抜書き帖 言葉・文学・文学教育・その他
  
 あらゆる翻訳は「誤訳」である (見出しは当サイトで付けました。)
  

多和田葉子

「ある翻訳家への手紙」より

=図書 2003.8

 わたしが初めてドイツで二か国語詩集を出した時のことですから、もう十五年も前のことになります。チユービンゲンで朗読会をやると、終わってから日本人が一人わたしのところに来て、「このドイツ語訳はひどい。畳が絨毯と訳されている。こんな初歩的なことも分からない訳者はひどい。」 と興奮してわたしに訴えてきました。この ドイツ語訳は優れた日本学者ぺ−ター・ぺルトナーによるもので、もちろん彼は畳がどういうものかわたしよりよく分かっていました。でも、この詩のこの場面では、日常くさい雰囲気が出ていないと困るので、 「絨毯」にしたのです。「タタミ」を外来語として使うことはできますが、これはドイツではむしろオールタナティヴなインテリアを持つ若い世代を連想させてしまい、両親と同居していた子供時代の日常という感じが出ません。日本の逆で、絨毯は普通ですが、畳は洒落ているのです。また、かつては畳を「藁マット」と訳す例もよくありましたが、これではエキゾチシズムになってしまいます。詩では、凝縮されたイメー ジが説明抜きでとりあえず立ち上がってく ることが大切なので、結局、畳を絨毯と訳 したのです。
 誤訳のように見えて、実は名訳というケースにこれまでいろいろ出逢ってきました。ちょっと見ると誤訳だけれど、いろいろ考えているうちに、誤訳ではなく遠回り して同じことをより印象的に言っているのだと分かった場合もあります。意図がすぐに読者に伝わらなければだめなのではないか、とあなたは言うかもしれませんが、そんなことはありません。文学作品だって、 すぐに分かってもらえない部分はたくさんあります。単に下手なのではないかと思わせるような表現が、なぜすばらしいのか何年かしてやっと分かることもあるのですから。翻訳は文学の極端な形かもしれない、 とわたしが思うのはそのためです。
 あなたには二年に一度くらいしかお目にかかれませんが、会うとあなたは必ず誰かの誤訳を非難しますね。それは職業柄というだけでなく、翻訳界で不等に扱われてきたため、わたしに味方になってくれと訴えているようにも感じられました。後で書きますが、あなたの怒りは理解できます。ただ、自分が読んで、文学として感動をおぼえた翻訳作品について、ここが誤訳だ、あそこが誤訳だ、とあげつらうのが不毛に感 じられるのです。あなたの指摘される誤訳についてはもちろん、部分的には半分賛成できる部分も、全然できない部分も、九十パーセント以上賛成できる部分もあるかもしれませんが、そもそも誤訳探しという作業がわたしには退屈なのです。
 基本的には、あらゆる翻訳は「誤訳」であり、あらゆる読解は「誤読」なのかもしれないと思っています。程度の差はあるでしょうが、それが基本的に程度の差であるということで、〈間違っている〉〈正しい〉 という二極に分けて考えることはできません。あなたが言うように、たとえ訳者がある慣用句を文字どおり訳してしまった場合でさえも、そのことによって文学的に得るものがあれば、それはよいのではないでしょうか。たとえばドイツ語で言う「二秒待 って!」をそのまま訳すと日本語ではちょっと変です。これは「ちょっと待って!」 と訳すのだとあなたなら言うかもしれませんが、作品によっては「二秒」の二という数字が実際に意味を持ってくる場合もあるのです。ひょっとすると訳者はうろ覚えでその表現を知っていたけれど、原文の中にその知識に一瞬目隠しをしてしまう要素が含まれていたので直訳してしまったのかもしれません。それは原稿を書いていて、間違うはずのない漢字を間違える場合とも似ています。「誤訳」には無数の原因と結果が考えられます。無意識的決断や無知などまでも含めて、わたしは、とりあえず作品の死と再生という意味で、翻訳を考えた方がいいのではないかと思います。 例えば、ヘルダーリンの「アンチゴネー」訳について、あの訳は間違っている、などと偉そうに言う人が時々いますが、そんなことを言ってもあまり意味がないように思います。ヘルダーリン訳で「アンチゴネー」を読んだために読者が失うものはほとんどないでしょう。むしろ、この訳を読んで感動し、インスピレーションを受けた人はわたしの他にもたくさんいるはずです。訳文の構造、言葉の選択が、ヘルダー リン自身の詩観に繋がっていて、その訳を通して、「アンチゴネー」に新しい光があたるからでしょう。もちろん、ヘルダーリンを通さない「アンチゴネー」を読みたい人は原語を勉強して読むか、他の人たちの訳などを読み比べればいいのです。
 そういう意味でも、同じ作品についていろいろな訳が出版されるのが望ましいと思います。すごく実験的な誤訳も出て欲しいし、注釈中毒の学者的な訳も出て欲しい。 でも、その場合の条件は、翻訳文化について、みんなが自由に意見を交わすことのできる公の場があること、それから、特定の訳者が「権威」としていばらないことです。日本では外国語の知識が権威の道具と して使われ、権威のある人は翻訳を批判されると権威を傷つけられたと思って逆上することがあり、そうすると新しい別の訳を出そうとしても押さえ付けられて出せないのだ、とあなたは教えてくれました。あなたの怒りはよく分かります。
 わたし自身は、人の書いたものを訳すことはめったにないので、翻訳者の日常の苦労をかえりみないで、翻訳文化の面白さばかりを強調する傾向があるかと思います。 文学作品の翻訳では、どんなに努力しても欠落してしまう要素がたくさんあり、それでもがっかりしないで、辛抱強く、存在しないかもしれない言葉を探し続ける努力は大変なものでしょう。誉められることは少なく、批判はされやすい翻訳家という職業に敬意を感じます。
 でもだからこそ、訳者はディフエンシヴにだけ訳すのでなく、オフェンシヴに仕事をしてほしいとも思います。「原作者の言語ではこういうことはできないけれど、わたしの言語ではこういうことができるんだぞ」とか、「作者は自分では気がついていなかったみたいだけれど、この作品にはこういう隠された面白さもあるんだよ」とい うことを積極的に探していく態度も翻訳家には必要な気がします。文学の翻訳は、作品の中の「情報」を訳すのではないはずです。なぜなら、文学を文学にしているのは、情報ではないからです。それが一体何なのかを原文において自分なりに理解し (この段階がすでに作者にとっては誤解されるということですが、しかし、誤解以外の理解の仕方はないのでそれでいいのです)、それを別の言語で再現するということは、一種の演出です。演出家として何ら かのアイデアが必要ということになるでしょう。原文をなぞっているだけでは平板に なってしまいます。
(p.40-42) 
◇ひとこと◇
 翻訳文学も日本文学である――、私たちはそう考える。それは、翻訳を、たんにヨコのものをタテにすることではなく、「原文の発想・文体を翻訳者の発想で受けとめ、翻訳者の文体をクッションにして原文の発想に戻る……戻ると同時に、それを別個の……(略)こんにちの日本人の生活のわく組み、文化のわく組みに移調させつつ、それと見合う言葉を探す、言葉を与える」(熊谷孝『井伏鱒二』 p.93-94)いとなみである、ととらえることに基づいている。
 文学作品を翻訳するということが、翻訳者自身の主体をかけた原文との対話を通しての日本語の選択と配列の作業以外ではないとすれば、その結果に対して「誤訳」であるかどうかの判定を下すのは、必ずしも容易なことではない。多和田さんの「あらゆる翻訳は“誤訳”」なのかもしれない、という言い方は、そうした対話を抜きに何もかも「情報」としてとらえ「正しい情報」として処理(「伝え合い」ではなく「伝達」)することを至上命題とするような、当世風の一つの傾向に対する根本的な疑問の提起のようにも思える。
 ともあれ、「文学の翻訳は、作品の中の“情報”を訳すのではないはずです。なぜなら、文学を文学にしているのは、情報ではないからです」という指摘になによりも耳を傾けたい。そのまま「文学の読み」にも当てはまる事柄だからである。多和田葉子氏は作家。(2003.10.16 T)

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