抜書き帖 言葉・文学・文学教育・その他
  
 「個性」概念の問題性 (見出しは当サイトで付けました。)
  

佐貫 浩

「新自由主義教育改革と教基法“見直し”」より

=民教連ニュース 2003.9

 今回の「報告」[「教育改革国民会議報告」]が提起する教育の階層化、格差化のための多様化、競争的システムを教育学的に支えるために、「個性」概念が使用されています。それは、「(優れた)差異が個性」であるとするものです。 しかし、そういう把握自体が誤りではないでしょうか。
 個性とは、“自分の存在の固有性”が実現されている状態、自分の存在を自分で意味づけ得ている状態というべきでしょう。同時に個性は、自己認識であるとともに他者との関係の中において実現されるものでもあります。他者によって自己の存在が意味づけられ、期待されているという、自己と他者との関係において、個性は実現されます。それは他者との差異では なく、関係の中における固有性というべきものです。もちろんその固有性は、人が人々の間で担う役割、その役割を果たす能力、熱意、 等々によって、内容を与えられ、具体化されなければなりません。その意味では、その内容を担っている能力や性格等々に、その人の個性が担われ、したがって、個性を発揮するためには、その固有性を実現するための能力が求められます。しかし、他者と異なつた能力それ自体が個性なのではないと考えるべきです。
 個性とは、存在の固有性であり、その核心は、関心、意欲、課題意識、目的意識、役割の自覚等々の、世界と他者へ自己を主体的につなぐ意識、自覚、意欲であり、主体的な関係性の自己意識であるというべきでしょう。その意味で、個性は、学習意欲の土台をなすものであり、人間が生きるということを支える誇りの土台でもあるというべきではないでしょうか。
 そう考えたとき、日本の受験教育が個性を奪い、競争における勝利が学習の目的に転化、置換され、学習と自己の個性実現との関連が 断たれ、目的意識を失った苦役としての学習が強制され、学習が個性を高め個性が学習意欲を支えるという関係が失われていることこそが問題であることが分かります。
 いま問われているのは、学力や文化的・社会的背景の異なった子ども達が、地城という基盤を土台に一緒に学ぶ学校理念を葬り去り――それが「報告」の中では、「結果の平等」への批判や画一性批判という表現をとつています――階層社会化を教育の面でも堰を切ったように推進する政策への転換を許して良いのかどうかということです。義務教育段階を「個性化」の名の下に複線化することの方が、教育的に見ても、社会の構成原理としても優れているということが証明 されているなどということはあり ません。今、日本の教育は、どうしてもここで立ちとどまって、何が教育的価値であるかを深く考えねばならないと思います。〔第二七回日本民教連・都道府県民教合同研究討論会(六月七日)の記録より〕
 
◇ひとこと◇
 人が自分の我儘勝手を押し通すとき、そのための切り札が「個性」であったり、また、国が日本の教育をおかしな方向に持っていこうとするとき、盛んに口にするのが「個性・個性化」であったり──。そのような現実を前にしていると、それぞれがその言葉に託しているもの、その言葉に託された概念の中身を吟味してみる必要を痛感する。概念は単なる言葉ではなく「思考の形式」である。とすれば、大切なのは、事物認識の目的に適うようにたえず概念を有効な概念に組み替えてその言葉を使う、ということであろう。
 佐貫氏は、「個性とは、存在の固有性であり、その核心は、関心、意欲、課題意識、目的意識、役割の自覚等々の、世界と他者へ自己を主体的につなぐ意識、自覚、意欲であり、主体的な関係性の自己意識である」という。自他の関係性に照準を合わせて捉えなおされたこのような「個性」概念は、私たちが現代の抱えるさまざまな問題の解決へ向けて共に考え合おうとする場合、極めて有効なものであるに違いない。筆者は法政大学教授。(2003.10.29 T)


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