文教研のプロフィール

   文学教育研究者集団=国語教育としての文学教育     荒川有史
 
 文学教育研究者集団=印象の追跡としての総合読み     荒川有史

日本教職員組合編/一ツ橋書房刊『私たちの教育課程研究 国語教育』(1968.10) 第四章「『読み』の教育・文学教育」三 、「民間教育研究団体研究成果」中に収められた二編である。他に、日本文学協会、児童言語研究会、教育科学研究会・国語部会、日本文学教育連盟による文章が収められている。



■文学教育研究者集団=国語教育としての文学教育〔129-132頁〕

《1 文学の授業形態》 夏目漱石に、『二百十日』という作品がある。圭さん、碌さんという二人の青年が、阿蘇山麓の旅館で、あるいは阿蘇にのぼりながら、文明の怪獣の害悪について悲憤慷慨し、轟々たる阿蘇の〝百年の不平〟を自分たちの精神にしようと決意する。
 この作品を中学二年であつかったときである。圭さんの行動性が、『坊ちゃん』や『墓碑銘』(啄木)との比較の中で問題になった。A組では、文明の怪獣をうちたおそうとする圭さんの情熱にひきつけられ、そうした情熱・信念が理論的なささえなしに生まれるはずがないと考えた。ところが、何人かの生徒はちがうという。圭さんは弁舌家で行動的なのだ。よくしゃべり、思ったことをすぐ実行に移すので一見理論的に見えるが、話に飛躍が多すぎるというのである。
《2 集団思考のなかから》 B組では、A組の少数意見を圧倒的に支持した。圭さんは、〝ともかくも〟という副詞をしょっちゅう使う。だから、碌さんから「ハハハハともかくもか。君がともかくもと言いだすと、つい釣り込まれるよ」といった調子でからかわれるくらいだ。問題をトコトンまで追求せず、すぐ話題をそらせてしまう。けっして理論的とは言えない、云々。
 これをA組にもちかえった。検討は〝ともかくも〟という副詞の用法を洗いだすことからはじまった。
 そうした討議のなかで、圭さんの行動をささえているものはなにかが明らかにされていった。形態としては文学の授業である。圭さん、碌さんの主張、行動を追跡することで、今日につながる問題を同時に考えようと努めてきたのだから。
 が、文学の授業は、文法学習などとのささえあいなしに単独で進めることはできない。〝ともかくも〟という副詞の用例を追求することで、圭さんの口ぐせ、考え、行動のスタイルを鋭角的に考えるきっかけが生まれてもくるのである。
《3 文学学習と文法学習との相関》 みぎに見てきたように、文法学習、語い学習などなどにささえられながら、文学学習を中軸として展開される統一的な学習活動を、わたしたちは、国語教育としての文学教育とよんでいるのである。「国語教育としての」という表現に注目してほしい。国語教育はひとつである、という発想がそこにはある。それは、〝ことば〟をどうとらえるか、という問題にもつながってくる。
《4 〝ことば〟の反映機能にそくして》 わたしたちは、〝ことば〟を人間の反映活動、認知・認識活動の媒体としてとらえる。しかも、母国語としての民族語を、その民族の歴史的な体験の総決算の反映としてとらえる。したがって、国語の教科構造を構想するさいにも、〝ことば〟の基本的な機能である反映機能にそくして考える。
 〝ことば〟の概念的な操作による反映活動としての国語教育。そこに文法教育、論理教育の領域がある。
 〝ことば〟の形象的な操作による反映活動としての国語教育。ここに文学教育の領域がある。つまり、わたしたちは、文学教育を言語活動教育の一形態とは考えない。文学教育こそ、国語教育それ自体だと考える。文学教育をぬきにして母国語教育を構想することはナンセンスでだと考える。
 はじめに語いと文法の相乗積の世界ともいうべき言語があって、その応用として、読み、書き、話す、聞くなどの言語活動が展開したのではない。〝ことば〟は、行動の延長として、代行として生まれた。仲間と対話し、世界を実践的につくりかえていく行動の武器として生まれた。そうして生まれた〝ことば〟は過去を反省し、未来を先どりするための手段となった。世界を反映し、その反映の結果を民族的規模において蓄積する手段ともなった。しかし、〝ことば〟の基本的な機能は、あくまでも世界の反映にある。動的なことばを静的な記号(言語)にくみかえて人間は自分たちの体験をつみ重ねてきたが、静的にくみかえられた言語から国語科を構想することは、固定的な構造論や指導過程論になりかねない。
 文教研の提唱する国語教育としての文学教育は、動的なことばの機能にそくした発想なのである。国語教育はひとつである。文学学習を軸として国語教育を切りとったとき、国語教育としての文学教育とよんでいるのである。
《5 母国語教育の課題、その他》 くり返しになるが、母国語こそは、民族の知恵の宝庫であり、その民族が奴隷となったばあいにも、牢獄からの解放を実現するカギである。そのカギを民族の子ひとりひとりにしっかりとにぎらせることが、母国語教育としての文学教育の課題でもある。
 なお、文学科独立の問題に関しては、発達の側面と関連して考察したいが、紙数がない。国語科構造論をふくめて左
[下]の文献を参照していただけるとさいわい。

   〈参考文献〉
     文教研著『文学の教授過程』明治図書刊
     文教研著『中学校の文学教材と授業過程』明治図書刊
     熊谷孝著『芸術とことば』牧書店刊
     熊谷孝著『言語観・文学観と国語教育』明治図書刊



文学教育研究者集団=印象の追跡としての総合読み〔137-140頁〕

《1 読みとは何か?》 浅かろうと深かろうと、読みは読者自身による自己の印象の追跡にほかならない。〝印象〟ということばは一見ふたしかな感じを与える。が、文字に媒介された世界を認識し反映することは、同時にそこにある種の印象が成立したことを意味する。印象にもピンからキリまであるし、従来、理論的な印象を〝印象〟とよばなかっただけの話である。要するに、読みは読者自身による自己の印象の追跡に他ならない。
《2 読みの過程的構造》 読みは、構造をもっている。それは、動的である。過程的構造とでも名づけられるべき性質のものである。つまり、「前、中、先という三層の過程を何回となくくり返しながら、重層的かつ上昇循環的にくり返しながら」(熊谷孝「生の解釈学と母国語の教育」『文学と教育』№51)、文章に媒介された認知と認知のかまえを理解するのが読みである。が、理解するということは、文章が媒介する反映の仕方を無条件に受け入れることではない。対決をとおしての印象の追跡なのである。
 (1) ――『読みが読みとして成り立つ第一次の層は、自己の反応様式の想起という、その文章に接する以前の受け手の体験との関係・関連の中に求められる。」(同右)
 (2) ――「そこに想起された自己の反応様式を支えとしながら、受け手は、その文章に示されている他者の別個の反応様式との対比・対決の体験を、そこのところで準体験する。」(同右)
 (3) ――「立ちどまって考えこんだり、迷ったり、ある驚きや感動をおぼえたりしながら、その文章の先の部分に書かれてあることへの予測を立てながら期待をいだいて読む、読みつづける。」(同右)
《3 総合読みの方法》 読みの構造が過程的であり、その三層性が重層的であることから、読みは総合読みとしてしか存在しないことがわかる。また、人間の反映活動の一側面だけが他の側面と切り離されて単独でおこなわれるということはない。低度か高度かのちがいがあるだけで、読みは総合読みとしてのみ存在する。
 A 部分と全体との関係
 『沖縄の子ら』(日教組・沖縄教職員会共編)に、中曽根三重子の「島」という題の短い文章がのっている。「若者は苦しみ、わめき/あげくの果て、路傍にねころんだ/老人はそれを横目でにらむが/何も言えないし、動きもできない」といった冒頭の何行かを読むと、袋小路に追いつめられた沖縄の人たちのどうしようもない感情をくみとることができる。が、「青い信号機の下に/赤い血が眠り/白いきれいな獣があざわらっている」というところまで読みすすめると、たんに自暴自棄の世界が描かれているのではないことがわかってくる。冒頭の部分だけから理解した全体像は変化しはじめる。全体は、静止したひとつひとつの部分の総和としてあるのではない。部分像の変化・展開として全体像は姿を見せる。総合読みにあっては、部分と全体との関数関係をダイナミックに測定しつづけることがだいじである。
 B イメージのはたらきを生かす総合読み
 その文章が描写文体であるか説明文体であるかによって、総合読みの方法もちがってくる。描写文体をあつかうさい、はじめからおわりの一行まで無差別に概念の網ですくってしまうことには問題がある。さらに、文学表現のだいじなところをまちがって概念化することは、感動を消滅させることになりかねない。たとえば、「島」に出てくる「白いきれいな獣」という部分をあつかうときに、オモテの意味はケダモノだが、ウラの意味はアメリカ兵だ式の指導はナンセンスである。
 青い信号機のもと、横断歩道を渡ろうとした国場君(中学一年生)は、ジャクソン二等兵の車にひき殺された。が、ジャクソンは無罪になる。その状況を鮮明なイメージとして再現することが必要である。そうすると、ジャクソン二等兵の行為は、〝獣〟ということばで表現するほかない、ということがわかってくる。
 C 傍観者の発想を拒否する
 イメージのはたらきは、描写文体の総合読みにだけ生かされるのではない。説明文体の総合読みは、イメージのはたらきにささえられることなしに一歩も前進できない。
 木下順二に「沖縄――人間回復のいとなみを」という文章がある。「沖縄の問題というものは、今日の日本の問題の、一つの集約のようなものではないか」という冒頭の二行を理解するためには、その集約を概念的に整理しただけではだめだ。その集約を、典型の世界に、イメージの世界に翻訳して考えることが必要だ。木下順二の論理に賛成しながら、『沖縄の子ら』を読んでかわいそうだという発言が無自覚のまま出てくる。本土の矛盾が沖縄に集約されているという論理に賛成なら、傍観者ふうの発想が生まれるはずがない。総合読みは、傍観者ふうの発想が生まれる余地のないところまで、読み手の印象を追跡する。


   〈参考文献〉
     文教研著『文学の教授過程』明治図書刊
     戸坂潤「所謂批評の『科学性』について」全集4巻所収、勁草書房刊
     熊谷孝「言語と認識―言葉と構想力―』教育学全集5、小学館刊
     熊谷孝「生の解釈学と母国語の教育」『文学と教育』№51(発行・三鷹市井の頭明星学園内・文教研事務局)
     江藤淳『作家は行動する』講談社刊

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