作家コーナー ■ケストナー (Erich Kaestner  1899.2.23-1974.7.29)

ケストナー文学への言及
新聞と戦争 
(「朝日新聞」 2008.2.22夕刊)

ナチス・ドイツで F 

  …略…
 敗れた日独の新聞の、戦後の歩みは異なった。
 米占領軍は日本の新聞を存続させた。
 一方、ドイツではすべての新聞がナチスに支配されていたため、廃刊になった。米英ソ仏の占領軍は各支配地域で軍の新聞を出し、非ナチスの者だけに新しい民間新聞の発行許可を与えた。
 「かき乱された土壌にひとつの石が、すなわちドイツの言論を新たに再建するための支えが、置かれるのだ」
 ジャーナリストのテオドール・ホイスは、45年9月に創刊した地方紙ライン・ネッカー新聞でこう宣言した。のちに初代西独大統領となるホイスは創刊者3人のうちの1人。他の2人もナチスに弾圧された共産党員や社会民主党員だった。
 ナチス時代、強制収容所に一時入れられたユダヤ人のエルンスト・クラマー(95)は米軍兵士としてドイツに戻り、後に米軍創刊のドイツ語紙ノイエ・ツァイトゥングの副編集長になった。
 ナチスに執筆を禁じられた作家のエーリヒ・ケストナーは一時、同紙の文芸欄の編集責任者を務めた。伝記『ケストナー』(クラウス・コードン)によれば、ハインリヒ・マンやベルトルト・ブレヒトなど、ナチスに弾圧された作家たちにも寄稿してもらった。
 ケストナーは焚書
ふんしょで自分の本が燃やされるのを目撃した。焚書から25年後の58年に「焚書について」という講演を行った。
 『大きなケストナーの本』(ケストナー著)によれば、彼は「転がる雪玉を砕かなければなりません。雪崩になってしまえばもはや誰にも止められはしないのです」と、ファシズムを雪玉にたとえた。そしてこう述べた。
 「独裁政治が差し迫ってくるとき、戦いが可能なのはそれが権力を握るまえだけです」
 この言葉は、ナチス・ドイツと共に歩んだ日本にも向けられているように読める。   (敬称略)

(注記に「このシリーズは植村隆が担当しました」とある。)


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