〔 特集: いま、なぜ、『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)か 〕

いま、なぜ、『 君たちはどう生きるか 』 (吉野源三郎) か  
丸山真男  『君たちはどう生きるか』をめぐる回想――吉野さんの霊にささげる―― (岩波書店『世界』 1981.8 /岩波文庫『『君たちはどう生きるか』1982.11


(…)ここではその学恩の発端――つまり吉野さんが私という人間などまったく御存知なく、もっぱら私の側で一方的に吉野源三郎という一個の偉大な哲学者の存在に圧倒された時代のことを語ろうと思います。人から持ち上げられたり、舞台の前に押し出されたりすることを極端に避けた吉野さんが御存命ならば、こういう仕方の回想にも照れて顔をそむけられるかもしれません。でもこれはあくまで未知の一青年の魂に刻まれた、あなたの思想の形姿であって、ここにあなたが主体的に関与しているわけではありませんので、お許しをいただきたいと存じます。
 一方的な会遇と申したのが、もう御推察なさったと思われますように、昭和十二年に『日本少国民文庫」の一冊として新潮社から出た『君たちはどう生きるか』なのです。

(…)私がこの作品に震撼される思いをしたのは、少国民どころか、この本でいえば、コペル君のためにノートを書く「おじさん」に当る年ごろです。私はこの本がはじめて出たのと同じ昭和十二年に大学を卒業して法学部の助手となり、研究者としての一歩をふみ出しました。しかも自分ではいっぱしオトナになったつもりでいた私の魂をゆるがしたのは、自分とほぼ同年輩らしい「おじさん」と自分を同格化したからではなく、むしろ、「おじさん」によって(、、、、)、人間と社会への眼をはじめて開かれるコペル君の立場に自分を置くことを通じてでした。何という精神の未成熟か、とわらわれても仕方がありません。当時私はどちらかというと、ませた(、、、)青年だ、と自分で思いこんでいましたから、一層滑稽なのです。この点をもうすこし立ち入ってのべることが、吉野さんへの追悼をかねてこの画期的な名著に対する一つの紹介の役割をもあるいは果すかもしれない、というのが私のささやかな希望です。

(…)これはけっしていわゆる人間の倫理だけを問うた書物ではありません。吉野さんが己を律するにきわめて厳しく、しかも他人には思いやりのある人――ちかごろはその反対に、自分には甘く、もっぱら他人の断罪が専門の、パリサイの徒がますますふえたように思われますが――であることは、およそ吉野さんを知るひとのひとしく認めるところでしょう。モラーリッシュという形容は、吉野さんの人柄ともっとも結びつきやすい連想です。けれども、吉野さんの思想と人格が凝縮されている、この一九三〇年代末の書物に展開されているのは、人生いかに生くべきか(、、、)、という倫理だけでなくて、社会科学的認識(、、)とは何かという問題であり、むしろそうした社会認識の問題ときりはなせないかたちで、人間のモラルが問われている点に、そのユニークさがあるように思われます。そうして、大学を卒業したての私に息を呑む思いをさせたのは、右のようなきわめて高度な問題提起が、中学一年生のコペル君にあくまでも即して、コペル君の自発的な思考と個人的な経験をもとにしながら展開されてゆくその筆致の見事さでした。

(…)社会科学的な認識が、主体・客体関係の視座の転換と結びつけられている、ということの意味は、「へんな経験」の章のあとにつづく、おじさんのノート――ものの見方について――で、一段と鮮明になります。社会の「構造」とか「機能」とか「法則性」とかいうと、もっぱら「客観的」認識の対象の平面で受取られ、しかも「客観性」は書物(、、)史料(、、)のなかに書かれて、前もってそこにある(、、、、、)という想定が今日でも私達の間にひろく行きわたっております。以前から問題になっている、社会科学的認識と文学的発想との亀裂(それは同一人物のなかに両者が並存(、、)するのを妨げません)ということも、そうした想定に根づいているように思われます。それにたいして、この作品の「おじさん」は、天動説から地動説への転換という、ここでも誰もよく知っているためにあまりにも当然としている事例をもち出して来ます。
 コペル君というあだ名の由来であるこの事例の意味づけは全篇の主要主題として流れているのですが、地動説は、たとえそれが歴史的にはどんなに画期的な発見であるにしても、ここではけっして、一回限りの、もう勝負がきまったというか、けりのついた過去の(、、、)出来事として語られてはいません。それは、自分を中心とした世界像から、世界のなかでの自分の位置づけという考え方への転換のシンボルとして、したがって、現在でも将来でも、何度もくりかえされる、またくりかえさねばならない切実な「ものの見方」の問題として提起されているのです。

(…)『君たちはどう生きるか』の叙述は、過去の自分の魂の傷口をあらためてなまなましく開いて見せるだけでなく、そうした心の傷つき自体が人間の尊厳の楯の反面をなしている、という、いってみれば精神の弁証法を説くことによって、何とも頼りなく弱々しい自我にも限りない慰めと励ましを与えてくれます。パスカルの有名な言葉にはじまる「人間の悩みと、過ちと、偉大さとについて」と題する「おじさんのノート」(第七章)はその凝縮です。自分の弱さが過ちを犯させたことを正面から見つめ、その苦しさに耐える思いの中から、新たな自信を汲み出して行く生き方です。

(…)吉野さんには、私の場合などとは比較を絶するような特高体験があります。吉野さんが取調べの際に、まったくのフィクションを供述用に「創作」してまで、親友に特高の手がのびるのをくいとめた、という話は(吉野さんはむろんそういう話を得意になって披露する人ではありませんが)、私は古在(由重)さんから直接うかがって感動しました(参照、毎日新聞社編『昭和思想史への証言』)。けれども、それほど毅然としていた吉野さんでさえ、はじめ陸軍少尉として軍法会議にかけられたときには、どこまで自分がこの試練に堪えられるかに深刻に悩まれたようです。あるいは、そのときの心の動きが、コペル君に投射されて可愛らしい変奏曲を奏でさせたのかもしれません。

(…)天降り的に「命題」を教えこんで、さまざまなケースを「例証」としてあげてゆくのでなくて、逆にどこまでも自分のすぐそばにころがっていて日常何げなく見ている平凡な事柄を手がかりとして思索を押しすすめてゆく、という教育法は、いうまでもなくデュウィなどによって早くから強調されて来たやり方で、戦後の日本でも学説としては一時もてはやされましたが、果してどこまで家庭や学校での教育に定着したか、となると甚だ疑問です。むしろ日本で「知識」とか「知育」とか呼ばれて来たものは、先進文明国の完成品を輸入して、それを模範として「改良」を加え下におろす、という方式であり、だからこそ「詰めこみ教育」とか「暗記もの(、、)」とかいう奇妙な言葉がおなじみになったのでしょう。いまや名高い、学習塾からはじまる受験戦争は、「知識」というものについての昔からの、こうした固定観念を前提(、、)として、その傾向が教育の平等化によって加熱されたにすぎず、けっして戦後の突発的な現象ではありません、そうして、こういう「知識」――実は個々の情報にすぎないもの――のつめこみと氾濫への反省は、これまたきまって「知育偏重」というステロ化された叫びをよび起し、その是正が「道徳教育の振興」という名で求められるということも、明治以来、何度リフレインされた陳腐な合唱でしょうか。その際、いったい「偏重」されたのは、本当に知育(、、)なのか、あるいは「道徳教育」なるものは、――そのイデオロギー的内容をぬきにしても――あの、私達の年配の者が「修身」の授業で経験したように、それ自体が、個々の「徳目」のつめこみではなかったのか、という問題は一向に反省される気配はありません。
 私は、こういう奇妙な意味での「知育」に対置される「道徳教育」の必要を高唱する人々にも、また、「進歩的」な陣営のなかにまだ往々見受けられる、右と反対の意味での一種の科学主義的オプティミズム――客観的な科学法則や歴史法則を教えこめば、それがすなわち(、、、、)道徳教育にもなるというような直線的な考え方――の人々にも、是非『君たちは……』をあらためて熟読していただきたい、と思います。戦後「修身」が「社会科」に統合されたことの、本当の(、、、)意味が見事にこの『少国民文庫』の一冊のなかに先取りされているからです。

(…)最後に亡き吉野さんの霊に一言申します。この作品にたいして、またこの作品に凝縮されているようなあなたの思想にたいして「甘ったるいヒューマニズム」とか「かびのはえた理想主義」とか、利いた風の口を利く輩には、存分に利かせておこうじゃありませんか。『君たちはどう生きるか』は、どんな環境でも、いつの時代にあっても、かわることのない私達にたいする問いかけであり、この問いにたいして「何となく……」というのはすこしも答えになっていません。すくなくとも私は、たかだかここ十何年の、それも世界のほんの一角の風潮よりは、世界の人間の、何百年、何千年の経験に引照基準を求める方が、ヨリ確実な認識と行動への途だということを、「おじさん」とともに固く信じております。そうです、私達が「不覚」をとらないためにも……。

 

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