抜書き帖 言葉・文学・文学教育・その他
  
 日本語ブームとナショナリズム
  

小森陽一

日本語ブームとナショナリズム』より

「教育」2003.7=
「日本語ブーム」とアイデンティティ・クライシス
 斎藤孝さいとうたかし の『声に出して読みたい日本語』(草思社、二〇〇一・九)がミリオン・セラーになって以後、「日本語ブーム」が一年以上つづいた。
 出口なしの不況と、政治と経済の中枢にいた者たちのモラル・ハザード現象によって、日本という国に自信をなくした人々が、最後にしがみつくのが、自分が「日本人」であることと、「日本語」をはなしていることなのだ。
 「日本語ブーム」は、じり貧のアイデンティティ・クライシスに寄生した市場開拓なのである。
 心理学者の香山リカは、こうした現象を、ワールド・カップのサポーターたちの無邪気な「ぷちナショナリズム」と重ねて、そこに現在の日本の症候を分析している
(『ぷちナショナリズム症候群』中公新書ラクレ、二〇〇二・九)。日本語ナショナリズムがいつ過剰な国家主義に転化するかもしれない状況を、ブームそのものがやや沈静化した現在の時点で再認識しておこう。

経済不況と日本語ブーム
 
二一世紀の第一次日本語ブームが二〇〇一年秋からはじまり、ワールドカップの年である二〇〇二年までつづいた。その火付け役になったのは、一九六〇年生まれの教育学者斎藤孝の『声に出して読みたい日本語』(草思社、二〇〇一・九)で、二〇〇二年九月末段階で一四〇万部を突破し、第二弾の『声に出して読みたい日本語U』(草思社、二〇〇二・八)も、発売から一カ月で二〇万部を超える売れ行きで、二冊あわせて一六二万部に達していた。
 底無しの出版不況のなかで、この販売部数は異常事態だといわざるをえない。「柳の下の泥鰌」を求めて、各社が一斉に日本語関連本を出版し、多くの書店で一番目立つところに「日本語本」コーナーが設けられ、斎藤孝の他の出版社からの本も含めて、二〇種類以上が平積みになっていた。
(日本語には、「柳の下に何時も泥鰌は居ない」という諺があり、それは一度柳の下で泥鰌をつかまえたからといって、常に同じ場所で捕らえられるものではないという意味であり、転じて一度幸運を得たからといって、同じ方法でいつもうまくいくとは限らない、といういましめの意味がある)二一世紀の日本語ブームは、これまでのものとは決定的に違っている。そのことを、二年前のブームとのかかわりで考えてみよう。
 二〇世紀最後の日本語ブームは、大野晋おおのすすむの『日本語練習帳』
(岩波新書、一九九一・一)
によってもたらされた。この本もミリオン・セラーになった。私の記憶している限り、日本語ブームは、不況になると発生する。好況のときは逆に、経済成長を後ろ盾にした「日本人論」や「日本(文化)論」がブームになる。大野晋の本の場合、その背景には、バブル経済崩壊後の出口なしの不況が、一〇年間もつづき、なお脱け出す展望がない、という状況があった。
 経済が成長しているときには、自分が日本という国家に属していることに、それなりの誇りがもてる。他国とくらべて大きな経済成長をしていることの要因を、日本という国の過去の歴史や、日本文化の独自性に求めることもできる。さらには、日本人の勤勉さや手先の器用さなど、他の国の人々と異なる特殊性
(それに根拠があるかどうかは別にして)に、経済的発展の原動力を見出すことも可能であった。
 逆にいえば、敗戦後の日本人が自国に誇りをもちえたのは、アメリカを鏡にした経済発展とライフ・スタイルの向上だけであったために、エコノミック・アニマルから「人間」に浮上するために、歴史や文化を付加価値として動員したのである。この問題は敗戦後の日本における経済成長が、どのような仕掛けのなかにあったのかということと、深く結びついている。


日本語ブームの歴史的背景
 
敗戦後の最初の好況は、一九五〇年以後の朝鮮戦争特需によってもたらされた。「冷戦構造」のなかで、アメリカが局地的に行う「熱戦」に突入し、戦時生産体制に入ったところに、日本がアメリカの肩代わりをして、日本で生産した製品をアメリカがもっていた市場に売り込む、という戦争寄生型経済=パラサイト・エコノミーのはじまりである。 アメリカにパラサイトした経済成長を、あたかも自力で達成したかのように装うために、一九五〇年からの好況は、 「神武景気」、一九五八年からのは「岩戸景気」と名付けられた。経済の世界では敗戦時に、ついに吹くことのなかった「神風」が吹きつづけたのである。日本の経済は「万世一系の天皇」の下で発展するという「日本語ナショナリズム」が、パラサイト・エコノミーのなかでのバラサイト・ナショナリズムであり、それが完成するのが、一九六四年の東京オリンピックというスポーツ・イベントにおいてである。そして、アメリカのベトナム戦争にパラサイトした好況は、「いざなぎ景気」(一九六五〜七〇)と名づけられ、神話は国産みの原点まで溯ったのである。
 したがって、経済成長が止まり、不況と金融危機と失業のトリプル不安が一〇年以上もつづくと、神話は崩壊し、もはや誇りにすることのできるものは存在しなくなつてしまったのだ。
 誇りがもてないにしても、自分が日本人で日本語を話し、読み、そして書いている(打っている)ことだけは確かなこととして残っている。これにしがみつくしかない、というかたちで日本語ブームは発生したのである。
 大野晋の『日本語練習帳』の要は、日常的にさほど意識 していない、話し言葉としての日本語の法則性とその論理 を明かにするところにあった。この本がミリオン・セラー になったのは、一〇〇万人以上の日本人が、自分が日常の話し言葉としての日本語を本当に正しく使用しているかど うかについて、心のどこかで不安をもっていたからだ。
 こうした不安の背景には、一九八〇年代のバブル経済の時期に、それまでとは比較にならないほど、多くの外国人日本語使用者あるいは日本語学習者が、日本人の日常生活の隣人として登場したことがある。現在でも、在日外国人は一五〇万人、この列島で生活している。
 仕事や生活の場で、外国人の日本語使用者が、なんとなく変な日本語をつかっていることに日本人が気づく。その言葉の使い方はまちがっている、正しくはこうだ、と指摘することまではできても、「なぜそうなのか」を理詰めでは説明できない。話し言葉の文法をめぐる、論理的な裏づけについての学習は、日本の学校の「国語」教育では、いっさい行われてこなかったからだ。その意味で大野晋の『日本語練習帳』は、閉じられていた日本語の世界を外に開くという方向性をもっていた。

文化ナショナリズムの強化
 
また、日本社会が、移民労働者を受け入れる社会になるかどうかという可能性をもはらんでいたといえよう。けれども、外国人にたいする日本語教育においては、九〇年代から、日本語は、日本の「文化・伝統」と深く結びついている、という論理のもとに、「伝統文化」と言語を結びつける、文化ナショナリズムが強化された。もちろん「伝統文化」の要には、「天皇」の存在がある。現在たくらまれている教育基本法改悪の中心が「伝統文化」と「国を愛する心とをつなげようとしている理由もここにある。
 その意味で日本語ブームは、戦後の「国語」教育の盲点や弱点を衝いている場合が多い。二一世紀最初の日本語ブームの発端となった斎藤孝の『声に出して読みたい日本語』 は、過剰なまでの解釈中心主義に陥っていた戦後の「国語」教育が軽視してきた、「暗誦もしくは朗誦」の復権を呼びか けたのであった。
 収録されている文章は、いずれも短いもので、歌舞伎や大衆劇の有名な科白、浪曲の節や大道芸人の口上、古典や近代の有名な文学作品の冒頭部分、ことば遊びや百人一首、いろはがるたなど、ジャンルはきわめて多様である。
 一九五〇年代前半に生まれた私の記憶に即していえば、斎藤孝が収録したテクストの多くは、日常の生活のなかで、 よく耳にしたフレーズである。公衆浴場で近所のおじさんが浪曲をうなっていたり、おりにふれて家族や地域の年長者から口承で受け継がれていた名文句集なのである。その意味ではテレビが普及する前の時代に、手近な娯楽の一つとして、こうした暗誦された名文句は、生活のなかに息づ いていたのである。
 そうした大衆的な広がりをもった口承文化が、テレビの圧倒的な威力のもとに消え去ってしまった時代に、あえて声に出して読む文字テクストとして復活させられたのである。とはいっても、「イタリアオペラ」ではなくて『五輪書』を朗読のテクストとして選び取ってしまう若者や読者の意識下には、「強い国ニッポン」への志向性がないとはかぎらないのだ。
 『五輪書』は、吉川英治の小説で一躍国民的なヒーローと なり、サムライ的人格の代名詞のようになった宮本武蔵の書き残した人生訓だが、その宮本武蔵像が、青年漫画でリヴァイバルされ、やはりミリオン・セラーになっている状況を考えあわせると、香山リカが指摘するように、「ぷちな しょな」“愛国ごっこ”がいつまた、過剰な国家主義に転化しないとは限らない。言語ナショナリズムが、日本語を、意思を通じ合わせる媒体から、他者を排斥する武器に変質させてしまうことを、日本という国の歴史に即して思い起こしておきたい。
(p.4-7) 
 

◇ひとこと◇ 斎藤孝氏等の一連の著書が驚異的な売れ行きを示していることに象徴される日本語ブームの、その原因は必ずしも単純なものではないだろう。しかし、 「自国の伝統、文化について理解を深め、尊重し、郷土や国を愛する心をはぐくむ」という方向での教育基本法の「見直し」が企てられている現時点で、小森氏が、ブームに躍らされる側のメンタリティーにそくしつつ、その原因理由を解き明かしていることの意義は大きいと思う。小森陽一氏は東京大学大学院教授。 (2003.10.8 T)

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