《資料》 文 学 の 仕 事 ―― 諸家の文学観に学ぶ
 

除村吉太郎 他編『ゴーリキー 文学論 』(富士出版社 1952年刊)より


若い人たちとの対話(1930年)

■私は自然主義者(ナチュラリスト)ではない。私は文学が現実よりも高く立つこと、文学がすこし高いところから現実を見おろすことを主張する。というのは、文学の任務はたんに現実を反映することのみにあるのではないからである。存在するものを描写するだけでは足りない。望ましいものおよび可能なものについて記憶していることが必要である。現象の典型化が必要である。小さくはあるがしかし特徴的なものをとり上げて、大きな、そして典型的なものをつくり上げること――これが文学の課題である。せめて十九世紀だけのでもよい、もし諸君がその大作品をとって見るならば、文学がこのことに向って努力し、大作家たちにおいてこれを見事に達成しているのをみるであろう。たとえばバルザックにおいてそうである。しかし彼の名はしばしば口にされるけれども、よくは知られていない。(…) p.102

文学その他について(1931年)
■文学者は、文学が私的な仕事であると考えている。時たま小利口な半可通や鈍物が文学者のこのような考え方を助長する。最近このような連中の一人が作家にむかって言った――「作家としての仕事はあなたの個人的な仕事であって、私には無関係である」と。これはもっとも有害な妄言である。文学はいまだかつてスタンダールやレフ・トルストイの私的な仕事であったことはなかった。文学はつねに時代、国、階級の仕事であった。古代ギリシャおよびローマやイタリヤのルネサンスやエリザベス時代の文学、デカダンやシムボリストの文学はある。しかし誰もエスキロス、シェークスピア、ダンテの文学については言わない。十九-二十世紀のロシヤ文学者たちのタイプの驚くべき多様性にもかかわらず、われわれはやはり、時代のドラマ、悲喜劇およびロマンを反映する芸術としての文学について語るのであって、個人としてのプーシキン、ゴーゴリ、レスコフ、チェーホフの文学についてではない。(…) p.200

文学その他について(1931年)
■絵画も、文学も――いまのところまだ成功的な試みという性質しか持たない少数の例外を除いては――争うべからざる才能者がいるにもかかわらず、それでもやはりあきらかに、われわれの現実のもっとも特徴的な諸現象の綜合的把握をあたえる力を持たない。しかもこの現実の創造者および主人公は、創造的力の最大限の緊張の状態において行動しつつある人間の集団的労働なのである。現実は壮大(モニュメンタル)であり、それはもうずっと前から広大な画布に――形象における広汎な一般化に値するものである。われわれの批評は自己のまえに次の問題を提起しなければならない――批評は何によって文学者に助力することができるか、そして現代の文学者は、彼の持っているその技術、その手法によってこれらの一般化、これらの綜合(シンテーゼ)をあたえることができるか? レアリズムとロマンチズムとを結合して、このヒロイックな現代をもっと鮮かな色彩で描き、現代についてもっと高い、そしてそれにふさわしい調子で語ることのできる何か第三のものをつくり出す可能性を探求すべきではないだろうか?(…) p.206-207


社会的レアリズムについて(1933年)
■作家は、過去の歴史の十分な知識と、そして彼がそこで同時に助産婦と墓堀人との二役をはたすべき使命を負わされている現代の社会現象の知識をもたなければならない。墓堀人という言葉は陰気にひびくが、しかしそれは完全にその所をえている。この言葉を溌溂とした快活な意味でみたすことは、若い作家たちの意志に、その能力にかかっているのであって、そのためにはただ、わが国の若い文学が、ひとびとに敵対的な――ひとびとがそれを愛している時にさえも敵対的な一さいのものに止めを刺し、それを葬り去るべき使命を歴史によって課せられているのだということを思いおこさなければならない。(…) p.274-275

文学技術について(1934年)
■労働者は鉱石を溶解して銑鉄をつくり、銑鉄から鉄や鋼をつくり、鋼から裁縫針や大砲や戦艦をつくる。文学者の材料は、文学者自身とまったく同じような人間、同じような性質、意図、願望、趣味や気分の動揺をもった人間である。われわれの時代においては、もっともしばしばこれは、彼において過去が現在に矛盾し、しかも未来ははっきりしていない人間なのである。この材料は、選びだされかつ想像される一個人にたいして、あるグループの個々にとって典型的な形式を賦与しようと欲する作家の意志にたいして、きわめていちじるしい抵抗力をもっている。
 われわれは、観察し、比較し、もっとも特徴的な階級的特質を選び出し、そしてこれらの特質を一人物の中へ包含する――想像する――諸手法を立派に修得している文学者を才能ある文学者と見なす。こうした文学的形象、社会的タイプが創造されるのである。想像は、形象を創造する文学技術のもっとも重要な手法の一つである。技術――すなわち仕事の過程――を、われわれの批評家のあるひとたちがいしているように、形式の概念と混同してはならない。想像とは、材料の研究、選択の過程を終結させ、これに最終的に形式をあたえて、生きた、肯定的にかあるいは否定的に重要な意義のある社会的タイプたらしめることである。文学者の仕事はおそらく学術専門家、例えば動物学者の仕事よりもむつかしいであろう。科学者は牡羊を研究するときも、自分自身を牡羊として想像する必要はない。しかし文学者はもの惜しみしない人間であっても、自信をけちん坊として想像し、無欲であっても自分を欲のふかい守銭奴と感じ、意志がよわくともつよい意志の人間を納得のゆくように描かなければならない。よく発達した想像の力によってこそ、才能ある文学者はしばしば、彼の描く主人公たちが、それを創造した巨匠自身よりも比較ならぬほど大きな意義をもった、鮮明な、心理的に調和のとれた、そして完全なものとして読者のまえに現われるほどの効果を挙げるのである。(…) p.294-295


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