作家コーナー ■ケストナー (Erich Kaestner  1899.2.23-1974.7.29)

ケストナー文学への言及
池田浩士「『ファービアーン』のケストナー」 
(「飛ぶ教室」31 1989.8)


  …略…
 (中学校の学芸会で)この日の出し物が、エーリヒ・ケストナー原作の『ふたりのロッテ』だった。ヒロインの一方が、同じクラスの女の子で、そういえば演劇部に入っていたことに、そのとき思いあたった。ケストナーとの、これが最初の出会いだった。
 ケストナーの翻訳は、そのころさかんに出ていた岩波少年文庫でいくつか読んだ。あまり好きにはなれなかった。出版社は忘れたが、薄い新書版のモーパッサン全集のほうが、ずっと魅力的だった。中学一年や二年でモーパッサンの本当の魅力がわかったとも思えないのだが、おとな向けのこちらのほうを、わたしはむさぼり読んだ。ひとつは、いかにも子どもむけ に、ぬかりなく教訓をまじえて語りかけてくるケストナー(というよりは、ケストナーの子供向け翻訳)が、おとなを気取りたい年齢の感性に、しっくり来なかったのだろう。それと同時に、いくら皮肉や悲観論の薬味をちりばめていても、結局のところ善意だの勇気だの信頼だのが勝利することになっているケストナーの少年少女読み物は、モーパッサンの面白さに太刀打ちできるはずもなかったのだろう。
 この印象は、本質的にはいまでも変わっていない。あまり幸せではなかった最初の出会い以来、ケストナーは、わたしのこころを激しくとらえたことのないドイツの作家のひとりでありつづけている。
 ナチズムの制覇を準備し支えた一九二〇年代から四〇年代前半のドイツ文学に関心をもつようになってから、今度は研究対象 としてもまた、ケストナーを読む機会にめぐまれた。一九三三年五月十日の、ベルリンでの最初の焚書キャンペーンを、その夜まっさきに焼かれた二十四人の著者のうち、ただひとり現場で目撃したケストナーのエピソードとか、ナチ当局から執筆禁止の処分を受けながら、読者たるドイツ国民の日常から離れることを拒否してドイツにとどまりつづけたケストナーの正当な決断とか、敗戦後の東西分裂の状況のなかで西ドイツのペンクラブ会長としてケストナーが行なった反冷戦のための貢献とか、人間としての、また文学表現者としてのケストナー像は、いくつもの感動的なエピソードにみちている。少なくとも,第二次大戦後の日本でヘルマン・ヘッセと並んでケストナーの翻訳を一手に引きうけた邦訳者が、ナチスの政権掌握とともにナチス文学の鼓吹者となり、あまつさえ一九四二年以後は大政翼賛会文化部長として御用知識人の陣頭指揮をしながら、敗戦後は口をぬぐってヘッセとケストナーをかつぎまわり、あげくのはてにケストナーの生涯の伝記まで著して、ナチズムにたいするケストナーの果敢な抵抗を称揚してみせているのと比べれば、ケストナーの身の処しかたは天と地ほどもへだたっている。ケストナーは、作品のなかでだけモラリストだったのではないのである。エーミールと仲間の少年たちがもっていた真摯さと、それを裏打ちする機智と、『飛ぶ教室』にいきづいている夢想力と現実感覚との結合は、ケストナーという人間=表現者の歩みをつらぬくライトモティーフであって、現実への透徹した認識を時勢と権力への迎合と混同して恥じない邦訳者の卑劣さは、ケストナーにはいささかもない。
 それにもかかわらず、ケストナーの作品総体を見るとき、わたしは、どうしてもひとつの不満、ないしは疑問を、感じずにはいられないのだ。はたして、ケストナーが少年少女文学にゆたかなみのりをもたらしたことは、作家ケストナーと読者にとって、幸いだったのだろうか? もう少し言葉をやわらげるなら、幸いだったとばかり言えるのだろうか?
 ケストナーにとってもまた、いわゆる児童文学 は、現実回避の道ではなかっただろうか?逃避の道ではもちろんないにせよ、現実と正面から向きあうことを少なくとも延期するための、ひとつの迂回路ではなかっただろうか?
 児童文学がそもそも現実回避の道だ、などと言うのではない。それどころか、明治 期以来の日本の文学の歴史を見ても、少年少女(とりわけ少年)向けの諸作品は、現実を回避するどころか、富国強兵の国是のもっともアクチュアルなメガフォンのひとつだった。ヴィルヘルム二世時代のドイツでは、カール・マイの冒険小説が、これと酷似した機能を果たした。『エーミールと探偵たち』(一九二八)と同時代のドイツのプロレタリア文学運動が、児童文学を重要な領域として位置づけていたことも、周知の事実である。
 ケストナーにとって少年少女向けの作品が現実回避の道だったのではないか、という疑問は、一般論としてではなく、ケストナーの作品自体にかかわっている。具体的に言うなら、ケストナーは『ファービアーン』(一九三一)のような作品を、少年少女作品のなかでは書かずにすんだ 、ということなのだ。これはちょうど、日本の江戸川乱歩が、のちのケストナー称揚者が大政翼賛会文化部長をしていたころに、エロ・グロ粗悪文学の代名詞とされた猟奇探偵小説を書かないために、少年向けの粗悪な冒険探偵小説を書きつづけたことを、想起させる。
 長篇小説『ファービアーン』のケストナーは、かれの詩の少なからぬもののなかでと同様、言葉の真の意味でのモラリストである。モラルが破綻した時代にモラリストであるということは、モラルの生存をゆるさない現実を徹底的に直視することでしかない。勇気は蛮勇としてしか生きることができず、性愛は売買春としてしか実現されず、労働力は失業というかたちでしか発現されず、良い広告は悪い商品の売り込みにしか役立たず、オピニオン・リーダーは強権のメガフォンとしてしか言葉をもてない。――この現実のなかで、たとえば勇気への信頼を説くことは無意味だ。いや、所期の意味とは正反対の意味しかもたないだろう。機智は、狡智にしかならないだろう。この意味で、エーミール少年たちとファービアーンは、ともすればそう誤解されがちな兄弟などではない。たがいに通じあうような通路を断たれたまったくの他人である。おそらく『ファービアーン』のなかにエーミール少年の似姿を求めるとすれば、幕切れのシーンで橋の欄干のうえを歩いていて川に落ちる少年が、エーミールという名前なのかもしれない。ファービアーンは、川に落ちたこの少年を助けようとして、上着をかなぐりすてて水に飛び込む。ばちゃばちゃともがいていた少年は、岸にたどりつく。だが、ファービアーンは溺れて死んだ。あいにくと、かれは泳ぐことができなかったのだ。
 三十二歳のファービアーンは、まだ独身で、さるタバコ会社の宣伝部で働いている。この職業がすでに、この小説の特色を端的に示している。時代の最先鋭たる第四次産業のホワイトカラーである。しかし、だからこそまた、完全失業率四〇数パーセントのドイツでは、安全な職業ではない。ついにかれが本当に愛することができそうな女性と出会ったとたん、かれは一方的に解雇される。恋人は、映画女優になりたがっていて、自分のからだ と引きかえに女優の座を得ようとする。もし職があれば、もちろんファービアーンはそれを引きとめたのである。親友が悲喜劇的な自殺をとげてファービアーンに巨額の金を遺贈してくれたときは、もはや手遅れだった。ベルリンをすてて故郷に帰ったファービアーンは、旧友が提供してくれた御用新聞の仕事を蹴って、新しい出発のための元気を養うために山へ行こうと決心する。その直後にあの少年が川に転落するのを目撃したのだった。
 『ファービアーン』は、翌一九三二年に刊行されたハンス・ファラダの小説『おっさん、どうする?』とともに、ヴァイマル時代末期を代表する失業者小説である。だが、この両作品に描かれているのは、ただ単に失業したホワイト・カラーの現実だけではない。百貨店の店員となるファラダの主人公と同じく、ケストナーのファービアーンは、出口のない現実を、出口のないままに描いている。ハッピーエンドはおろか、いかなる一件落着も、ファービアーンとは無縁である。ひとりのファービアーンが溺死しても、また何万人ものファービアーンが生きて死なねばならない。こうした現実からのさしあたりの出口をさし示したのがナチズムだった。しかし、ケストナーは、ファービアーンの精神において、そうした解決には同意できなかったのである。ナチ当局による執筆禁止が終わったとき、だからこそ、ケストナーは、戦後の西ドイツの現実のなかで、ファービアーンの問題は果たして終わったのかどうかを、あらためて問わねばならなかったはずだ。
 わたしがケストナーにたいしていだかざるをえない違和感は、じつはこのこととかかわっている。第三帝国 の十二年余が終わったとき、ケストナーは、ファービアーンとともにくりかえし死ぬよりは、エーミールやロッテや点子ちゃんとともに生きつづけることを選んだのではないか。少なくともケストナー自身にとって、少年少女向けの作品世界は、ファービアーンの現実を回避する道として働いたのではないか。
 


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