以下の文章は日本民間教育研究団体連絡会発行の機関誌「民教連ニュース」bP43(2001.4,5月号)に、「第14回日本民教連交流研究集会分科会の記録」として掲載されたものです。


第一分科会 人格を育てる文学・国語教育
ケストナー『エーミールと探偵たち』をめぐって

文学教育研究者集団 井筒 満(明治大学)



 生涯教育としての文学教育

 私たちの研究会(文学教育研究者集団)では、毎年、夏と秋に公開研究集会を開いています。夏は二泊三日の合宿、秋は一日だけの集会です。毎月二回の月例研究会や冬と春の合宿研究会での研究成果をそこで発表し、会員以外の人たちとの相互交流(対話・対論)を通して、私たち自身の研究をより深めていくこと――それが夏と秋の集会の目的です。
 私たちは、月例会や内部合宿の中で主に次の三つの柱に基づいて研究に取り組んでいます。それは、@文学理論(文芸認識論)研究、A文学史研究、B文学教育研究という三つの柱です。そして、こうした研究を通して、「現代を生きる私たちにとって読む意義がある」と確信できた作品を、夏や秋の集会で取り上げ、会員以外の人たちを交えて一緒に読み合うということを毎年続けているわけです。
 私たちは、今回の秋季集会(二〇〇〇年十一月五日)で、『エーミールと探偵たち』(エーリヒ・ケストナー作/池田香代子訳/岩波少年文庫)を取り上げました。この作品を選んだ理由が、集会の栞に書いてあるので、少し長くなりますが、まずそれを紹介します。  

 クラウス・コードン(『ケストナー ナチスに抵抗し続けた作家』の著者)は、『エーミールと探偵たち』について次のような意味のことを述べています。/この作品に登場する子どもたちは、ほんとうに子どもらしい。彼等一人一人の個性は、仲間との絆の中で輝いている。また、彼等は、この絆の中で、ものごとをありのままに見つめ感じる能力や、賢さに支えられた勇気を培っている。これがほんとうの子どもらしさだ。子どもらしい子どもとは、管理教育の中での「優等生」や「良い子』ではない。むしろ、現実をちゃんと見て、そんな管理教育のゆがみに気づく子のことだ。/…中略…人間らしく生きるために〈子どもらしさ)を失ってはいけない、そうケストナーは考えています。だから、彼は、長い実人生を、〈子どもらしさ)を失わずに生き続けている大人こそ本当の大人だとも言うのです。/二一世紀直前の日本社会には、「日本は狂っている!」と叫びたくなるような事件が次々と起こっています。また、例えば、少年犯罪をめぐるマスコミ報道の多くは、子どもと大人との相互不信を煽りたてることでこの疎外状況をいっそう悪化させる役割を果しているようにみえます。だが、だからこそ、『エーミールと探偵たち』をみんなで読み合い、ケストナーの言う〈子どもらしさ〉の意味について考え合う必要があると思います。また、大人と子どもとが、若いと思っている人と若い人とが、一緒に作品を読み合うことは、お互いを支え合う新しい絆をつくるきっかけにもなると思います。一人一人が分断されている状況のなかで、文学を通しての絆づくりはますます必要になっています。一九二九年、ファシズムへの前進をはじめたドイツ社会の中で、子どもと大人との真の対話を目指してケストナーが書いた『エーミールと探偵たち』は、その課題にきっと応えてくれるでしょう。


 このような課題意識に基づいて、私たちは『エーミールと探偵たち』を取り上げたわけです。
 そして、結論を先に言うと集会当日の話し合いを通して、私たちはこの作品の魅力を再発見することができたし、またそのことによってこの栞に書いてある課程意識をさらに深めることができたとも思います。その具体的な内容について話題を絞ってこれから紹介していくことにしますが、その前に、 秋季集会の参加者について少し触れておきます。
 参加者総数は約六〇名。年齢層は、確認できた範囲では、一〇代(一名)・二〇代(一〇名)・三〇代(九名)・四〇代(九名)・五〇代(一五名)・六〇代(九名)・七〇代(三名)です。つまり、一〇代から七〇代までの様々な年代・世代に属する人たちが、この作品に関する自分たちの印象や読みをぶつけあいながら対話する場を、この集会はある程度つくり出すことができたわけです。
 また、この集会の参加者は、教員だけではありません。もちろん、比重から言えば教員(小学校から大学まで)が多いけれど、その他にも、高校生・大学生・様々な職種の会社員や公務員・団体役員・主婦・定年退職者等々…といった人たちが参加しています。こういう様々な人たちが参加している理由の一つは、私たちの集会が――「授業研究」を直接的な目的とせず――現代を生きる私たちにとって、人間らしく生きるためにどんな文学との対話が必要なのかということを中心的なテーマにしている点にあると思います。だが、だからといってこの集会が文学教育と無関係だいうことにはならない。むしろ、こうした集会自体が、私たち自身に向けての文学教育の場であるとも言えるわけです。生徒や学生にだけ文学教育が必要なのではない。生涯教育の重要な一環として文学教育を考えた場合、様々な年代・職場に属する人たちが文学を媒介として対話できる場を創造していくことは、今後、民間教育運動にとっても重要な課題になってくるのではないでしょうか。


 対話としての会話

 では、次に秋季集会で話し合われた話題をいくつか紹介します。『エーミールと探偵たち』という作品は簡単に言えば、主人公のエーミールとベルリンの少年たちとが協力しあってグルントアイスというどろぼうを追いつめ、ついに盗まれたお金をとりもどすという物語です。そういうストーリーなの で、いわば冒険活劇的な面白さもむろんあるわけだけれど、この作品の本当の魅力は、登場する少年たちの会話(の描写)にあるのではないか――私たちの話し合いの中で一番話題が集中したのはこの点です。少年たちの会話を通して、一人一人の個性的なメンタリティーが生き生きと浮き上がってくる。また、彼等は、時にはけんかにもなるが、相手の気持ちをくぐって会話し、相手をくぐって思索しています。言いかえれば、相手の言葉を本当に聴き合いながら会話(=対話)しているわけです。
 そういう対話の一例として、教授という綽名の少年とエーミールとが会話している場面を紹介します。父親を早くなくしたエーミールの家では、母親が美容師となって働き一生懸命生活を支えています。一方、教授は法律顧問官の息子なので、その家庭はかなり裕福です。そういう二人が自分たちの家族や親子関係について話し合う場面です。母さんは「なんでもさせてくれる、でも、ぼくはしないんだ、そんなことわかる」とエーミールに問いかけられた時、教授は「おれにはわかんないよ」とはっきり言います。だが、この「わかんない」は「俺にはそんなこと興味がない」という拒絶の言葉ではない。相手を理解したいという気持ち・相手への生き生きとした関心・興味、それが伝わってくるような「わかんない」なのです。だから、エーミールも、ただ自分の気持ちを一方的に押し付けるのではなく、理解をうながす糸口になるような話題を語りながら、自分の気持を教授に伝えようとする。教授は、その話を通して自分の家族関係を改めて見つめなおし、エーミールの気持ちについてさらに考えていくというわけです。そして、教授は「ちがうなあ、うちとはまるっきりちがうなあ。……うちはみんな、仲がいいよ。でも、いつもいっしょってわけじゃないんだ。」とエーミールに言います。それに対してエーミールは「いっしょにいることしか、ぽくたちにはできないんだよ、だからって、ぼくは母さんっ子じゃないよ。信じないやつは、壁に投げつけてやる。」と答えます。両親との間にある信頼関係の表現として、教投の場合には「仲がいい」が、実感にあった言葉なのです。だが、エーミールの場合にはその言葉では満足できない。かといって「母さんっ子」だなどと誤解されたくはない。自分の本当の気持ちを教授には是非わかってもらいたい。そう思っているから「信じないやつは …」とちょっと向きになってもいるのでしょう。教授にはその気持ちがわかる。だから、自分の「わかんない」に誠実に答えてくれた エーミールに自分がつかんだものをできるだけ適切な言葉で語りたいと思う。そして、しばらくして、少し照れながら「じゃあ、すごく愛しあってるんだね」と言うのです。エーミールはそれに対して「すっごくね」と答えます。この言葉には、教授が自分の気持ちを本当に代弁してくれたという嬉しさがにじみでています。
 ケストナーが描いたこうした子どもたちの会話(その魅力)に触れることは、現在の疎外状況の中で、私たちが(子どもと大人が)言葉の豊かさ(対話する言葉)を回復していくための重要な契機になるのではないでしょうか。


秋季集会