊重される夜郎自大の気風をかもしもしたのである。

異議の申立て必要  なぜ夜郎自大の気風であるかといえば、それは作家がみずからの仕事を疑わず、評論家がかれの気分的思いこみにのみ批評の軸をおいて、ともに相対的な視点から日本の現実と、それに深く根ざした文学を考えてみることをせず、いたずらに権威風を吹かしているからだ。
 それゆえにこそいま僕がもとより自分自身にむけてもまた、あらためて喚起しようとするのは、このような日本的思いこみから自由となった、アジア、世界にひろがりうる眼で、嵐のただなかに沈みこみつつある日本の現状を見なければならぬ、という自覚である。その時、作家は、ほかの職業人同様、ただ自分の専門の仕事を現実につきあわせることによってのみ、なんとか活路をひらかねばならぬ、という認識にいたるだろう。
 そして、ほかならぬ言葉によって、新しい現実、新しい人間にいたる想像力を発揮するところの職業にある者、すなわち作家の当面の課題は、欺瞞
(ぎまん)の意味しかもたぬ言葉によって、われわれみなをのせた箱舟を、滅びに急行する軍船に艤装(ぎそう)しようとする、あの言葉をもっとも軽蔑する権力の座の「現実家」どもに、異議を申したてることであろう。もとより作家の声が有効たりえるみこみは少ないとして、しかしこの専門家の声を発するとき、われわれもまた文学は、農耕や漁撈(ぎょろう)のような「男子一生の仕事」だと把握(はあく)しなおしうるだろう。


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