作家コーナー ■芥川龍之介 (1892.3.1-1927.7.24)
   

芥川竜之介語録――文学教育のありかたについて考える視点から

編・解説  国立音大名誉教授  熊谷 孝

「文学と教育」No.110 (1979.11) 掲載

  
  たとえば、国語教科書のありかたについて考える視点から

1. むやみに新しいものに手をつけるのは、ジャーナリストと三越呉服店とに任せておけばたくさんであります。それよりも、偉大なる前人の苦心のあとをお味わいなさい。時代遅れになることなどは心配する必要はありません。片々たる新作品こそ、かえってたちまち時代遅れになります。(「文芸鑑賞講座」)

2. 文章の中にある言葉は、辞書の中にあるときよりも美しさを加えていなければならぬ。(「侏儒の言葉」)

3. スタイルはほかのものと変わりがありません。読んで読み飽かない、読むたびにむしろ今までの気のつかない美しさがしみ出してくる、そういうスタイルがほんとうのスタイルです。ほんとうのスタイルは、今も数えるほどしかありません。/森(鴎外)さんのスタイルは、まさにそのほんものの一つです。(「問に答う」)

4. 諸君は青年の芸術のために堕落することを恐れている。しかしまず安心したまえ。諸君ほどは容易に堕落しない。(また)諸君は芸術の国民を害することを恐れている。しかし、まず安心したまえ。少なくとも諸君を害することは、絶対に芸術には不可能である。二千年来芸術の魅力を理解せぬ諸君を害することは。(「侏儒の言葉」)


  鑑賞上の盲人をつくらないために

5. 文芸的素質のない人は、いかなる傑作に親しんでも、いかなる良師に従っても、鑑賞上の盲人におわるほかはない……。その「鑑賞上の盲人」とは、赤人人麻呂の長歌を読むこと、銀行や会社の定款を読むのと選ぶところのない人のことであります。(中略)これは文学の読めないのよりも、稽古する余地のないだけに、いっそう致命的な弱点であります。その証拠には、ごらんなさい、より文字の読める文科大学教授は、ときどき――というよりもむしろしばしば、より文字の読めない大学生よりも鑑賞上にはアキメクラであります。(「文芸鑑賞講座」)

6. 文芸上の作品をどういうふうに鑑賞すればよいか……まず私の主張したいのは、すなおに作品に面することであります。これはこういう作品とか、あれはああいう作品とかいう心構えをしないことであります。いわんや、片々たる批評家の言葉などを顧慮してかかってはいけません。(中略)とにかく、作品の与えるものをまともに受け入れることが必要であります。(「文芸鑑賞講座」)


  鑑賞指導の座標、パースペクティヴ

7. 僕は中学五年生のときに、ドーデーの『サッフォ』という小説の英訳を読んだ。もちろん、どんな読み方をしたか、あてになったものではない。まあいいかげんに辞書を引いては、ページをはぐっていっただけであるが、ともかくそれが僕にとっては、最初に親しんだフランス小説だった。『サッフォ』には感心したかどうか、確かなことは覚えていない。ただあの舞踏会から帰るところに、明けがたのパリの光景を描いた、たった五、六行の文章がある。それが嬉しかったことだけは覚えている。(「フランス文学と僕」)

8. 実際、いかなる傑作でも、読者の年齢とか、境遇とか、あるいは教養とか、種々の制限を受けることはあたりまえの話でありますから、誰にも容易に理解できないのは少しも不思議ではありません。(中略)けれども、まえに読んだときに理解できなかった作品も、なるべくは読み返してごらんなさい。そのうちには、目のさめたように豁然(かつぜん)と悟入もできるものであります。(「文芸鑑賞講座」)

9. 古来の名作といわれる作品を細心に読んでごらんなさい。一編の感銘をかもす源は、いたるところに潜んでいます。……『戦争と平和』は、古今に絶した長編であります。しかし、あの恐ろしい感銘は、みごとな細部の描写を待たずに生じてくるものではありません。たとえば、ラストーバー伯爵家のドイツ人の家庭教師をごらんなさい。このドイツ人の家庭教師は主要な人物でないどころか、むしろ端役であります。しかし、トルストイは伯爵家の晩さん会を描いた数行の中に、彼の性格を躍動させています。/……こういう細部の美しさを鑑賞することができなければ、あの手堅い壮大の感銘はとうていはっきりとはとらえられません。(「文芸鑑賞講座」)

10. 鑑賞できる美は、必ずしも創作できないでありましょう。けれどもまた、鑑賞できない美は、とうてい創作できません。(「文芸鑑賞講座」)


  まず、教師自身の文芸認識論を確かなものに

11. 内容が本(もと)で、形式は末だ。――そういう説が流行している。が、それはほんとうらしいうそだ。作品の内容とは、必然に形式と一つになった内容だ。まず内容があって、形式はあとからこしらえるものだと思うものがあったら、それは創作の真諦(しんてい)に盲目なものの言だ。……『幽霊』の中のオスワルドが、「太陽がほしい」と言うことは、誰でもたいてい知っているにちがいない。あの「太陽がほしい」という言葉の内容はなんだ。かつて坪内博士が、『幽霊』の解説の中に、あれを「暗い」と訳したことがある。もちろん「太陽がほしい」と「暗い」とは、理屈のうえでは同じかもしれぬ。が、その言葉の内容のうえでは、真に相隔つこと白雲万里だ。あの「太陽がほしい」という荘厳な言葉の内容は、ただ「太陽がほしい」という形式よりほかに現わせないのだ。その内容と形式との一つになった全体を的確にとらえたところが、イプセンの偉いところなのだ。(「芸術その他」)

12. ……世間には往々作品のでき上がる順序を、まずはじめに内容があって、次にそれをある技巧によって表現するごとく考えているものがある。が、これは創作の消息に通じないものか(中略)その間の省察に明を欠いた手合いたるにすぎない。……単に「赤い」というのと、「柿のように赤い」というのとは、そこに加わった小手先の問題ではなくて、はじめからある感じ方の相違である。技巧の有無ではなくて、内容の相違である。(「或悪傾向を排す」)

13. ……誤った形式偏重論を奉ずるものも災いだ。おそらくは、誤った内容偏重論を奉ずるものより、実際的にはさらに災いにちがいない。後者は少なくも星の代わりに隕石(いんせき)を与える。前者は螢(ほたる)を見ても星と思うだろう。(「芸術その他」)

14. ……ある作品の持っているある思想の哲学的価値は、必ずしもその作品の文芸的価値と同じものではありません。ただ、ある作品の持っているある思想の哲学的価値ということばかり考えれば、おそらくはゲーテもシェクスピアも、よほど光彩を減ずるでありましょう。現に、ショーなどは、シェクスピアの思想を一笑に付しているようであります。が、さいわいにも、そのために詩人シェクスピアまでも一笑に付してはいないようであります。(中略)文芸上の問題になるのは、どういう思想を持っているかというよりも、いかにその思想を表現しているかということ――すなわち、文芸的全体としてどういう感銘を生ずるかということであります。(「文芸一般論」)

15. ……文芸というものをひとりの人間にたとえれば、言語あるいは文字は肉体であります。いかに肉体は完備していても、魂がはいっていなければ、ひっきょう死骸たるにとどまるように(中略)文芸を文芸たらしめるものがなければ、文芸の称を与えることはできません。……(しかし)魂は肉体の中にあるものではありません。といって、肉体の外にあるものではありません。ただ肉体を通じてのみ、その正体を示すものであります。文芸を文芸たらしめるものも、やはり魂と変わりはありません。肉体の外に魂を求めるのは、幽霊を信ずる心霊学者であります。言語あるいは文字のほかに文芸を文芸たらしめるものを求めるものも――まあ幽霊に似たものを信ずる神秘主義者と言わなければなりません。(「文芸一般論」)


《解説》 「今の国語教科書は文学に偏している」という声が高い。そういう非難が、売らんかなの商品の目新しさを狙って、「片片たる新作品」(1.)を追い回す教科書業者のヤリクチや、またそういう業者に食われている、一部教育現場人の新しがりの傾向に対する批判であるとすれば、あるいは当を得ているのかもしれない。けれども、それが、年若い学習者の、「芸術の魅力」(4.)のトリコになることを恐れてのことであるとすれば、筋違いもはなはだしい。恐ろしいのは、実は、むしろ、「赤人人麻呂の長歌を読むこと、銀行や会社の定款を読むのと選ぶところのない」ような「鑑賞上の盲人」(5.)を、自分の教え子たちの間からつくり出すことだろう。ではないのか。
 「だが、やはり会社の定款も読めるように指導しなくては」……何もそれが読めなくてもいい、などということを言っているわけではない。もっとも、定款に使われている特殊な専門用語に即して、内容的にそれを“読める”ようにするのは、これは国語科教育の分担任務外のことではあるけれども。
 それはともかく、芥川のいう意味での「文芸的素質」(5.)というものは、これは児童・生徒と呼ばれているその時期に、十分に素地がカルチヴェートされていなくては身につかない性質のものなことは、どうやら確かなようだ。学生生活を送った人たちの場合を例にしていえば、それが学生時代の間に身についたものにならなければ、その人の後半生は鑑賞上の盲人の生涯である、ということはほぼ断言してもいいかもしれない。これは直接、学歴がどうの専攻が何だというようなこととは関係がない。芥川が言っているように、「文科大学教授」を見よ(5.)、である。また、文学が専攻だと称する学生や、その卒業後の姿を見よ、である。
 つまり、この文芸的素質だけは、あとになってからでは失地回復はおぼつかない性質のものだ、ということなのである。小学生の時分から(あるいは、それ以前から)中学・高校・大学教養課程を通じて徹底した文学教育が必要とされる理由だろう。
 ともあれ、そこで「辞書の中にあるときよりも美しさを加えて」いるような文章(2.)、すぐれた「ほんとうのスタイル」(3.)の作品群が、一定のプログラムにおいて学習者の前に提示されなくてはならない。鑑賞主体である学習者の持っている「種々の制限」や可能性を十分見きわめながら、彼らの明日に期待して(8.)、である。それらの作品の魅力が魅力として感じ取れるようになる日を期待してである。
 ところで、文学教育意識による鑑賞指導の根本概念は、それがもともと相手の鑑賞活動に手をかす営みである、という点の自覚だろう。教師に対して求められているものは、自分の任務・役割が作品(の魅力)の媒介者以外ではない、ということの自覚である。
 さて、「たった五、六行」の、しかし心打つ描写に接したことへの芥川の歓び(7.)、それは実は多くの人びとの体験に共軛しているものだろう。過去の体験と限らず現在も、である。人それぞれの自己の文芸的素質への足取りが、こうした体験に媒介されて確かなものになるのである。で、相手の、学習者のそのような歓びを、心から自分の歓びとして感じることのできるような、そういう状況へ向けての指導、それが文学教育意識による鑑賞指導なのだろう。
  
(芥川の本文中に、差別にかかわる表現がみられるが、原文の歴史性を考慮してそのままとした。)
〔デジタルテキスト化:山口章浩氏〕

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