< 熊谷孝 講演記録 >
1980年5月10日
広島市民間教育サークル会議主催 第3回教育基礎講座

 
  文学の授業―― その創造と変革への道すじ        熊谷 孝  
 ― 1980年8月発行 『文学と教育』 第113号 より転載 ―   


 講演記録の掲載にあたって   編集部

 広島の土地柄は、それを教育風土という目で見てみると、官製教育の有力な拠点であると同時に、民間教育運動が活発な所のようである。そういう風土の中で、民間文学教育運動の推進力になっているのが 《広島文学と教育の会》 のメンバーである。
 広島の運動はさらに、各教科教育を横につないで 《広島市民間教育サークル会議》 を結成して、共通の目的へ向けて確かな足取りで歩みを進めている。一昨年来、地元教組との提携によって開催している 《教育基礎講座》 の活況は、そうしたことの具体的な一つの現われである。
 さて、この基礎講座の一翼を担って、広島文学と教育の会が今年も国語第一分科会を企画・運営することになった。熊谷さんがまたひき続きその講演を担当することになった。そこでまた、文教研・首都圏グループから、荒川有史・夏目武子の両氏に加えて、編集部の黒川実・佐藤嗣男の両名が行(こう)を倶にすることになった。
 こんどの講演は気が入(はい)っていることが傍からも感じられた。「何よりも聴衆がすごく意欲的だった」というのが講演者の弁。以下に、その講演の部分摘記を。
 摘記は、大幅な割愛のため談話の流れが寸断されてしまっている点が目につく。その点をカヴァーするために、適宜叙述の順序の入れ替えや、講演草稿などによる補筆を行なった。文字通りの意味で文責編集部ということである。
 講演日時、5月10日午後2時~5時/会場、広島市寿殿/集会運営責任者、児玉晴子・脇田充子・中野斉子の諸氏。



 皆さん、しばらくでございました。 こちらの集まりに寄せていただきますのも、これで三年続けて三度目ということになります。「三度目は定(じょう)の目」とか申しますが、どうも私の場合には、そうはまいりません。定の目どころか、私の話というのは道草が多くて……という症状の自己診断はできてはいるんだけれども、ブレーキが利きません。またまた皆さん方の大切な時間をムダヅカイさせる結果になるんじゃないのかと、はな(・・)から気になります寄り道は避けるようにとせいぜい自分に言い聞かせまして、本題に入(はい)ります。


 教師論・授業者論の視点から
 さて、今日の話題は、<授業>一般との関連の中で、とりわけ<文学の授業>の<何>と<いかに>について考え合ってみることです。
 その<何>と<いかに>を、さっき夏目(武子)さんがコメントを添えながら読んでくださった、きょうの講演レジュメの(一)ですね、そのレジュメに書きつけておきましたような<教師論>の問題として考え合ってみよう、ということなのです。つまりは<授業者としての教師の人間主体>という側面から、授業というものを、また文学の授業のありようを問い直そう、ということなのですが……。
 問い直す? 実は、問うとか問い続けるというべきなのでしょう。いえ、そういうことであって欲しいものだ、と思うのですよ。
 だって、そうでしょう。およそ教育のいとなみは、教師の人間主体を通してのみ、良くも悪くも結果し実現するものなわけなんですから、その人間主体を問い詰めるということが、そのことが授業論の唯一の基本的な視点であるはずなのですよ。
 ところが、今の授業論では教師の人間を問うことが忘れられている。そこに問われているのは、教師の人間を素通りしたかたちの手段・方法、あるいは技術のことでしかない。そこでは、授業の<何>はすでに自明のこととして不問に付されているということなわけなんですが、<何>を素通りして<いかに>を、つまりは授業の対象や目的とするところのものの意味なり価値を問うことをしないで、いわば他から与えられた目的を実現する手段・方法をただひたすら問題にしている、という格好です。
 こんなことでいいんでしょうか。
 <何>と<いかに>との関係は、いいかえれば、<対象>と<方法>との関係、<目的>と<手段>との関係は、もともと目的がそこに前提としてあっての、その目的を実現するための手段であり、手段を組むということ以外ではないはずです。
 そこで、手段の価値は目的の価値に従属する、ということになるわけなのであります。
 授業目的を設定するということは、そこで価値観・価値意識においてその目的を選定し設定する、ということにほかならないわけです。
 また、ある価値観に立って選ぶ、決めるということは……それは以前に、あるものにプラスの価値を見つけ、あるものに価値を感じないという、その教師の対現実的な発想のありかたにかかわる事柄なわけでしょう。この対現実的な発想というのは、教師としてのそれであるという以上に、市民としてのと言ったらいいのか、究極においてひとりの人間としての全人間的な発想(・・・・・・・)なわけでしょう。
 それは全人間的な発想なのですから、個々の具体的な現実面についていいますと、その発想は政治へむけての発想であったり、文学・芸術へ向けての発想であったり、スポーツ・娯楽へ向けての発想であったり、それこそ教育や教育問題へ向けての発想であったり、というわけなのですね。
 それが全人間的な発想であるという限りにおいて、その教師の対政治的な発想・姿勢と、対教育的な発想とが、持続的なメンタリティーの問題として相関的・相即的な関係を示しているのが、まず普通だと考えられるわけです。ちなみに、この持続的なメンタリティーのことを、プシコ(心理)イデオロギーと呼ぶわけなのですが、たとえば右寄りのイデオロギーの持ちぬしである教師のほとんどが、いまの教育課程の積極的な支持者であったり、あるいは、もっと右寄りのものであることを教育課程に要求している、というのなんかは、彼らのメンタリティー、プシコ・イデオロギーからいって当然のことでしょうね。
 ところが、平和憲法、憲法第九条を是としているような教師が、また反安保のデモなんかにも積極的に参加しているような教師が、授業者としての教育実践面ではあっさり今の教育課程――学習指導要領に屈服しているような例があまりにも多いのですよ。それが節をまげてそういうふうにやっている、というんじゃなくて、はっきり言いますが無知のせいで、あるいは不勉強のせいでそういう結果になっている、というケースが少なくない。そういうことが国語科の場合に少なくない、というのは、どう考えたらいいのでしょうか。



 授業の場に教師の人間が息づいていない 
 今の多くの教育現場の実情は、授業の場に教師の人間が息づいていない。教師の人間不在の教室をそこ、ここに見受けます。他教科のことはよくは知りませんが、自分がタッチするような機会が多いせいか、国語の教室、国語の授業の場合に特にそのことを感じます。
 これは小学校の先生の場合ですが、他の教科を教えている時には割り合いノンビリとやっているその先生が、国語の授業をやるとなると方法主義者、技術主義者に変身する、というような例が少なくありません。どうしてなんでしょうか。
 小中学校の先生を読者対象にした国語教育の専門誌などを見ますと、よくもまあ飽きもしないで、と私なんか思うんですけれども、毎号毎号、こういう指導手順でやれば学習指導要領の、文部省の思し召しにかなう、うまい授業(・・・・・)ができますよ、というオタスケじいさんのご託宣が掲載・連載されている。
 また、オタスケじいさんのおっしゃる通りのことに多少自分の創意工夫を加味してみたら、それはもう授業がとてもうまくいった、何しろ生徒たちの目がキラキラ輝いてね、といった、実践報告と称する自慢話が毎号満載されているのが、今の御用国語教育雑誌の実態ですね。
 あんな雑誌を有難がって読むのはどうかしてる、と内心そう思うんですが、それが何万部という万単位で売れ行きを示しているんだそうですから、需要あっての供給、そんなことを公言したら、大方の現場人からフクロ叩きにあいそうでして、ダンマリをきめ込むほかはありません。ひどくハラ立たしいのですけれども……。


 人間不在の方法主義
 ともかく、そういうことなのでして、教育ジャーナリズムの場でも、実際の授業の場でも今ハバを利かせているのは、方法主義であり技術主義なわけです。方法・手段・技術というものが、教師の人間主体を素通りした格好で独り歩きしている。技術主義・方法主義の横行バッコです。
 授業の主体であるはずの教師は、そこでは、将棋にたとえていえば、自分で頭を使ってコマを動かす棋士であるよりは、棋士の発想・技術に奉仕する只のコマとして位置づけられているわけです。あるいは、教師が自分をそう位置づけている、という場合が少なくない。
 ただ、コマにも棋士にとって使いいいコマと、使いにくいコマがある。オタスケじいさん方式の発想に従って考える限り、教師に対して要求されますのは、すすんでみずから使いいいコマになることです。
 もっとも、これは比喩です。比喩には比喩の限界があります。でありますからして比喩を離れて申しますと、このオタスケじさん方式の国語教育理論が教師に対して求めていることは、教師その人が自分の意思において方法主義の信奉者の道を選び取るような、そういうメンタリティーの持ちぬしとなることであります。指導要領や指導書の指示するような授業を続けていたら児童や生徒は先行きどうなるか、などとユメユメ疑ってはならない。オタスケじいさん理論が要求しているのは、教師が懐疑を知らぬ人になることであります。
 そこで、なのです。授業。授業と自明のことのように言われている授業というのは一体何なのか、ということですね。授業という以上、それは何かを教えることなんでしょうが、一体どういうことを、どう教えることなのか、ということを改めて問い直す必要が生じてまいります。
 それに、教えるというのは一体どういうことをさすのか、ということもですね。教えるというのは反面、学習者に学力をつけるということなんでしょうが、学力一般なんてどこにもありはしない。学校の授業で身につけさせる学力というのは、どういう学力なのか、いやそれはどういう内容的性質の学力でなければならないのか、ということですね。そういうことを問い直す必要がある。
 究極において、授業における教師主体の位置づけ方というか、教師自身の全人的な、また教育へむけての発想が問い直されることの必要が、いまや最も実践的な問題として生じて来ているわけなのであります。その辺のことに関係して、これから、東京の明星学園高校の黒川実さんに、今年の第29次全国教研に参加して実感されたことをお話しいただこうと思います。黒川さん、どうかよろしく。  
 (注/黒川氏の談話概要については、本誌112号所掲の同氏の「第29次日教組全国教研を傍聴して」を参照していただきたい。)


 いい授業と、うまい授業

 今の黒川さんのご指摘を踏まえながら話を先へ進めたいと思いますが、日教組全国教研――といっても国語分科会の場合ですけれども、そこで考えられているところの、いい授業(・・・・)というのが、実は単に「イデオロギー主義的な、教科の論理を無視した生活指導的なもの」であるような場合が必ずしも例外ではなかった、むしろそれが他教科の分科会とは違って主流であった、という黒川さんの報告でした。
 だからして、それは母国語や、母国語文化としての文学を教えようとしているのか、それともただイデオロギー面で肯定できるような作品を材料に使って生活指導をやろうとしているのか、わけがわからない、というご指摘でもあったように思います。

 これは私の考えなんですが、文学作品を生活指導に役立てるということ自体はおおいに結構だと思うんです。また、それを、歴史教育の教材として使う……そうなくちゃならない、とさえ考えております。
 問題は、その場合の、文学の論理の無視という点にあるわけです。本当は、無視(・・)ではなくて無知(・・)のせいだと私は判断するわけなんですけれども、たとえばある歴史教科書では、日本近世町人の金(かね)の亡者的エゴイズムの一面を説明する際に、そういう町人の姿を現実的・肯定的に描いた作家として井原西鶴の名や作品名を挙げているのなどは、これはもう無知の極みというか、虚構とか典型化の何たるかをわきまえない、文学の論理の無視、無知ですね。
 西鶴が語りかけているのは、エゴイストとして振舞う以外に生きることのできない自分たちの苦悩を、笑いの中につき放すかたちで表現するという、そういうことにかかわる何かなのでしょうね。歴史学者のつかみかたには、何か作中人物のセリフや行動が作者西鶴の行動の代行だみたいな、文学以前、文学の論理以前の素材主義的な作品ハアクがあるわけなんです、この場合はということなのですけれども。ただし、そういう傾向が全般的にあることは確かなようです。
 ところで、さっきの黒川さんの批判は、他教科の場合ではなくて国語科の内側にそれが見られる。ばかりか、素材主義的・イデオロギー主義的な作品把握によるブンガクの授業が、いい授業(・・・・)だとして評価されていることへの黒川さんの批判でした。おっしゃるように、これはひどい。ひどすぎます。
 が、もっとひどいのは、カッコつきのそのいい授業(・・・・)いい授業(・・・・)としてスッポリ肯定した上で、それをさらにうまい授業(・・・・)(つまり、よくてうまい授業)として定着させるために、授業の到達目標(・・・・)というのを決めておいて、各教師をその目標へ向けて一斉にスタートさせる、というようなやりかたです。これで文学の授業が実現するのか? 
 そこでは、文学作品には主題・副主題・理想というものがあって、この作品の場合の主題は何、副主題は何というふうな取り決め(・・・・)が行なわれ、そのそれぞれの項目についての一つの正解へ向けて学習者を誘導するのが、授業の目的であり教師の任務だとされているわけです。
 正解は一つ、その一つの正解はわが胸中にあり、と教師が胸を張って授業をやれるようにするために、到達目標(・・・・)という名前の模範解答集(・・・・・)が必要になって来るのです。
 また、どんな教師がその作品を扱おうと、生徒がまた、どのような生徒であろうと、授業の到達点は一つだということを保障するために、一定の到達目標の設定ということにもなっているらしいのです。
 どうもここまで来ると生徒不在の授業論という印象になりますが、それはそれとして、こうした授業の発想は、テスト体制下の教育発想と矛盾するところのない、○×教育の発想そのものです。しかも、そこで○とされているものが果たして○であるのか、×とされているものが、果たして×だと言い切れるのか、懐疑は全くそこにないのか、ともあれ私なんかにはとうてい理解しかねる文学授業論であります。こんな授業論、イヌに食われろ、であります。


 オール5と落ちこぼれと
 いうまでもなく授業というのは、授業対象である学習者と、授業の主体である教師があって成り立つわけです。
 これまた、いうまでもないことですが、学習者がもともと素地(・・)としてもっているところの可能性(・・・)――人それぞれに具体的なありかたは違うけれども、究極において人間が人間になるための、あるいは自分自身に人間を回復するためのさまざまな人間的可能性ですね、それを引き出すのが教育のいとなみですし、教師の任務なわけですね。
 今、さまざまな可能性を引き出すということを言ったわけですが、その可能性のさまざまな側面をそれぞれに分担するのが、社会科とか理科とか国語科といった、それぞれの教科教育になるわけですね。
 それは、ところで、分担(・・)なのであって、分割(・・)ではないわけです。それぞれの教科がそれぞれの側面を分担して扱う学習者対象は、実は同じナンのナニ子(こ)であり、またナンのナニ男(お)という同じ人間なのです。一方の教科で、ある感覚や発想をカルチヴェートする作業を懸命にやっているのに、別の教科の授業では、そういう発想を摘み取るようなまね(・・)をする、というようなバラバラ事件が同じ学校の中で行なわれるようなことがあってはならないはずです。
 あってはならないはずのことが、しかし現実には行なわれている。そういうマイナスのことが起こるのには、いろいろな原因が考えられるわけですが、そのいろんなことの一つに、誤まれる教科主義が作用しているような場合が少なくありません。
 オレの担当は数学なんだから、とにかく(・・・・)生徒の計算能力を高めればいいとか、ワタシは国語教師なんだから、とにかく(・・・・)漢字の読み書きや、動詞・助動詞の活用を教えていれば間違いはないとか、そんなふうな考え方が間違いのもと(・・)なのですよ。
 この場合、とにかく(・・・・)では困るんです。とにかく(・・・・)読み書きを教えればいい、覚えさせればいい、のではなくて、何のために(・・・・・)読み書きを教えるのか、という()が、究極の目的が、そこへ向けての方向感覚がハッキリしていなくては、結果はともあれ、それは教育意識における教育のいとなみだとはいえないでしょう。
 何のために教えるのか? 何のために、ということを言うなら、人間が人間になるために必要な人間的可能性、人間の条件を引き出すために、ということ以外ではないでしょう。それはまた、みずみずしく豊かな人間らしい感受性や発想や、それに裏打ちされた確かな論理性を培うために、というような言いかたをすることもできましょう。
 そのことを自己流の言いかたで一口で言うとすると、人間として感動すべきことに感動できるような人間を学習者の主体の内側に創り出すために、ということになります。
 感動できる人間というのは、きっと、喜んでいいことに心から喜べる人間なんでしょうね。教師だったら誰だって経験してることだと思うんだけど、落ちこぼれだの何のと言われている子ども、自分の教え子のなかに、ほかの子どもたちの多くが見失ってしまっているような、あたたかい人間の心根を見つけて、思わず胸が熱くなる時があるでしょう。
 いや、教師自身の問題としていえば、そういうときに胸が熱くなるか、ならないか、ということなのですよ。教師その人が感動できる人間なのかどうか、ということなのですよ。
 生徒のほうに問題を返しますが、そういういわゆる落ちこぼれの生徒の中に、文学の授業の場合などでいうと、作品の表現を方向感覚を狂わせないでカンドコロをつかんだ感動を示しているような例も少なくないのですね。
 反対に、オール5式の超人的な優等生の場合、発言にもソツがないし、その感想文を読んでみても、起承転結があって、こじんまりと纏められてはいるけれども、ぐっと心に響いて来るものがない。なにかこう教科書に載っている作品に対しては、みんな自分と等距離にある作品であり等価値の作品だみたいな、そんな発言、そんな文章なのですね。いや、どうもそういう場合が多いというか目につく、といいうことなのですけれども。
 先生方。皆さんは、こういう作文というか感想文をお読みになって、成績評価という意味での評価ですが、5をお付けになりますか? それとも、4ですか、3、2、どう評価なさいますか?
 それから、さっき話題にした、作品ハアクにまっとうな、確かな方向感覚を示したような生徒は、あれは落ちこぼれなんですか。あの生徒は、いわゆる優等生の場合とは違って、その(・・)文学作品の訴えかけているものを自分の主体の問題として感動をもって受けとめているのですね。私にはむずかしいことはわかりませんが、先生方、どうか、そういう場合はうんと励ましてあげてください。そのあとも続けて、こういう生徒の面倒を見てやってください。お願いしておきます。


 国語教育とは何か

 そういうことを言うのは、私が落ちこぼれの生徒であり、落ちこぼれ学生だったせいがあるのかもしれません。たしかに半分ぐらいはそれがあるのですよ。落ちこぼれという言いかたに接すると、今でもカチンと来るのです。
 そういう私の中学生時代の話をしますが、その頃も今も私が嫌いな先生というのは、教え子のことを、できる生徒とできない生徒との分類して、そういう目でしか生徒を見ることをしない教師です。
 そういう先生たちの中に、リラちゃんとうニック・ネームの国語の先生がいました。リラちゃん……ゴリラのリラです(会場、笑い)……。進学指導のヴェテランで校長や生徒の父兄の評判はよかったようですが、私たち劣等生の間では言わずもがなクラスメートの優等生諸君の間でさえも、先生としての、師としての尊敬、敬愛の念はゼロだったようです。
 が、とにかく(・・・・)進学指導という面での腕は達者なものだった。単純な例を採りますが、漢字を数多く覚えさせる、短期間に生徒に覚え込ませるというあの手この手はたいしたものだ、と今でも思います。
 たとえば、当時は漢字は略体ではなくて板書してありますように、サクラは櫻と書き、コイは戀と書いたわけなんですが、戀というこの漢字をリラちゃんは、発音・発声の仕方にヘンに調子をつけて、「イト(・・)シ(糸)、イト(・・)シ(糸)、ト言フ(・・)(言)、ココロ(・・・)(心)」というふうに二遍、三遍と繰り返してはニヤッと笑ってみせるのです。
 櫻のほうも同じ伝なのでして、「二カイ(・・・)ノ、(二階/二貝)/、オンナ(・・・)(女)ガ、()(気/木)ニカカル」というふうにやってまたニヤッとするわけです。
 字形、字の格好を覚えさせるという目的からしますと、ニキビ盛りの男の子だけの旧制中学校の生徒を対象とした授業としては学力向上に大いに有効だった、と言えるのかもしれません。漢字の字形を、そして字数をたくさん覚えさせることが、その限りとにかく(・・・・)学力をつけることだ、というふうに考えるとすれば、なのであります。
 だが、漢語・漢字は一語=一字なのでして、字を覚えるということは、その言葉に託された意味やインプリケーションを同時的に理解する、ということなんですね。漢字は本来、意字、意味文字なんですから。でありますから、恋という漢字をそうやって教えるということは、恋という言葉に託された意味、その意味内容を、つまりは恋という事柄の意味内容を、「いとしいとしという心」のことだ、というふうに教えることになるわけなのですよ。
 それがまた、リラちゃんの例のニヤニヤ笑いという視覚的効果を伴っての「いとしいとし」なのですから、恋愛事象に対する生徒の価値観に奇妙なひずみ、ゆがみをもたらさないはずはありません。
 こういうリラちゃんの教育の仕方、授業の仕方は、なるほど漢字は数(かず)覚えさせることができたかもしれませんが、あれは国語教育――母国語の教育では断じてありません。
 言葉は使い方、操作の仕方で美しくもなり醜くもなります。美しい言葉操作をするためには、言葉を使うその人間主体の発想がその限り美しいものでなければなりません。去年の集会で力説しましたように、ことばと発想とは二人三脚の関係にあるわけです。
 二人三脚のレースは、どちらが欠けても成り立ちません。そのどちらかが息切れしよろめいても、成果は期待薄です。こうした言葉と発想との二人三脚の関係を、教師の主体の問題としてきっちり押えた、母国語操作の仕方の教育が国語教育です。
 

 教室でしか学べないことをやるのが授業というものだ
 ところでリラちゃんとは正反対の発想で国語を教えて下さった先生が私の中学におりました。前田千寸という方で、今の東京芸大の前身である美校、東京芸術学校の日本画科を卒(お)えられた初老の先生でした。本業はむろん画家で、後に平安朝の絵巻物についてその色彩感覚の研究を、岩波書店からお出しになった方です。
 当時、美校には高野辰之さんのような日本歌謡史の研究家なども教授陣にいて、文学や国語の講座も用意されていたわけでして、それを受講すれば国語の中等教員免許状が取れたのですね。そこで、国語の前田先生の出現ということになって、私たち大いに恩恵を蒙ることになりました。
 この前田千寸先生のことについては、私の中学の大先輩になりますが井上靖、例の『敦煌』の作者井上靖ですが、彼が先生をモデルにした実名小説を書いてるそうなんです。その小説はまだ読んでおりませんが、随想に書いたのは読みました。
 なんでも井上さんの世代の生徒たちは、あらゆる教師を軽蔑してたんだそうですが、前田先生だけは例外だったというのです。なるほどな、と思います。<人間として面白味のある人間>というのは、ああいう人のことを言うんだろうな、と思います。軍の配属将校がわがもの顔に振舞い、軍隊式の礼法を教師も生徒も強要されていた学校の中にあって、前田先生と、もう一人原田浜人(ひんじん)という英語の先生の教室だけは自由の空気がいっぱいでした。
 原田先生の教室のことはあとで話すことにしまして前田先生の国語の授業ですが、授業というものは、教室でなければやれないことを学び合う場だ、というのが先生のモットーでした。
 自分で勉強できることを教師でやるのは時間の浪費だとも先生はおっしゃいました。ですから、国語の授業のある前の晩は私たち中学生は、一晩中、辞書や文法書と首っ引きでした。
 翌日の授業はというと、字句のセンサクだのイイカエだのは全然です。いきなり教材作品の文章に食いついて意見発表を各自行なうわけです。
 それが一通り終わると、討論の柱を先生が示してディスカッションに移ります。
 次の時間に、先生の補足や整理があって、そのあと先生の指名で徹底した朗読をやるわけです。アクセントやイントネーション、読みのテンポなどにわたる徹底的な指導でした。「読むというのは、字をたどり読みすることじゃない。相手の論理の脈絡や、感情の流れを、自分の論理や感情をそれにぶっつけながら読むということなんだよ」といっては、「きみの読みは相手の論理にふり回された読みだ」とか、「相手の感情に流されっ放しだ」とか、また反対に「相手に対する理解が不足してる読みだ」というふうに、実にこまやかな指導でした。
 この、語義や文意、それも通り一遍の文意ではない、かなり突っ込んだ内容の検討を行なった上での文意のハアクを前提とした朗読というのは、いま思ってみても見識だなと頭が下ります。私たち生徒の側からすると、わかったつもりになっていたことがこの朗読指導の中で、本当にはわかっていなかったことがわからされるのです。新しい発見が次々にそこに出て来るのです。全く驚きと感動の連続の授業でした。それから、前田先生のことですが……


 言葉は辞書の中では眠りに就いている
 語や語句のことは自分で辞書に当たれ、と言われた前田先生は、ところでこんなふうなことをおっしゃって、ホンモノの文学作品にしたしむようにと付け加えられました。 「僕はえかき(・・・)なもんだから実感するんだが、絵具の中の色は生きてない。たとえば絵具の青色は、ホンモノの青とは違うんだよ。空の青とはね。空の青さをかくためには、絵具をそのまま使ったんじゃ駄目なんだ。それと同じことでね、辞書の中の言葉は、あれは言葉の眠っている姿なんだよ。きみたちの作文の中の言葉も、どうも眠ったままか、寝ぼけまなこ(・・・)の言葉が多いな。すぐれた文学者の書いた作品の中の言葉は目をパッチリあけているから、その場面場面に応じた表情を持っている。表情が生きてるんだ。
 この前田先生の漢字指導というのは……例を一つだけ挙げておきましょう。
 中三の時だったと記憶しますが、書取りのテストがありまして、あとでみっちりしぼられました。私を含めて七、八人の生徒が、<戾>という字を <戻>と書いたもので、「こういう間違いが漢字の書取りでは一ばん性悪(しょうわる)なんだ」といって名指しで叱られました。
 <戾>の国訓は「もどす」「もどる」だが、それは<犬>が<戸>の下から体を曲げてくぐり抜けるとか、<犬>は主人の家(戸)に必ずもどって来るとか、そういう意味を表わす意字なのだ。それを<戻>と誤記をやらかすのは、この文字、この言葉の意味がわかっていない証拠だと、そういってたっぷり叱られました。リラちゃんの指導ぶりと、ひとつ比べてみてください。
 もっとも、この文字は戦後の漢字の略体化で<戻>と表記することになりましたが、原則的には私も漢字の表記の仕方の簡略化に賛成なのですけれども、しかし<戾>を<戻>というふうに変更するのは、どういうものですかしら。
 漢字を全部音標文字化しようというのなら話は別ですが、またそうするためには、もっと根本的な改革が必要になって来るわけなのですが、今のような中途半端な格好で、字の画数さえ減らせばそれが国字の民主化だという考え方には私は反対です。
 東京なんかでは、民族の歴史の重みを背負った地名の変更・統合と何丁目何番地何号の三の十六式の国土総背番号制みたいなことが実施されていますが、歴史を無視したそういう便宜主義と、国字の簡略化とではむろん話の筋が違います。が、そこにやはり一種の便宜主義が働いている点のあることと、そのために国語教育の畑で、また国民の日常生活の面で混乱が生じていることは無視できません。
 

 原田先生の『最後の授業』論
 さっきお名前だけ紹介した英語の原田浜人先生ですが、浜人というのは先生の俳号です。たしかホトトギス派に属している、中堅の作家でして、ご当地と関係のある方です。広島大学の前身である広島高師の英語科のご卒業でして、中三だったか四年の時でしたか、サイド・リーダーの授業を受けました。
 サイド・リーダーとはいっても、実は先生の手刷りのテキストでして、ドーデーの『最後の授業』の英訳を読みました。当時はまだ邦訳はありませんでして、桜田佐訳の『月曜物語』が岩波文庫から出版されましたのは昭和十一年のことと記憶しますが、私の中学時代というのはまだ昭和一ケタの時期だったわけです。
 私が纏まったかたちで文学の授業を受けたのは、この、原田先生のご指導の英語の教室だったわけでして、国語の授業では前田先生の場合を僅かに例外として、中学生活五ヵ年を通じて国語の先生からは、文学のブの字も教わったことがありません。
 というのは、一つには、さっきちょっと触れましたように、私たちの学校はミリタリズムが支配していたわけなのでして、文学と名のつくものはタブーだったわけなんです。配属将校などは芥川竜之介を目の敵(かたき)にしていて、あの不忠者、といい、絶対に読むなよ、という訓辞を垂れました。読むな、といわれると、人情でして、読みたくなるのものです。結果は今も私は芥が文学の愛読者です。(会場、笑い)
 原田先生は教頭でした。今ふうに言うと管理職です。その原田先生が、そういう学校のフンイキの中で文学の授業をおやりになったというのは大へんなことだったわけです。
 この授業の中で一ばん印象的だったのは、そしてずっと後になってからこの作品を桜田佐訳で読み返した折に感動を新(あらた)にしたのは、先生が、生徒たちの討論を踏まえながら、「僕も討論に加えて貰うよ。意見を言わせて貰うよ」と前置きしてお話しになったことです。
 今、テキストの用意がありませんので、記憶をたどって申しますが、アメル先生が生徒やむかしの教え子たちを前にして語る言葉の中に、私たちのこのアルザス・ロレーヌをプロシャの手に渡す原因を作ったのは諸君の怠惰な気持ちと、怠惰な行動の仕方だ、というのがあったでしょう。
 きょうやらねばならぬことを、あすがある、あしたやればいい、といって一日延ばしに延ばすという怠惰な気持ちと行動。それがクニを亡ぼしたのだ、しかじか。
 いや、一番責められなくてはならないのは、この私だ。釣好きの私は、晴れた日には何かソワソワして、きょうは掃除はしなくていいよ、などと言って諸君を早く帰して小川へ出かけたこともある。そういういい加減な気持ちがいけなかったのだ、というような表現個所があるでしょう。
 原田先生は、その個所について、「どうもさっきから諸君の言うことを聞いていると、アメル先生という人を、修身(道徳教育)の話に出て来る美談の主人公か、『後悔、先に立たず』という諺(ことわざ)の見本みたいな扱いでしか見ていないように思うんだよ。僕は、違ったつかみ方をするんだが、聞いてくれたまえ。」
 そう言って、先生の話されたことは、こうでした。
 「アメル先生は最後に、フランスばんざいといって授業を終わるでしょう。ナポレオン三世のフランスの復活を願っているんじゃなくて、民衆の国フランスの復活を心から願っての、フランスばんざいなんだ。いわば、ラ・マルセイユの、あの歌のフランスなんじゃないの。」
 「だとするとね、私たちは怠惰だった、ナマケモノだったというアメルの反省は、フランスをナポレオン体制から奪還して、もう一度民衆のフランスを樹立する情熱と行為、実践を怠けていたということに対する悔いと反省なんだと僕は思うのだが、どうかね。」
 「だからね、アルザス・ロレーヌをプロシャから奪還するというアメルの悲願は、決して決してフランス帝国の再建を夢みたものじゃないのだよ。」
 「そういうふうに読んでいくと、フランス語は世界中で一ばん美しい言葉だ、というアメルの言葉も、民衆の国フランスの言葉、そういう意味でのフランス語は全世界の中でも美しい言葉だ、というような意味に読めて来ないかしら。」
 私は今にして思うのです。原田先生のこの『最後の授業』論は、一九七〇年代から八〇年代初めの今日へかけての最近の『最後の授業』論と対比してみて、今日只今の作品ハアクが、原田先生のハアクの域にまで達していない、ということを実感するわけなのです。私自身の作品ハアクの場合を含めての話であります。
 

 教師の文学観と作品論を確かなものに
 作品の教材化の仕方(・・・・・・)は、授業の目的によって決まります。したがって、授業目的が授業のありかたを規制するわけなのです。
 が、作品表現のありかた、それの文体的特性が、おのずから教材化の仕方や授業の組みかたを規制するに至る点も見のがすことはできません。
 たとえば、『最後の授業』に取材することで、母国語愛にテーマを求めた授業を組むことを最初考えたとします。が、いま紹介したような、原田先生が提示したような作品ハアクの仕方が授業者である教師その人のものとなった時には、授業目的そのものにもっと大きなふくらみと、深まり、深みを持たせることになりましょう。当然、そのことは同時にまた、教材化の仕方や授業の組みかたの上にも大きな変改をもたすことになるでありましょう。
 つまり、ここでハッキリさせておきたいことは、問題の限り、文学の授業にとって決定的なのは授業者である教師自身の文学観と作品論の確かさだ、ということです。
 さっき黒川(実)さんが、全国教研に参加して感じたことの一つとして、多くの実践報告にほどんど共通して欠落しているものは教科の論理だ、というご指摘がありましたが、文学の授業に関して教科の論理(・・・・・)ということを言うならば、それは、この、授業者自身の文学観と作品把握の仕方の重視、あるいはそのことを重視するがゆえの、授業者の作品論を問う、問い詰める、ということを前提としたものだということです。
 

 アメル先生後日譚
  さて、方向感覚において原田浜人先生が示したような作品のつかみ方を下敷きにしての話ですけれども、そこに描かれている授業風景を、いわば授業というものの一つのサンプルだというふうにして見てみるとします。今はそれを特に、授業者である教師の主体の位置づけかたという点に私たちの目を向けてみるとします。
 そうしますと、授業者アメルに私たちが心打たれるのは、アメル先生の人間そのものに対してでしょう。しぼった言いかたをすると、彼の対現実的な……その対現実的ということの中に教育に対するということも含まれて来るのですが、その対現実的な発想の仕方が私たちの心を打つわけなのでしょう。違いますか? 私たちが感動するのは、アメルさんがうまい授業(・・・・・)をやってみせているからではない。
 授業者アメルに対して最も深く感動するのは、彼が他へ向けて批判を試みることで、実はそのことで一ばん傷ついているのが、ほかでもないアメル自身だ、という点ですね。闘いを放棄したというか回避していた自分であった、という自己確認がそこにあるわけです。
 同時にそういう自分に対する確かな自己否定がそこにあります。確かな(・・・)、であります。全き自己の主体の位置づけかたの変改――主体の変革への大きな第一歩がそこにあるわけなのであります。

 お配りしたレジュメ(二)に引用しておきましたが、北村透谷も語っています、「吾人は記憶す、人間は戦ふために生れたるを。戦ふは戦ふために戦ふにあらずして、戦ふべきものあるが故に戦ふものなるを。」というふうに。
 アメル先生は、「戦ふべきものある」にもかかわらず戦うことを回避した。回避し続けた。その限り、彼の態度は現実的だったわけです。現実主義的ではなくて現実的だった。リアリスティックではなくて、リアルだったわけです、今日の日本の多くの教師大衆がそうであるように、であります。
 が、「戦ふべきもの」の「ある」ことを心の奥底深く知悉(ちしつ)しながらも、戦うことを回避して傍観者の道を選び取る、その「現実的」な姿勢に付き纏うものは、アニュイという意味での倦怠です。心の片隅で、どうにかしなくてはならないと思いながらも、それこそ現実的にはどうにもならない状況、悪現実を前にして、アキラメと紙一重(ひとえ)の、しかしアキラメ切れない思いに日々ウツウツとしている屈託した思い、倦怠ですね。

 悪法も法なり、悪現実も現実なり、この現実をどう泳ぎ切って管理社会のエリートとなるか、という人、そういう意味での現実的な態度・姿勢の人には倦怠はない。
 ところで、アメルは倦怠の人だったわけでしょう。教え子の皆さん、皆さん以上に、いや私こそナマケモノだった、抵抗を忘れた怠惰な人間だった、という、あの劇的シーンにおけるアメルの痛恨の叫びは、実は長い年月、日々、内心に繰り返されていた言葉だったわけでしょう。

 けれども、今まで繰り返されていたその内心の呟きには、そういう自分に対する自己認知(・・)はあっても自己確認(・・)を欠いていた。自己否定(・・)に突き抜けるまでの自己確認(・・)はなかった、と言わなくてはならないように思われます。
 さて、ところで、私たち日本の教師大衆は今、どういう主体の位置づけかたに立つアメルなのか、ということです。
 はっきり言いますが、教師稼業はしていてもアメルという名前は与えることのできない、倦怠を知らない教師族もたくさんおります。あえて申します。これが教師社会の現実です。学歴社会という名のこの管理社会に奉仕することを嬉々としてやっているような、ここが教師の腕の見せ所だと張り切っているような人たちも大勢います。彼の名はアメルではなくて、リラちゃんです。またの名を、方法主義、技術主義者といいます。
 リラちゃんの名前を挙げたついでに、ついでにと言っちゃ何ですが、前田千寸先生やご当地出身の原田浜人先生のことを思ってみてください。この二人の先生はどういうアメル先生なのかといいますと、アルザスを離れて母国へ帰り、そこで再び教師として教壇に立ったアメル先生なのですよ。自分を傷つけ通しに傷つけて、自己凝視することを怠らずに、自分一代ではどうにもならないこの悪現実との闘いを教え子の世代に託して教育のいとなみに打ち込んだ、そういう教師たちなのですよ。
 だからこそ、この二人の先生はそれぞれに、自分の人間を賭けて授業に打ち込んだのです。先生方の考える学力は、学歴社会、管理社会にアダプトするような学力ではなかった。原田先生の文学の授業が志向したものは、遅蒔きながら今にして思うんですが、文学への感動を知ることで、人間的感動を生徒たちが自分自身のものとすることだったのですね。少なくとも、その点へむけての素地を培うこと、そういうことだったんだな、と今にして思います。
 休憩に入(はい)ります前に、透谷のことに言及しておきますが、彼が闘いの相手といっているのは、想界(・・)に対する実界(・・)――前近代的な俗世間であることは言うまでもないのですけれども、実はその実界を主体内存在として自分自身の内側に見つけて、敢えて自分を傷つけるかたちで闘いをマニフェストしてる、ということなのですね。

 今、私たちが必要としていることは、この透谷のように、アメル先生や原田・前田両先生のように、自分の内側のものから目をそらさないで、あえて自分が傷つく、ということのような気がいたします。自分が傷つかないで何ができるか、であります。


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