マルセル・ライヒ=ラニツキ著
『わがユダヤ・ドイツ・ポーランド』
 (西川賢一・ 訳 2002.3 柏書房刊)
 
 MARCEL REICH-RANICKI “MEIN LEBEN”

書評
20世紀体現した大批評家の自伝  ドイツ文学者 平井 正 
(「日本経済新聞」 2002.4.28)
 日本ではあまり知られていない現代ドイツの代表的文芸批評家ライヒ=ラニツキは、共にユダヤ系のポーランド人の父とドイツ人の母の子供として、ポーランドの小さな町に生まれ、ドイツのラジオ番組「文学カフェ」とテレビの番組「文学カルテット」を主催して絶大な影響力を発揮し、「文学法王」の異名を取り、最近刊行した自伝は大きな話題となった。しかしそうした通り一遍の紹介では、「二十世紀」という時代の傷を一身に体現した「受難の人」のイメージを伝えることはできない。
 彼と同様に故郷を喪失したノーベル賞作家ギュンター・グラスが「あなたはいったい何者」と問うたとき、彼は「半分はポーランド人、半分はドイツ人、そしてまるでユダヤ人」と答えたが、それでも彼としては「自国も故郷も祖国もない」喪失の深淵を示唆するには足りなかった。
 のちに強制収容所で殺される運命となったのに、一家が破産してベルリンに移住する羽目になったことを、「文化の国ドイツ」を憧れてポーランドを軽視していた彼の母は、当時はむしろ喜んでいた。ライヒ=ラニツキ自身も一九三八年に、ポーランドに強制送還され、さらに第二次世界大戦中、ワルシャワ・ゲットーに収容されたが、ベルリンで受けたドイツ人文主義の教育と、心酔した伝統的ドイツ文学を「魂の糧」として、奇跡的に生き延びた。
 戦後はポーランド領事として英国に派遣されたが、当時の共産党政権に疎外され、ドイツ滞在を期として帰国を断念して定住した。そして「地上には現存しないかわり、ドイツ文学に見出したと信じた、精神の故郷をこがれる想い」によって、文芸批評を生涯を通じての仕事とする生活を生きている。
 自伝はそうした彼の、「戦前・戦中・戦後」にわたるドキュメントである。同時にそこには彼が批評の対象とした作家と作品についての、実に興味深い叙述が満ち満ちており、文句なしの、第一級の評論である。しかもそれが「文学」に賭けた彼の抜き差しならぬ生き方と融合して、特異なインパクトを発揮している。

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