≪『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎):作品と作者をめぐって≫ 
 

川本隆史  現代を生きる倫理・序説 (跡見学園女子大学文化学会『フォーラム』11 1993.3)

  (…)子どもが自分中心の見方から抜け出していくこと、そして自分 が社会の中で生きていることを発見する筋道を、分かりやすく描 いた作品として、皆さんにお勧めしたいのは、吉野源三郎さんの名著『君たちはどう生きるか』(岩波文庫)という本です。中学の国語の教科書などに、その一部が使われたりしているそうですから、すでにお読みの方もいらっしゃるかも知れません。この本は、中学一年生の主人公が、銀座のデパートの屋上から町並みを 眺めていたときに起こった「変な経験」から始まっています。人間一人ひとりは、社会を構成する分子なのだ、と気づく主人公の心の動き、ものの見方の変化は、まさしくカントの「コペルニクス的転回」を具体的に描き出したものだといえます。それで主人公のアダ名が、「コペル君」というのです。図書館や本屋さんで見つけて、ぜひ読んでみて下さい。(…)


川本隆史  連続講座 花崎皋平≠回顧する――「三人称のわたし」はひらかれたか
 (成蹊大学アジア太平洋研究センター『アジア太平洋研究 = Review of Asian and Pacific studies』40  2015

 (…)第3回のハイライトは『生きる場の哲学』――たぶん最初に通読した花崎の単著だったろうし、 刊行前年の1980年4月から大学の教壇に立つようになった私にとって、忘れられない一冊となっている。初体験となる一般教育科目「倫理学」の教材に、私は吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』(1937年初版)を採用した。鶴見俊輔がこの児童書を絶賛していたのを思い出したからである。講義の枠組みも、鶴見のデビュー作『哲学の反省』(1946年/『鶴見俊輔集』第三巻、 筑摩書房、一九九二年所収)が打ち出した新機軸――「哲学は次の三条の道に従って把握される場合、現代の社会においても生きた意味をもつことが出来る。第一に思索の方法の綜合的批判として把握される場合、第二に個人生活及び社会生活の指導原理探求として把握される場合、 第三に人々の世界への同情として把握される場合、即ちこれである」――に沿って、「批判」、「原理」、「共感」(「同情」の言い換え)の三本柱でもって編成しようとした。(…) 


川本隆史  記憶のケア・脱中心化・脱集計化 : ある倫理学研究者のスローな足どり
 (東京大学大学院教育学研究科基礎教育学研究室 『研究室紀要』42 2016.7) 

 (…)「脱中心化」から始めましょう。正義(・ ・)ケア(・ ・)の編み直し=\―『脱=社会科学』(原著1991年、邦訳:藤原書店、1,993年)においてイマニュエル・ウォーラーステインが全面展開している《unthinking》に、鶴見俊輔さんが当てた達意平明な訳語がこの「編み直し」です――という私の年来の主題のうち、とりわけ正義(・ ・)のほうに関連するのが、「脱中心化」という方法的態度にほかなりません。言うまでもなく、decentrationとはピアジェの発達心理学の中心概念であり、「自己中心性」(自分中心のものの見方)を脱け出して、ものの見方・観点が複数あることを自覚していく認知発達のプロセスを指しています。ここではピアジェの原典や研究文献ではなく、吉野源三郎の名著『君たちはどう生きるか』(初版は1937年)の一節を引いて「脱中心化」の要点を押さえておきましょう(ただしここで吉野さんが意識されていたのはカントにおける「コペルニクス的転回」であって、ピアジェではありません)。
 「子供のうちは、どんな人でも、地動説ではなく、天動説のような考え方をしている。子どもの知識を観察して見たまえ。みんな、自分を中心としてまとめあげられている。電車通りは、うちの門から左の方へいったところ、ポストは右の方へ行ったところにあって、八百屋さんは、その角を曲がったところにある。(…)それが、大人になると、多かれ少なかれ、地動説のような考え方になって来る。いろいろなものごとや、人を理解してゆくんだ。」(岩波文庫、25〜26ページ) (…)



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