抜書き帖 言葉・文学・文学教育・その他
  
 いまなお立ちこめる“夜と霧”に (見出しは当サイトで付けました。)
  

池田香代子

V.E.フランクル『夜と霧
新版
――「訳者あとがき」 より

=みすず書房 2002.11.5
[霜山徳爾氏が準拠した一九四七年の旧版と、このたび池田香代子氏が訳出した一九七七年の新版とでは、原書にかなりの異同があった。]

 旧版と新版のもっとも大きな違いは、旧版にまつわる驚くべき事実から語り起こさなければならない。旧版には、「ユダヤ」という言葉が一度も使われていないのだ。「ユダヤ人」も「ユダヤ教」も、ただの一度も出てこない。かつて何度か読んだときには、このような重大なことにまったく気づかなかった。
 まずなによりフランクルはこの記録に普遍性を持たせたかったから、そうしたのだろう。一民族の悲劇ではなく、人類そのものの悲劇として、自己の体験を提示したかったのだろう。さらにフランクルは、ナチの強制収容所にはユダヤ人だけでなく、ジプシー(ロマ)、同性愛者、社会主義者といったさまざまな人びとが入れられていた、ということを踏まえていたのではないだろうか。このことに気づいたときは、思わず姿勢を正したくなるような厳粛な衝撃を受けた。
 ところが新版では、新たに付け加えられたエピソードのひとつに、「ユダヤ人」という表現が二度出てくる(一四三ページ)。ついにアメリカ軍と赤十字がやってきて収容所を管理下においたとき、ユダヤ人グループが収容所長の処遇をめぐってアメリカ軍司令官と交渉した、という逸話である。彼らユダヤ人は、この温情的な所長をかばったのだ。
 ここに敢えて「ユダヤ人被収容者たち」と名指ししたのはなぜか。それまでの書き方を踏襲するなら、ただの「被収容者たち」になったはずだ。ここからは、改訂版を出すことにした著者の動機に直結する事情が伺えるのではないだろうか。つまり、改訂版が出た一九七七年は、イスラエルが諸外国からのユダヤ人移住をこれまでに増して奨励しはじめた年だ。それは、一九七三年十月の第四次中東戦争でアラブ側がはじめて勝利したことを受けて、国力増強のためにとられた政策だった。
 そう、一九四八年の「イスラエル建国」と同時に勃発した第一次中東戦争から三十年足らずの間に、この地は四度も戦火に見舞われたのだ。戦争とカウントされなくても、流血の応酬はひきもきらず、難民はおびただしく流出しつづけた。パレスティナは、世界でもっとも人間の血を吸いこんだ土地になった。
 そのような同時代史がフランクルの目にどのように映ったかは、この本の読者なら想像にかたくない。さらにあいにくなことに、十七ヵ国語に訳された『夜と霧』は、アンネ・フランクの『日記』とならんで、作者たちの思いとは別にひとり歩きし、世界の人びとにたいしてイスラエル建国神話をイデオロギーないし心情の面から支えていた、という事情を、フランクルは複雑な思いで見ていたのではないだろうか。
 だからこの時期、『夜と霧』の作者は、立場を異にする他者同士が許しあい、尊厳を認めあうことの重要性を訴えるために、この逸話を新たに挿入し、憎悪や復讐に走らず、他者を公正にもてなした「ユダヤ人被収容者たち」を登場させたかったのだ、と私は見る。ちなみに、この逸話が語っている収容所には、解放時わずかな被収容者しか残っておらず、フランクルは医師として、対立がますます深刻化しようとしていた彼らを束ねる立場にあった。したがって、所長擁護はフランクル自身が主導したと見て間違いない。その主体を「たち」と複数で語っているのは、作者の謙譲はもちろんだが、それがユダヤ人の集団的行為だった、と強調したかったのではないか。
 受難の民は度を越して攻撃的になることがあるという。それを地でいくのが、二十一世紀初頭のイスラエルであるような気がしてならない。フランクルの世代が断ち切ろうとして果たせなかった悪の連鎖に終わりをもたらす叡知えいちが、今、私たちに求められている。そこに、この地球の生命の存続はかっている。
 
 このたびも、日本語タイトルは先行訳に敬意を表して『夜と霧』を踏襲した。これは、夜陰やいんに乗じ、霧にまぎれて人びとがいずこともなく連れ去られ、消え去った歴史的事実を表現する言い回しだ。しかし、フランクルの思いとはうらはらに、夜と霧はいまだ過去のものではない。相変わらず情報操作という「アメリカの夜」(人工的な夜を指す映画用語)が私たちの目をくらませようとしている今、私たちは目覚めていたい。夜と霧が私たちの身辺にたちこめることは拒否できるのだということを、忘れないでいたい。その一助となることを心から願い、先人への尊敬をこめて、本書を世に送る。(p.166-169)
 
◇ひとこと◇ 1956年に刊行された霜山徳爾訳の『夜と霧』を、じつはまだ読んでいない。この本が世に出た当初から何度も手にはとってみた。が、巻末の写真資料に強烈な衝撃を受け、本文にまではなかなか進めなかったのだ。こんど池田香代子氏の新訳が出たのを知ってすぐに求める気なった、その動機は単純である。あのおぞましい写真がそっくり削除されていたからだ。一読して強い感動を覚えたことはいうまでもないが、全編を貫く筆者の究極の人間信頼を集約したような、次のことばが、とりわけ印象に残った(あとで気がつけばこれはそのまま、同書のカヴァーに掲げられたことばだったのだが)。
 わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。( p.145 )
 池田氏は、徳山訳の揺るがぬ価値を認め訳者への十分な敬意を払いつつも、みずから新訳を世に問うことの意義をこの「訳者あとがき」で明確にしている。原著改版の事実につなげながら、今また新たな“夜と霧”に「目をくらま」されることがないように、と21世紀の現代を生きる我々読者に対して重要な一つの“読みの視座”を示してくれているのは、ありがたい。(2003.2.15 T)

HOME抜書き帖 目次次頁