抜書き帖 言葉・文学・文学教育・その他
  
 匿名の投書と標語  (見出しは当サイトで付けました。)
  

重松 清

『教育についての、いくつかの雑感』より


=「ちくま」 2002.5

 匿名の投書について考えるたびに、町にある標語を思い出す。通学路などに立つ「あいさつは豊かな社会の第一歩」だとか「うちの子を叱る気持ちでよその子も」だとか「思いやり みんな仲間だ友だちだ」だとか……。
 誰が誰に向けて投げかけているのか、さっぱりわからない。言葉じたいは確かにまっとうでも、まっとうな言葉だけが、なんの重みもなく、実効力もなく、まるで田んぼの真ん中に糸で張られたカラス除けの目玉風船のように、ぽかんと宙に浮いている。
 商売柄、取材や講演などで地方に赴くことが多いのだが、ときどき、やけに標語の多い町に足を踏み入れることがある。たとえば、事件との因果関係を云々するつもりはないのだが、京都の児童殺傷事件――いわゆる「てるくはのる事件」の現場となった町もそうだった。
 そんな町の子どもたちは、学校の行き帰りに毎日まっとうな言葉を目にしなければならない。うっとうしいだろうな、と思う。
 いじめはいけません、いじめはいけません、いじめはいけません、いじめはいけません、いじめはいけません……「よーし、そのとおりだ、ボクは明日からいじめをしないようにするぞ!」と心に誓う子どもがいるはずだと信じて、おとなは標語の看板を立てているのだろう。まっとうな言葉を選んで、看板をつくって、立てて、それで子どもたちに対してなにかメッセージを伝えたつもりになっているのだろう。
 で、効果はあったんですか?
「標語のおかげで心を入れ替えました」「標語を見ていて、たいせつなものを思いだしました」と言う子どもたち、いましたか?
 あんまり手を抜かないほうがいいんじゃ
ないですか?
 そんなことを、ぼくは地方で講演するたびに言う。発言の責任を負わないという意味では匿名の投書と標語とは同じことなんだ、とも言う。標語の多い町はろくな町じゃないんだ、なんてことも言う。
 客席の最前列や、白い布で飾られた別の長テーブルに居並ぶ主催者側のおとなは、みんな嫌な顔をする。「そんなこと言われたってなあ」というふうに隣どうしでささやき合うひともいる。
 そういうひとにかぎって、質疑応答の時間にはなにも言わないくせに講演が終わってステージ裏で主催者と挨拶をしているときに――人垣の二列目あたりで、こっちは「よかれ」と思ってやってるんだ、みたいなことをぶつくさ不満げにつぶやくのである。
 はい、だからあなたのお名前は?
「おとな」という匿名に逃げないでほしいのだ、つまりは。
 
◇ひとこと◇ 作家・重松清氏のこの文章は、移調すれば国語教師(文学教師)の媒介者としての姿勢を問う文章としても読める。安直な「標語」と違い作者が命をかけて紡ぎ出した、いかにすぐれた文体の文章であっても、媒介の仕方しだいでは子どもたちの心にまでは届かず「ぽかんと宙に浮いた目玉風船」に終わってしまいかねない。文学教育は、教師の、ひとりの人間としての主体を、(感動を)抜きにしては成立し得ない。文学教師は、文学作品その他の文章を取り扱うにあたって「教師という匿名」に逃げていないかどうか、その検証を常に迫られているのだ、といえよう。(2002.5.3 T)

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