≪抄録≫  道徳に関する文学的観念  戸坂 潤    〔 『道徳論』 1936.5 〕 


■(…)一体極めて通俗な常識は、とかく何かと云うと、道徳というものに就いて拘泥(こうでい)する。事物を道徳的に角立(かどだ)てたがる。審美的判断よりも所謂(いわゆる)道徳的判断の方が、下し易いし興味も多い。つまり通俗常識とは通俗道徳で物を考えたり云ったり生活したりすることだろう。――だが少し教養のある常識(教養は必ずしも教育と同じではない)は、道徳というものをもっと自由に(、、、)理解しているのが、世間の事実だ。既成の所与の所謂道徳などに拘泥しないことこそ、或いはそういう拘泥を脱却するだけの見識をもつことこそ、道徳的だ、とこの常識は考えるだろう。道徳道徳と云うことが道徳ではない、丁度(ちょうど)人格者というものの人格程貧困なものはないように、とも考えられる。道徳は、所謂道徳という名がつきレッテルがはられ看板が掲げられてある処にばかりあるのではない、ということになる。丁度自称の良心は却(かえ)って決して良心的ではないだろうし、俺は偉いと称する人間は必ず馬鹿であるというようなものだ。処が馬鹿な人間ほど、俺は偉いと自ら称する人間を本当に偉いと思い込むものだ。
 で、之
(これ)こそ道徳だとみずから名乗り出るものは、実は道徳としてあまり尊重すべきものではなく、却って所謂道徳という領域には普通属していないものに、道徳の実質があるとも考えられる。(…) p.227-228   (20180115)
 
■(…)芸術作品に於ける、特に直接には文芸作品における、道徳(…)それが仮に芸術のための芸術であり、また純粋文学であるにしても、それだけにそれが表わすモラル(、、、)は、却(かえ)って純粋だとも云えるのだ。所謂道徳なるものを目指していなければいない程、そのモラルは純粋になりリアリティーを(も)ったものとなる。道徳の否定そのものが、又優れた道徳だ(多少文学的とも云うべき哲学者、ニーチェやスティルナー[シュティルナー]などを見よ)。そしてこういう文学は、よい常識・良識ならば、実は苦もなく(それ)を理解出来る処のものだ。そういう大衆性(、、、)を有たない純粋文学は、その偉大でないからこそ、ケチ臭ければこそ、非大衆的なのだ。 
 だから、常識のある常識は、世間の道徳や人格商売屋や倫理学者達などが道徳を感じない処にこそ、却って自由な生きた闊達な道徳を発見するのだというのが事実である。殆
(ほと)んどあらゆる文化領域・社会領域に即して、道徳が見出される。だからこの道徳は、もはや単なる一領域の主人を意味するのではない* ことが判るのだ。(…) p.228-229  
 * 「通俗常識では極めて漫然と、倫理学では不変不動な超越的な一つの永久世界として、社会科学では発生変化消滅せねばならぬ一イデオロギーとして、取り扱われた道徳は、結局、道徳という一つの何等か特定な領域(、、)を意味するのであった。」という、この論文の冒頭部分を受けている。(抄録編者注)
 (20180120)
 
■(…)こうした広汎な含蓄ある道徳の観念は、これまで色々の名称で呼ばれて来ている。文化的な自由(、、)が(自由は経済的・政治的・文化的・等々に区別されるだろう――文化的自由は人道的自由(、、、、、)とも呼ばれている)その近代的な名称の一つだし、ヒューマニティー(、、、、、、、、)(人道ではなくて寧(むし)ろ人間性)はその近世的な名称である、等々。――夫(それ)は併しもっと適切にはモラル(、、、)又は倫理(、、)と呼ばれている処のものだ。モラルというフランス語は(之(これ)は後に見るようにフランス文化を離れては歴史的に理解できないものなのだから)、大体物理という言葉に対立する。つまり之は、フューシス(物理・自然)に対立する処のエトス(倫理)であり人事であり精神なのである。(…) p.229   (20180125) 
 
■(…)人々は文学の内に (文学を必ずしも狭く文芸に限らず広く芸術の思想的イデーと理解してよいが)、常にモラルを求めている。処がこのモラルが所謂道徳――例の領域道徳として善悪とか道徳律とか修身徳目とかに帰する処の通俗常識的道徳――でないことは、判り切ったことだろう。文学の内にそういう通俗常識的道徳や勧善懲悪や教訓を求めることは、専ら通俗常識か道学者かの仕事であって、常識ある文学読者のなすべきことではない、ということに世間では事実なっているだろう。
(…)或る意味に於て、文学が追求するものこそこのモラルだと云うことが出来る。――でこのモラル乃至
(ないし)倫理を、私は仮に文学的(、、、)な道徳観念と呼ぶことにしよう。(…)道徳に関するこの文学的観念は、少なくとも夫(それ)が普通世間に存在している形では、全く一つの ――但し相当優れた―― 常識 にぞくする。(…) p.229-230   (20180130)
 
■(…)文学 (広く芸術に於ける精神)がモラル (この文学的道徳の観念) を追求するものだという事実は、文学が常に常識(、、)に対する反逆(、、)を企てるものだという処に、一等よく見て取れるだろう。(…)かくて文学的道徳・モラルは結局通俗常識的道徳に対立しているわけなのだ。ではどういう風に之(これ)に対立するのかと云えば、要するに通俗道徳に対してその批判者(、、、)として立ち現われるのが、モラルだということに他ならぬ。夫(それ)が通俗道徳を批判するものである限り、夫も亦(また)一つの道徳でなくてはならぬ、モラルでなくてはならぬ。(…)道徳を納得的に否定し得るものは、一種の道徳(、、、、、)の他にはあり得ない。モラルは少くとも現在、事実上そういう一種の道徳の観念だ。(…)道徳の文学的観念は、道徳を道徳として、モラルとして、云わば止揚し且つ高揚する処の観念に他ならない。ただ文学自身では、この観念が極めて曖昧で無限定なのだ。そこで今吾々は、之を理論的に表現しなければならぬというのである。(…) p.230-232    (20180205)
 
■(…)吾々にとってまず第一に必要なのは、モラルという文学的観念を、どうやったならば科学的な道徳(モラル)観念にまで、洗練出来るかに答えることだ。そのために社会科学的道徳観念とこの文学道徳観念との、相違点をもう少し考えて見なければならぬ。
(…)社会意識は個人が社会に対して持つ意識か、それでなければ社会という主体が持つと譬
(たと)えられた意識のことだが、(…)社会意識たる道徳意識も、だからこうした個人意識としての道徳意識の総和であるか、それとも個人が社会に対して有(も)つ道徳の自意識に他ならぬ。――いずれにしても道徳は、社会(、、)個人(、、)との関係に於てしか成り立たないことを見るべきだ。
(…)社会科学的道徳観の科学的高さをなす所以
(ゆえん)の一つは、道徳が社会と個人との関係に於て初めて成り立つものであって、単に個人自身の内で成立ち得るものではないという、云われて見れば初めから当然至極なこの関係を、ハッキリ組織的に解明したことにあった。(…)元来社会科学は個人を問題にしないどころではない。実は例えば、如何なる個人は如何なる社会条件の所産であるかを問題にすることこそ、社会科学の具体的な現実的な課題なのだ。(…) p.235-237    (20180210)
 
■(…)だがこの一般的な個人 (或る意味では主観や主体もそうだが) は、まだ決して「自分」 ([私]「我」「自我」等々) ではない。というのは、ナポレオンという個人が個人的であり個性的であることは、シーザーという個人が個人的であり個性的であることと、共通なことである。無論二人の個性は別だが、歴史家は二人が夫々(それぞれ)の異(ことな)った個性の、有(も)ち方までを異にしているとは考えない。そういう不公平な歴史家は少くとも科学的な歴史家ではなくて、ナポレオン党員か何かだろう。処がナポレオン自身(、、)は、自分がナポレオンであるという関係と、或る男がシーザーだという関係とを、同一共通なものとは考えない。もしそうでないと反対する読者がいるなら、その読者が偶々(たまたま)ナポレオンでないからに過ぎない。何人(なんぴと)も「自分」の自分を他人の自分と取り換えることは出来ない。ここに古来人間が一日も忘れることのなかった「自分」というものの意味があるのである。この自分(、、)はもはや決して個人(、、)ではない。個人はなお一般的だ、従って「自分」こそ最後の特殊的(、、、)なものだ、ということとなる。――処でモラルはこの「自分」というものと深い関係があるだろう。(…) p.238-239    (20180215) 
 
■(…)問題はそこでまず、この自分(、、)なるものが社会科学でどう取り扱われ得るかである。自分というこのごく日常的な常識にぞくする観念を、下手に哲学的に解明しようとすると、忽(たちま)ち札つきの観念論に陥らざるを得ない。事実之(これ)までの思い切った観念論(バークレーやフィヒテの主観的観念論)は、単に観念を馬鹿馬鹿しく尊重したことがその動機なのではなくて、この「自分」なるものを観念のことだと思い誤ったり、又之を観念的に掴むことが相応(ふさ)わしいことだと思い込んだりしたことに由来する。「自分」は社会科学(つまり史的唯物論――唯物論)でどう取り扱われるか。
 M・スティルナー[マックス・シュティルナー(1806-1856)。ドイツの哲学者。ヘーゲル左派。唯一者としての自我の絶対性を主張し、無政府主義に影響を与えた。]は何と云っても参照を免れまい。スティルナーに云わせれば、「神と人類とは何物にも頓着しない、自分以外の何物にも。だから自分も同様に、自分のことを自分の上に限ろう。神と同じく他の凡(すべ)てのものにとっては無である自分、自分の凡てである自分、唯一無二である自分の上に」(『唯一者とその所有』――岩波文庫訳)、である。「自分にとっては自分以上のものは何もない」のだ。自分だけが自分の唯一無二の関心事だ。だがどうしてそんな馬鹿げたことが主張出来るのか。
(…)自分が一切のものの創造者であり、世界はつまり自分の所産だというのである。そして自分は世界を創造するに際しても何ものにも負うのではなくて自分自身にしか負う処がない。だから「無からの創造」だというのである。人間の生涯とその歴史的発達は、この自分の創造物だというのだ。――だがこうなるとこの自分と人間(個人)とはどうして別なのだろうか。なる程人間(個人又はその集合としての人類)ならば、それが歴史を創ったということも何とか辛
(かろ)うじて説得できるかも知れない。併し誰が一体、自分が古代から現代までの歴史を造ったと実感するものが、狂人でない限りあるだろうか。――自分なるものが個人や人間と別な範疇だという論理はよい、だがそうだからと云って、「自分」なるものの形而上学的体系は困る。之は独りスティルナーに限らず、彼の先輩たるフィヒテに就いても同様に困る点だ。(…) p.239-241    (20180220)
 
■(…)スティルナーの根本的なナンセンスは、彼が「自分」というものを正面へ持ち出したことではなくて、却(かえ)ってこの自分を安易にも、結局に於ては個人人格というようなものだと想定し、そしてこの個人人格から歴史と社会とを体系づけようとした処の、観念論的な大風呂敷にあったのだ。彼の人間に関する理論が、機械的で非歴史的で意識主義的であるのは、全くここから来る。
 自分というものを個人(人間)から区別しながら、なお結局に於て自分を個人と考えねばならなくした根本的要求は、自分を何か世界の説明原理(、、、、、、、)としようとする企ての内に存する。個人を世界の説明原理としようとするのが典型的な観念論であるが、之に倣
(なら)って「自分」なるものを世界の「創造者」という説明原理にしようとしたのが、スティルナーによって典型的に云い表わされたエゴイズム(理論的又道徳的)なのだ。――だが「自分」とは実は、そういう世界の説明原理(創造者・元素・其他)である或る物(、、、)ではなくて、単に世界を見るものであり之を写す(模写する)ものなのだ。「自分」は個人とは異(ことな)って交換することの出来る()ではない。自分とは自分一身(、、、、)だ。之は鏡面であって物ではない。(…) p.241-242    (20180225) 
 
■(…)社会を特殊化せば個人になる。ここまでは明らかに社会科学の領域だ。併しこの個人を如何に特殊化しても「自分」にはならぬ。一体もはや特殊化し得ない分割不可能であるということはが個人乃至(ないし)個体(In-dividuum)の意味だったのだから、これは寧(むし)ろ当然だと云わねばならぬ。もし同じ(、、)特殊化の原理で「自分」というものにまで到達出来るのなら、この特殊化の原理を恰(あたか)もその科学的方法としている処の社会科学は、同様に「自分」というものをも、そのままで(、、、、、)科学的に(、、、、)取り扱える筈(はず)だが、特殊化の原理が「個人」以上にし得なかったのだから、社会科学的方法は個人の処で止まらざるを得ない。つまり一般に社会科学的概念は、そのままの資格に於てでは(、、、、、、、、、、)、「自分」という事情をうまく科学的に問題に出来ないのである。
(…)個人から自分にまで行くには、社会から個人にまで来るのに使った社会科学的方法・社会科学的個別化原理を、何か適当に改革乃至修正しなければならぬということだ。恐らくこの仕方以外に、理論的に「自分」なるものの概念を規定出来る途はないだろう。モラルの概念も亦
(また)、ここで初めて理論的に成り立つことができるだろう、ということになる。(…) p.242-243    (20180305) 
 
 
 
 
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