花森安治 よむ年表

※ 花森安治の経歴に関する事項は、①津野海太郎『花森安治伝』所収「花森安治略年譜・書誌」、②『文芸別冊 花森安治』所収「花森安治略年譜」/「花森安治著述&主要関連文献リスト」/「暮しの手帖152冊ダイジェスト」、③暮しの手帖別冊『「暮しの手帖」初代編集長 花森安治』所収「「花森安治と『暮しの手帖』の歩み」、④その他、に拠った。
※ 花森安治の経歴の下部に挙げた著作は、主として『暮しの手帖』以外の新聞・雑誌に掲載されたものである。ただし、最後の個人単行書『一銭五厘の旗』に収録された全29編(* 印)と、ほか数編については、『暮しの手帖』に掲載されたそれぞれの時期に合わせて表示した。

 【主な出典および参考文献】
  『花森安治戯文集1 [逆立ちの世の中]ほか』 (LLPブックエンド 2011.6)
  『花森安治戯文集2 [風俗時評]ほか』 (LLPブックエンド 2011.9)
  『花森安治戯文集3 [暮しの眼鏡]ほか』 (LLPブックエンド 2011.12)
  『社会時評集 花森安治「きのうきょう」』 (LLPブックエンド 2012.3)
           *
  酒井寛 『花森安治の仕事』(『朝日新聞』連載1987~1988 →朝日新聞社1988 →朝日文庫1992.4 →暮しの手帖社2011.9)≪朝日記者≫
  唐沢平吉 『花森安治の編集室』(晶文社 1997.9 →文春文庫 2016.4) ≪元 暮しの手帖社編集部≫
  大橋鎮子 『「暮しの手帖」とわたし』(暮しの手帖社 2010.5 →ポケット版 2016.3) ≪暮しの手帖社社長≫
  馬場マコト 『花森安治の青春』(白水社 2011.9 →潮文庫 2016.4) ≪広告企画会社主宰≫
  津野海太郎 『花森安治伝 日本の暮しをかえた男』(新潮社 2013.11 →新潮文庫 2016.3) ≪演出家、晶文社、和光大学≫
  『文芸別冊 花森安治  美しい「暮し」の創始者』(河出書房新社 2011.12 →2016.4 増補新版初版)
  小榑(こぐれ)雅章 『花森さん、しずこさん、そして暮しの手帖編集部』(暮しの手帖社 2016.6) ≪元 暮しの手帖社編集部≫
   暮しの手帖別冊『「暮しの手帖」初代編集長 花森安治』(暮しの手帖社 2016.7)
  河津一哉+北村正之+(聞き手)小田光雄『「暮しの手帖」と花森安治の素顔』(論創社 2016.10) ≪河津、北村は、元 暮しの手帖編集部≫
           *
  植田康夫 『戦後ジャーナリズムの興亡 雑誌は見ていた。』(水曜社2009.11)
  『日本史年表』(岩波書店 1966)
  『近代日本総合年表』(岩波書店 1968)
  『総合現代史年表』(立命館大学人文科学研究所 1999)
  中村政則他 編 『年表昭和・平成史』(岩波ブックレット 岩波書店 2012)
 ( 最終更新日 2016.11.6 )
西暦
(和暦)
 
年齢   経歴(太字)/著作(細字)/社会(グレー)  関連記事(花森、その他筆)
1910年
(明治43)
  〇大逆事件の検挙開始(5月)
〇韓国併合(8月)
 
  
1911年
(明治44)
0歳 ・10月25日、神戸市須磨平田町5丁目12番地に、6人きょうだいの長男として生まれる。父、恒三郎は貿易商、母・よしのは小学校の教師。

〇大逆事件に判決下る(1月)
○平塚らいてう等の「青鞜」創刊
〇辛亥革命(10月)  
《父・恒三郎は、いわゆる二代目のボンボンで、ハイカラ趣味の遊び人。この父に連れられて、幼い花森は宝塚歌劇や映画館に通い、早熟に育ちます。絵を描くのが好きで、大の得意でもありました。/花森8歳のとき、父は相場の失敗などで財産を失い、さらに家が飛び火で全焼し、一家は一転、貧しい長屋暮らしになります。母・よしのが薬局や荒物屋を営み、夜は和裁の内職もして、花森たち5人の子を育てました。》(編者『「暮しの手帖」初代編集長 花森安治』 暮しの手帖社 2016.7)

《いかに花森さんが日蓮に関心をよせていたか。その理由は、幼かったころの信仰体験にあったのではないか、わたしはそう考えます。朝日新聞の記者だった大田信男さん(『暮しの手帖』編集部員、西村美枝さんの実兄)は、『日本大学創立百周年記念論文集第二巻』に「花森安治と『暮しの手帖』研究―序説」と題する小論文をよせ、こう書いています。/花森一家は祖父・熊二郎の影響で信心深く、菩提寺の仏立山本法寺(神戸市兵庫区会下山町、日蓮宗の中の一派)には、花森少年もよくお参りに通った。得意の画才を発揮して、例えば「鉢の木」などを紙芝居に仕立てて、お寺の子供会でお話を聞かせたり、簡単な子ども芝居の脚本書きから演出まで手がけたりして、なかなかの人気者だった。/(…)そんな、おじいさんに連れられての幼少期の宗教体験は、深くこころに刻まれていたはずで、花森さんにとって日蓮こそ、いちばん親和力のつよい宗教者だったでしょう。》(唐沢平吉『花森安治の編集室』 晶文社1997.9)        
1912年
(明治45/
大正元)
1歳 〇明治天皇没(7月30日)
1913年
(大正2)
2歳 〇護憲運動(大正政変)        
1914年
(大正3)
3歳 〇第一次世界大戦始まる(7月28日)
            
1915年
(大正4)
4歳 〇対華21ヵ条要求(1月18日)  
1916年
(大正5)
5歳 〇吉野作造「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」を『中央公論』に発表(1月)
〇夏目漱石没(12月9日)
    
1917年
(大正6)
6歳 〇ロシア 二月革命(3月)、十月革命(11月)
1918年
(大正7)
7歳 〇シベリア出兵宣言(8月2日)
〇米騒動(8月3日~)

〇原敬内閣成立(9月29日)
1919年
(大正8)
8歳 ・11月、生田区熊内町の家が火事で全焼、長屋住まいになる。

〇ワイマール憲法発布(8月14)
〇総合雑誌『改造』創刊(4月)
1920年
(大正9)
9歳 〇日本最初のメーデー(5月2日)
1921年
(大正10)
10歳 〇ヒトラー、ナチス党党首に就任(7月)
〇原敬、東京駅頭で刺殺される(11月4日) 
  1922年
(大正11)
 11歳 〇全国水平社創立大会(3月3日)
〇森鷗外没(7月9日)
〇日本共産党非合法に結成(7月15日)
   
1923年
(大正12)
12歳 〇関東大震災(9月1日)
1924年
(大正13)
13歳 ・3月、雲中尋常高等小学校卒業。雲中小では3年から田宮虎彦と同級だった。
・4月、県立第三神戸中学校に入学。「紳士たらんとするものを養成する」リベラルな校風。一級上に淀川長治がいた。この頃、9ミリ半フィルムで自作自監督撮影の映画を作り長編シナリオを書く。


〇第二次護憲運動開始(1月10日)  
《もう何十年もまえ、ぼくが中学の入学試験をうけたとき、発表の朝、父がこんなことをいった。/「お前、きょう落ちていたら、欲しがっていた写真機を買ってやろう」/ふとおもいついたといった調子だったが、それでいて、なんとなくぎごちなかった。へんなことをいうなあ、とおもった。おとうさんは、ぼくが落ちたらいいとおもってるのだろうか、という気がした。/◇そのときの父の気持が、しみじみわかったのは、それから何十年もたって、こんどは自分の子が入学試験をうけるようになったときである。/おやじも、あの前の晩は、なかなか寝つかれなかったんだな、とそのときはじめて気がついた。不覚であった。おやじめ、味なことをやったなとおもった。あまり好きでなかったおやじが、急になつかしくなった。/父は、もう何年もまえに死んでいた。》(花森「もし落ちたら」 『朝日新聞』 〈きのうきょう〉1963.2.3)
1925年
(大正14)
14歳  〇東京放送局試験放送開始(3月1日)
〇治安維持法議会通過(3月19日)
〇普通選挙法議会通過(3月29日)
 
      
1926年
(大正15)
(昭和1)
15歳  〇日本労働組合総連合創立(1月17日)
〇労働農民党結成(3月5日)
〇全日本農民組合同盟結成(4月11日)
〇小作争議(新潟県木崎村)(5月5日~)
〇大正天皇没(12月25日)
 
  
1927年
(昭和2)
16歳 ・この頃、『新小説』の探偵小説に夢中になり、神戸元町のガード下で『ストランド・マガジン』『パンチ』『ザ・ニューヨーカー』など古本をあさる。探偵小説に病みつきになり、自作の探偵小説を書く。

〇第一次山東出兵(5月28)
〇芥川龍之介自殺(7月24日)
  
  
1928年
(昭和3)
17歳 〇初の普通選挙(第16総選挙)(2月24日)
〇三・一五事件(3月15日)
〇第二次山東出兵(4月19日)
〇関東軍 列車爆破で張作霖を爆殺(6月4日)
〇治安維持法改悪、死刑・無期を追加(6月29日)

〇パリ不戦(ケロッグ=ブリアン)条約調印  
   
1929年
(昭和4)
 18歳 ・3月、神戸三中を卒業。高等学校受験に失敗し、一年間浪人生活を送る。神戸大倉山の市立図書館に通い、平塚らいてうの「円窓より」を読んで、女性解放論に感銘を受ける。

・「浪人術講義」(神戸三中同窓会誌『神撫台』4号 8月)

〇四・一六事件(4月16日)
〇(米)株式市場大暴落、世界恐慌に拡大(10月24日)
〇浜口内閣、金解禁声明発表(11月21日)
  
《図書館からは港がよく見え、窓があいていると、汽笛がきこえた。ここの食堂で、二十銭出して、松葉どんぶりというのをよく食べた。閲覧室では、持ってきた教科書か参考書を読み、それにあきると、図書館から借りた本をひろげた。/その一つが、平塚らいてうの『円窓』だった。「元始女性は太陽であった。真正の人であった。(…)」とあった。べつに感動しなかった。正直にいって、なにか勝手のちがった、どう気持を片付けていいか見当のつかないものを読んだような気持であった。》(酒井寛『花森安治の仕事』1988)

《入学試験あるところ必ず浪人ありとは、犯罪の裏には必ず女性があると同様に、又学校あるところ必ず歌婦会(カフェ)あると同様に永久不変の一大真理であって、何人も之を否定する事は出来ないのである。しかるが故に、どんなに受験術が急速の進歩を遂げようと、断然中学生が大学生よりえらくなろうと入学試験が厳然と存在する以上は、浪人も又厳然と存在するのである。諸君ら浪人を志望する人達大いに安心していいわけである。/ところが、いくら諸君が浪人になりたいと思っても、どうしたら浪人になれるとか、浪人とはどんなものであるか等を知らなくては――たとえ知っていても、/浪人トハ試験ニ落チタ人デアル/位の知識では、甚だ情けないのである。そこで小生が親切気を出して(それが又小生の数ある美徳の一つであるが)以下いささか浪人術を講義しようというのである。/謹んで聞いてもらいたい。(…)》(花森「浪人術講義―将来浪人たらんと志す人の為に―」(『神撫台』第4号 1929.8) 
1930年
(昭和5)
 19歳 ・4月、旧制松江高等学校入学。
・夏、母よしの死去(享年38)。
・この頃、友人田所太郎(後に日本読書新聞編集長)と活動小屋「松江クラブ」映画鑑賞会の幹事を務め、月一度かける映画を選び、プログラムを編集。


〇金輸出解禁実施(1月11日)
○ロンドン海軍軍縮条約調印(4月22日)
〇統帥権干犯問題おこる(4月25日)
〇浜口首相、東京駅で狙撃され重傷(11月14日)
〇都下15新聞社、政府の言論弾圧に共同声明(12月15日)
○大学卒業生の就職難深刻化
  
《神戸三中を卒業後、一年間の浪人を経て、一九三〇年(昭和五)に松江高校に入学した。なぜ松江を選んだのかははっきりしないが、同じ神戸出身で一年後輩の杉山平一によれば、松高には入試科目に数学がなく、全国から数学嫌いが集まったという(「旧制松江高」、『わが敗走』編集工房ノア、一九八九)。その辺が理由だろうか。なお、地元出身者は三割に過ぎなかった。》(南陀楼綾繁「『鬼瓦』は大橋を渡って――花森安治と松江」 『花森安治  美しい「暮し」の創始者』(河出書房新社 2011.12)

《床に伏したよしのは安治に「私の枕元にたってみて」と弱々しげにつぶやいた。/言われるままに安治は枕元にたった。あっちを向いて、こっちを向いてと安治をしげしげと見つめながら、「立派になったね」と言った後で「あんた将来なにしたい」と聞いた。(…)/「新聞記者か、編集者になる」/たずねた母にはその仕事の内容がわからなかったのだろう。「ふーん」と言ったまま黙ってしまった。その沈黙の中で再び安治は決心した。/「よし、新聞記者か、編集者になろう」》(馬場マコト『花森安治の青春』2011.9)

《ボクが高等学校一年の時、そのオフクロさんが死んだ。ボクは、オヤジよりオフクロが好きだったから、そのときは全くこたえたね。葬式のすんだあくる日、なんか体中風がふいてるみたいで、ひる日中、ふとんにもぐりこんで、仰向いて、ポカンと天井を眺めていたら、悲しくもないのに、いくらでも涙が出てきた。そうしているうちに、気がつくといつの間にかオヤジが、そこに立っていた。おい、これで神戸中のカツドウを全部みてこい、と十円くれて、そのまま向うへ行ってしまった。》(花森「ボクのこと」 『逆立ちの世の中』1954.5)
1931年
(昭和6)
 20歳 ・松江高校文芸部に入部。田所太郎も編集部員。

・小説「海港都市の感傷」(『校友会雑誌』18号 2月)


〇関東軍、軍事行動開始(満州事変)(9月18日)
○軍部クーデター計画、未然に発覚(10月事件)(10月17日)
〇北海道・東北で大飢饉(10月)
《二年から文芸部に入り、詩や小説を書いて、「校友会雑誌」の編集に参加した。それが、ぼくの編集者としての出発点だ、と花森は暮しの手帖編集部員に語っている。この文芸部で、のちに日本読書新聞編集長になる田所太郎といっしょだった。田所とは、東大に進んでから大学新聞でもいっしょになり、終戦直後、読書新聞にいた大橋鎮子に、この田所が花森を紹介して、暮しの手帖につながった。》(酒井寛『花森安治の仕事』1988.9)
1932年
(昭和7)
 21歳 ・7月、『校友会雑誌』20号を責任編集。判型・体裁・活字の組み方を刷新。編集作業をひとりで行う。

・詩「鉄骨ノ感覚」(『校友会雑誌』19号 3月)
・詩「実験室」(『校友会雑誌』20号 7月)
・小説「泣きわらひ」(『校友会雑誌』20号 7月)
・「挽歌(かなしみうた)」(『校友会雑誌』21号 12月)


〇日本ファシズム連盟創立(1月20日)
〇血盟団事件(2月9日~3月9日)
〇満州国建国宣言(3月1日)
〇陸海軍将校ら首相官邸などを襲撃、犬養首相を射殺(五・一五事件)(5月15日)
〇警視庁に特別高等警察部設置、各府県にも特高課を置く(6月29日)
〇(独)総選挙、ナチス第一党となる(7月31日)
〇戸坂潤ら唯物論研究会創立(10月23日)
《本号の責任はすべて僕にある。/この編集は全く僕によって、その独断のもとになされた故に――この点、委員田所、保古の厚意に感謝したいとおもう。/(…)カットを入れてはどうか、という意見もあった。かなり強硬だったが、ぼくは断然これに反対した。見たまえ、全国数十の校友会雑誌が、そのカットによって、如何に紙面を、作品を、ぶちこわされていることか。失礼ながら、それかと言って、理想的なカットが、この学校で得られるのぞみは、恐らくあるまいと思ったからである。活字の集団と、直線による紙面構成に、美を見出してくれるひとはいないものか。》(花森「編集後記」 『校友会雑誌』第20号 1932.7)
1933年
(昭和8)
 22歳 ・3月、松江高校卒業。
・4月、東京帝国大学文学部美学美術史学科入学。『帝国大学新聞』編集部に入部。部員には田宮虎彦、扇谷正造、杉浦民平、岡倉古志郎、田所太郎らがいた。
・夏、松江の呉服問屋の末娘・山内ももよと出会う。

〇(独)ヒトラー内閣成立(1月30日)
〇小林多喜二、築地署に検挙、虐殺される(2月20日)

〇(独)議会、ヒトラー独裁承認(3月23日)
〇国際連盟脱退の詔書発布(3月27日)
〇鳩山文相の京大滝川教授休職要求に端を発する滝川事件(5月26日)
〇共産党幹部佐野学・鍋山貞親、獄中で転向声明(6月9日)
〇(独)国際連盟脱退を通告(10月14日)
〇皇太子明仁誕生(12月23日)
  
《この頃の夜、火の気の乏しい部屋で仕事をしていると、大学新聞の、あのガス・ストーブのことを思い出す。別に取りたてていうほどのことはない。ありふれたストーブだが、暖かかった。/新年号の編集を終って、郷里へ帰る者は帰ったあと、そのころ、大講堂の横のバラックだった編集室は、紙くずの散らかった、うらぶれた感じで、ストーブだけが燃えていた。/お帳面で十五銭也のヒル飯が食える食えるにひかされて、一日に一どは顔を出すと、たいてい扇谷正造や田宮虎彦などが居た。何か、カアッとするようなことはないかなア、と、きっと誰かが言い出した。滝川事件や、美濃部さんが問題になってた頃で、キザな言い方をすれば、心中の寒さは、ストーブなどで、どうにもならなかった。/青年客気の寒さは、年来つみ重なって、こびりついた感じだが、それだけに、せめてあのガス・ストーブ恋う気持ちが、しきりに動くのかも知れぬ。》(花森「ガス・ストーブ」 『東京大学新聞』1948.12.27)

《夏休みに松江に帰省するため、東京駅で切符を買い、窓口を離れようとしたら、次に並んでいた人が、「松江一枚」と云ったので、思わず振り返った視線の先にいたのは大学生。その時は何事もなく、母は京都で途中下車して観光や買物を楽しみ、実家に帰った。翌日京都の御菓子を持ってお茶の先生の所にご挨拶に参上したら、先生が今、帝大の学生さんが滞在しているからご一緒にお茶を……と云われ、呼び入れられたのが、数日前東京駅で見かけた「松江一枚」の人だったという。まるで小説のようで、赤い糸で結ばれていたのだろう。/俗にいう一目ぼれだったようで、父は東京で学生生活を送っているという共通点だけでなく、母の城下町の娘らしからぬ都会的なのびやかさに魅かれたのかと思う。/若い娘の心を傾けさせる容姿を持たない父は、ありったけの情熱で母を口説いたようだ。将来の夢を語り、母に「この人は何かをなしとげる」と思わせ、苦労を覚悟で父に将来を託す決心をさせたらしい。》(土井藍生「〈あとがき〉 母、ももよのこと」 『花森安治戯文集2』LLPブックエンド 2011)
1934年
(昭和9)
 23歳 〇文部省に思想局設置(6月1日)
〇改正出版法および出版法施行規則公布(7月18日)
〇(独)ヒトラー総統となる(8月2日)
〇陸軍青年将校のクーデター計画摘発(士官学校事件)(11月20日)
  
  
1935年
(昭和10)
 24歳 ・この頃、『帝国大学新聞』の原稿依頼をきっかけに、画家の佐野繁次郎と知り合う。佐野のすすめで、伊東胡蝶園(後のパピリオ)で働き始め、広告やPR雑誌を手伝う(月給55円)。
・10月18日、松江の呉服問屋の娘・山内ももよと山王の日枝神社で結婚式を挙げ、牛込箪笥町の奥の借家で新生活に入る。


〇天皇機関説事件 菊池武夫が貴族院で美濃部達吉の天皇機関説を攻撃(2月18)/美濃部達吉反駁演説(2月25日)/美濃部達吉著『憲法撮要』など発禁、文部省、国体明徴を訓令(4月9日)/美濃部、不敬罪で告発される(4月17日)/貴族院議員を辞任、起訴猶予となる(9月18日)
〇政府、国体明徴・機関説排撃声明(8月3日) 第二次国体明徴声明(10月15日)
《昭和十年のことだというが、父はまだ帝大の学生であった。学校の授業には、ほとんど出席せず、帝大新聞の編集室に入り浸っていたと父から聞いたことがある。単なる学生新聞ではなく、商業紙で、編集者である学生には薄謝が出たという。一年生は五円で、学年が上る毎に五円ずつ増える仕組みだったらしい。それに加えて、化粧品のパピリオで宣伝のアルバイトをして、新婚生活を支えていたようだ。》(土井藍生「〈あとがき〉 母、ももよのこと」 『花森安治戯文集2』LLPブックエンド 2011)

《佐野がおもしろいおっさんなので、押しかけて行って、おれを使ってくれと言ったら、いつから来るかと言うから、あしたから来ると答えて、それで決まった。月給はいくらほしいかと言うから、六十五円と言いたかったが、遠慮して五十五円と言ってしまったので、そう決まった。》(酒井寛『花森安治の仕事』1988.9)
1936年
(昭和11)
 25歳 ・12月26日、1年遅れで婚姻届を提出。

〇美濃部達吉、田口十壮に狙撃され負傷(2月21日)
〇二・ニ六事件(2月26日) 東京市に戒厳令(2月27日)
〇日独防共協定調印(11月25日)
 
《二・ニ六事件のとき、長栄館にいた松江高校の後輩・杉山のところへ、花森が、新聞社にいる先輩から聞いたと事件を知らせてきた。大学新聞の理事長をしていた美濃部達吉への右翼の攻撃などが、あらわになってきていた。そういう時代だった。》(酒井寛『花森安治の仕事』1988.9)
1937年
(昭和12)
 26歳 ・3月、東京帝国大学卒業。卒業論文は「社会学的美学の立場から見た衣粧」。
・4月15日、長女藍生(あおい)誕生。それに先立ち、会社の近くの白金三光町に引越す。
・この年、徴兵検査に甲種合格。

〇文部省『国体の本義』出版(3月30日)
〇日中戦争始まる(7月7日)
〇日本基督教連盟、国策協力を表明(7月22日)
〇政府、国民精神総動員計画実施要項を発表(八紘一宇・東亜新秩序等を強調)(9月9日)

〇国民精神総動員中央連盟結成(10月12日)
〇東大教授矢内原忠雄、筆禍事件で辞表提出(12月1日)
〇日本軍、南京占領(12月14日)

〇山川均ら労農派検挙(第1次人民戦線事件)(12月15日)
[卒業論文は]「社会学的美学の立場から見た衣粧」というテーマだった。「衣粧」というのは「衣裳」と「化粧」を合わせたボクの造語である。この衣裳に興味を持ちはじめたのは、自分でおぼえている限りでは、高等学校へ入ったころからだとおもう。社会現象として、人間が何かを着るということ、それを考えると面白くて仕方がなかった。考えるだけでなく、自分の生活も、考えたように組み変えて行こうとした。》(花森「ボクのこと」 『逆立ちの世の中』1954.5)

《昭和十二年の三月に帝大を卒業した父は、そのままパピリオの社員になった。給料はいくらほしいかと聞かれた父は、当時の大学卒の初任給の標準六十円より、少し遠慮して、五十五円と答えたら、すんなりと受け入れられたという。しまった―六十円と云えばよかったと悔やんだらしい。その翌月、四月半ばにわたしが誕生しているのだから、なにかと物入りだったろうと思うと、申訳ないような気持がしたものだ。》(土井藍生「〈あとがき〉 母、ももよのこと」 『花森安治戯文集2』LLPブックエンド 2011)
1938年
(昭和13)
 27歳 ・1月、召集を受けて満洲(中国北東部)へ赴く。

〇政府、中国に和平交渉打切りを通告(1月16日)
〇大内兵衛・美濃部亮吉ら教授グループ検挙(第2次人民戦線事件)(2月1日)
〇大日本農民組合結成(反共、反人民戦線)(2月6日)
〇唯物論研究会解散(2月12日)
〇『中央公論』3月号、石川達三「生きてゐる兵隊」のため発禁(3月)
〇国家総動員法公布(4月1日)
〇近衛首相、東亜新秩序建設を声明(11月3日)
〇唯物論研究会関係者検挙(11月)
《北満の依蘭(イーラン)という小さな町に部隊があった。昭和十三年、甲種合格の現役で、上等兵殿だった。討伐作戦でアゴを出してくると、みんなムカシ食ったものの話を、次から次へ微に入り細をうがって描写したものだ。それにあきると。脱走して内地に帰る道筋を、これは小さな声で、しかも熱心に話し合った。しかし、いつも朝鮮海峡までくると、ためいきになって、おしまいになった。あとはみんな黙りこんで身体だけを引きずって行った。帰りたかった。》(花森「赤紙一枚で」  『特集文芸春秋』1956.4)

《初年兵のとき、日記を書かされて、何でも、かくさず正直に書け、といわれたので、「今日ノ演習ハ寒クテツラカッタ」と書いたら、文字通り目から火花が出たほど、ぶんなぐられた。それが、あまりこわかったから、次の日には「モット演習ノ時間ガ長ケレバヨイト思ッタ」と書いたら、その部分に赤丸がついて「ソノ気持デシッカリヤレ」と評がついて戻されてきた。》(花森「うそつくな」 『週刊読売』1954.11.21)

《「貴様らの代りは一銭五厘で来る。軍馬はそうはいかんぞ」とどなりながら、帯皮を顔に叩きつけてくる奴らと、殴られても殴られても、「ありがとうございました」と叫ばなければならない兵隊は一緒ではなかった。》(馬場マコト『花森安治の青春』2011.9)
1939年
(昭和14)
 28歳 ・戦地で結核を患う。
・4月、病院船で帰国。和歌山の陸軍病院で療養生活を送る。「従軍手帖」で病床での思いを記述する。

〇ノモンハン事件(5月11~9月15日)
〇満蒙開拓青少年義勇軍2500人の壮行会(6月7日)
〇国民徴用令公布(7月8日)
〇独ソ不可侵条約調印(8月23日)
〇第二次世界大戦始まる(9月1日)
《「やらなければ、やられる」という状況のなかで、自分の手で敵兵を確かに虐げた、その体験も、忘れられないものになります。お前は加害者だと言われれば、黙するのみ。命令でやらされたのだが、そんな言い訳はしたくない。割り切れない思いが怨みとなって、腹の底にたまりました。》(編者『「暮しの手帖」初代編集長 花森安治』 暮しの手帖社 2016.7)

《戦地で初期の結核がみつかった父は、戦友達に後めたい気持を抱きつつ、病院船で帰国。》(土井藍生「〈あとがき〉 母、ももよのこと」 『花森安治戯文集2』LLPブックエンド 2011)
1940年
(昭和15)
 29歳 ・除隊。伊東胡蝶園に復職。
・この頃、川崎市井田に家を借り、親子3人で暮らす。
・12月、佐野繁次郎とともに『婦人の生活 第一冊』(生活社)の制作に携わる。安並半太郎のペンネームで「きもの読本」を執筆。以後、同シリーズは5冊刊行(5冊目は築地書店発行)。当初は全10巻を予定していた。後の『暮しの手帖』の原型となる。写真家・松本正利とはこの頃からつき合いが始まる。

・「きもの読本」(『婦人の生活 第一冊』生活社 12月)

〇津田左右吉著『神代史の研究』など発禁(2月12日) 出版法違反で起訴(3月8日)
〇近衛文麿、新体制運動推進の決意を表明(6月24日)
〇大本営政府連絡会議、武力行使を含む南進政策を決定(7月27日)
〇日独伊三国同盟条約調印(9月27日)
〇大政翼賛会発会式(10月12日)
〇政府・大政翼賛会、文化思想団体の政治活動禁止を決定(10月23日)
〇紀元2600年記念式典、皇居前で挙行(11月10日)
〇大日本産業報国会創立(11月23日)

〇内閣情報局発足 日本出版文化協会設立(12月19日)
《治療の甲斐あって、昭和十五年にパピリオに復職、親子三人の暮らしが戻って来た。》(土井藍生「〈あとがき〉 母、ももよのこと」 『花森安治戯文集2』LLPブックエンド 2011)

《『婦人の生活』と同じシリーズの本を、戦時下とは思えない質の高さで作り上げます。皮肉なことですが、「暮らし」をテーマとする花森の雑誌作りの才能は、戦時下で大きく花開いたのです。》(編者『「暮しの手帖」初代編集長 花森安治』 暮しの手帖社 2016.7)

《小田 (…)これも未確認なのですが、生活社が大東亜共栄圏や満州問題や大政翼賛会との関係ゆえか、戦犯出版社リストに挙げられていたという話があります。(…)/これまで花森は大政翼賛会のことだけが色々といわれてきましたが、それらに象徴される何らかのトラウマがあったのではないかという推測もできます。これはあくまで推測にすぎませんが、それでも色々の思いがこめられ、生活社や「婦人の生活」の「生活」が「暮し」へと転用され、『暮しの手帖』へと昇華されたのかもしれません。》(河津一哉+北村正之+小田『「暮しの手帖」と花森安治の素顔』 論創社 2016.10)
1941年
(昭和16)
 30歳 ・春、大学新聞時代の先輩・久富達夫の誘いで、日比谷・旧国会議事堂前の大政翼賛会実践局宣伝部に勤める。興亜局企画部に杉森久英がいた。
・12月9日より、明治製菓の巡回車を借り、都内を街宣活動、演説も行う。


・「きもの読本」(『婦人の生活 第二冊』生活社 4月)
・「女は日本の半分」(『漁村』7月)

〇改正治安維持法公布(3月10日)
〇日ソ中立条約調印(4月13日)
〇東条英機内閣成立(10月18日)
〇日本軍、マレー上陸、真珠湾奇襲、
アジア太平洋戦争始まる(12月8日)
《大政翼賛会は、はじめ、首相の近衛文麿を総裁として、長期化する戦争と政治のゆきづまりを打開しようとする新しい国民運動として組織された。しかし、既成の政、財、官や軍などの右勢力から「赤だ」と攻撃されて、革新色はすぐ失われ、戦争遂行に向けて、国民の日常生活のすみずみまで統制する、政府の補助機関になった。宣伝部は、その国策宣伝の中心的な役割をになった。》(酒井寛『花森安治の仕事』1988.9)

《大政翼賛会は当初、長期化する戦争と政治の行き詰まりを打開するための、国民運動として組織されました。花森は、その革新性に活路を見出したのかもしれません。》(編者『「暮しの手帖」初代編集長 花森安治』 暮しの手帖社 2016.7)
1942年
(昭和17)
 31歳 ・「きもの読本」(『すまひとふく』生活社 1月、『くらしの工夫』生活社 6月)
・「言葉は暮しのなかに生きている」(『国語文化』3月)
・「日本の壁新聞」(『アサヒカメラ』3月)
・「報道写真について」(『帝国大学新聞』3月2日)
・「政治と宣伝技術」(『宣伝』5月)
・「明るい町 強い町」(宝塚歌劇雪組公演脚本、大政翼賛会宣伝部名義)(『歌劇』11月)
・「時鐘の歌」(『文化日本』12月)

〇戦時大増税案発表(1月16日)
〇味噌・醤油・衣料に切符配給制実施(2月1日)
〇大日本婦人会結成(2月2日)
〇東京に初の空襲警報発令(3月5日)
〇日本本土初空襲(東京・名古屋・神戸)(4月18日)
〇日本文学報国会結成(5月26日)
〇ミッドウェー海戦(日本、戦局の転機となる)(6月5日)
〇情報局、1県1紙の新聞社統合を発表(7月24日)
《気持は言葉にも現れるということは、何も言わずに黙っていても気持ちは通う、ということである。それだけでは足りなくて困るから話すのである、話す以上は、話し方を大切に考えなければ、というのである。(…)/それに、ここではわざと触れなかったが、みんなが話し方を大切にしてゆくようになれば、この言霊の幸うくにの国語の美しい伝統が、もっともっと磨かれてゆくであろう。/言葉は生きている、言葉は暮しのなかにだけ、話しのなかにだけ、見事に生きている。  ―大政翼賛会宣伝部―》(花森「言葉は暮しのなかに生きている」 『国語文化』1942.3)
1943年
(昭和18)
 32歳 ・3月、再び召集され入隊するも、23日間で召集解除となる。
・報道技術研究会のデザイナー・山名文夫らとともに国策宣伝の仕事を担う。陸軍省、決戦標語ポスター「撃ちてし止まむ」を5万枚配布。


〇米英楽曲など1000種の演奏・レコード禁止(1月13日)
〇英米語の雑誌名禁止(2月)
〇大日本言論報国会結成(3月7日)
〇神宮外苑で出陣学徒壮行大会(10月21日)
 
《彼はあの名句「あの旗を討て」というのを創造した。好く世間でいわれる「欲しがりません、勝つまでは」は懸賞の文句の中から彼が選び出したものなのだそうである。もっとも「贅沢は敵だ」という標語をすりかえて「贅沢は素敵だ」という言葉がそのころ翼賛会内部でむしろ低くささやかれたが、これも、どうやら花森君のイタズラだという話であった。》(扇谷正造「反俗漢・花森安治の秘密」 『特集 文芸春秋 人物読本』1957.10)
1944年
(昭和19)
 33歳 ・7月、大政翼賛会文化動員部副部長に昇進。部下は、後に平凡出版(現、マガジンハウス)を設立する岩堀喜之助、清水達夫など。

・「きもの読本」(『切(きれ)の工夫』3月 築地書店)

〇『中央公論』『改造』等の編集者検挙(横浜事件)(1月29日)
〇『中央公論』『改造』に廃刊命令(7月10日)

〇閣議、国民総武装を決定、竹槍訓練など始まる(8月4日)
〇大都市の学童集団疎開実施(8月~)
〇学徒勤労令・女子挺身隊勤労令公布(8月23日)
〇神風特別攻撃隊編成(10月19日) 初突撃(10月25日)
〇防空壕強制建造命令(この年)
 
1945年
(昭和20)
 34歳 ・4月、川崎大空襲にあう。
・6月、大政翼賛会は本土決戦に備えた国民義勇隊結成により解散となる。
・自宅の畑を耕しながら、戦災援護会に職を得て「焦土の戦友」第1回写真移動展を準備中に敗戦。
・8月、戦後、朝日新聞社の裏手で一時期コーヒー店を開く。友人の田所太郎が編集長を務める『日本読書新聞』に身を寄せ、カットなどを描く。編集部員には柴田連三郎がいた。
・10月、田所の紹介で、『日本読書新聞』在勤の大橋鎮子を知る。
・年末に、「青年文化会議」結成。世話人に中村哲、瓜生忠夫、桜井恒次、長谷川泉、メンバーに川島武宣、丸山真男、扇谷正造、杉浦民平、田所太郎、野間宏、寺田透、杉森久英、花森など。


〇米軍、硫黄島に上陸(2月19日) 23000人の守備隊全滅(3月26日)
〇東京大空襲、焼失23万戸、死傷者12万(3月9~10日)
〇B29、大阪を空襲 13万戸焼失(3月13~14日)
〇米軍、沖縄本島に上陸(4月1日) 守備隊全滅(6月23日
〇ドイツ軍、連合国軍に対し無条件降伏(5月7日)
〇戦争指導会議、本土決戦断行と決定(6月6日)
〇広島に原爆投下(8月6日) 長崎に原爆投下(8月9日)
〇ポツダム宣言受諾(8月14日) 
〇天皇、「終戦」詔勅放送 第二次世界大戦終わる(8月15日)
〇マッカーサー連合軍総司令官、厚木到着(8月30日)
〇ミズーリ号上で降伏調印(9月2日)
〇戸坂潤獄死(8月9日) 三木清獄死(9月26日)
〇プレスコード指令(9月19日)
〇GHQ、日本政府に人権指令(10月4日)
〇国連憲章発効、国際連合成立(10月24日)
〇衆院議員選挙法改正公布(婦人参政権など)(12月17日)
〇第1次農地改革始まる(12月29) 
《大政翼賛会が解散して、父は職を失うが、戦後間もなくから、高校時代からの友人、田所太郎さんが編集長をしていらした日本読書新聞でカットを書かせて頂いたり、有楽町でコーヒー店を開いたりしていたらしい。》(土井藍生「〈あとがき〉 母、ももよのこと」 『花森安治戯文集2』LLPブックエンド 2011)

《まあ、空襲もいやだったけれど、翌朝、変にサバサバした顔をして出てくるのは、空襲にやられたひと。/「おお、夕べやられました。おかげさまで」なんて、落語みたいなことをいっている。今夜か今夜かと思っているのは、とってもつらくて、やられちまった方が緊張感がとける。/ただ、赤紙はそうは行かなかった。/「いやあ、とうとうきた」という感じでね、空襲より召集のほうがこたえたわけです。召集なら、死ぬということがある。それから家族と離れるということがある。空襲は少なくとも家族とはいっしょだし、まず死ぬ率は非常に少ないわけです。だからやぱり赤紙がきたというときは、非常に憂うつな、まわりの人間もちょっとなにかものがいえない感じになった。/そういうのがずうっと続いているでしょう。それでとにかく戦争は終ったんだ、ああ、もう戦争にいかなくて済んだんだという気持ち。これから日本はどうなるんだなんてことは、そのときはぜんぜんない。》(花森「僕らにとって8月15日とは何であったか」 『1億人の昭和史 4 空襲・敗戦・引揚』毎日新聞社1975.9)

《ぼくにとって八月十五日というのは、暮らしがなにものにも優先して大事なもので、人間の暮らしはなにものも犯してはならないという考え方をもった日だったのです。おこがましいけれども、それまではぜんぜん逆で、暮らしなんてものはなんだ、少なくとも男にとっては、もっとなにか大事なものがある、なにかはわからんくせに、なにかがあるような気がして生きていたわけです。あるいはあるように教えられてきた。戦争に敗けてみると、実はなんにもなかったのです。暮らしを犠牲にしてまで守る、戦うものはなんにもなかった。それなのに大事な暮らしを八月十五日まではとことん軽んじてきた、あるいは軽んじさせられてきたのです。》(花森「僕らにとって8月15日とは何であったか」 『1億人の昭和史 4 空襲・敗戦・引揚』毎日新聞社1975.9)

《日本人がはじめて個人というものを、キザにいうと、はじめて感じた。そういうことは有史以来、日本民族にとってはじめての経験でしょう。人間個人というものを実感としてつかんだという、これはぼくはたいへん貴重な日で、そういう意味では敗けてよかったです。敗けなかったら、まだまだそういう実感をわれわれはもつことはできなかっただろうと思う。》(花森「僕らにとって8月15日とは何であったか」 『1億人の昭和史 4 空襲・敗戦・引揚』毎日新聞社1975.9)

《終戦の年、大橋がはじめて「女の人の為の雑誌を作りたい」と相談したとき、花森は大橋にこう言った。こんどの戦争に、女の人は責任がない。それなのに、ひどい目にあった。ぼくには責任がある。女の人がしあわせで、みんなにあったかい家庭があれば、戦争は起こらなかったとおもう。だから、君の仕事に、ぼくは協力しよう。/それが、暮しの手帖のはじまりであり、花森の戦後の仕事のはじまりだった。》(酒井寛『花森安治の仕事』1988.9)

《鎮子に話しながら安治にもやりたいことがみえてきた。女性が太陽の暮し。それを実現するための暮しの工夫や暮らしの提案をしよう。/そんな雑誌が出版された暁には、平塚らいてうに自分の雑誌に随筆を書いてもらうのだ。(…)/「ぼくはなにも孝行できずに母を亡くした。だから君のお母さんへの孝行を手伝おうじゃないか」》(馬場マコト『花森安治の青春』2011.9)
1946年
(昭和21)
 35歳 ・3月、花森を編集長・大橋鎮子を社長とする衣裳研究所を、銀座西8丁目日吉ビル3階に設立。
・4月~10月、田宮虎彦が編集した文明社の『文明叢書』5冊の装釘を手がける。
・5月、デザイン集『スタイルブック』第1号(1946夏)を刊行。翌年夏までに計5冊を出す。各地で服飾デザイン講座を開講。

・「歪められたおしゃれ」(『新生活』2月)
・「新しいキモノ袖のデザイン」(『婦人公論』7月)
・「端布だけで作れる新しい手提袋」(『婦人公論』8‐9月)
・「歩くスタイルブック」(『婦人文庫』9月)
・「コドモ服はお母様の手で」(『婦人公論』10月)
・「自分で簡単に作れる美しいフードと手袋」(『婦人公論』12月)
・「何よりも靴を美しく」(『少女の友』12月)

〇天皇、神格否定宣言(人間宣言)(1月1日)
〇『中央公論』『改造』復刊、『世界』のほか『展望』『近代文学』『人間』等創刊(1月)
〇金融緊急措置令(新円発行、旧円預貯金封鎖)(2月17日)
〇メーデー、11年ぶりに復活(5月1日)
〇極東国際軍事裁判開廷(5月3日)
〇米飯獲得人民大会(食糧メーデー)(5月19日)
〇第2次農地改革始まる(10月21日)
〇日本国憲法公布(11月3日)
《彼女[大橋鎮子]は、独特の直感で、花森さんの天才を見抜き、フルに生かし、かしずきながら、とことん花森さんを使われた。オーケストラ『暮しの手帖』の天才的指揮者を世に送り出したのは、大橋鎮子です。/そのお二人の関係、なんと云ったらいいか、大橋さんはプロデューサー、花森さんはアートディレクター、お二人は同じ船に乗り、『暮しの手帖』を動かし、推し進める、運命共同体だった。》(増井和子「〈あとがき〉叱られた話、褒められた話、懐かしい大先生のこと」 『花森安治戯文集3』LLPブックエンド 2011)

《二百字詰めの原稿用紙の、書き出しから十枚くらいは、いつも削られた。原稿用紙の、上の余白に、「ここから」と、大先生の鉛筆の文字で書かれている。/なぜその十枚が削られるのか。/「これは、君の私情だ。読者と関係ない」/(…)けっして早口ではなく、ゆっくりと、ゆったりと相手の反応を確かめながら話してくださる。/「このとき、空はナニ色だったか。風はあったか。どんな風だった……。遠い未知の土地に出かけていって、あなたは、疲れていなかったか。ふーっと、ため息が出ることがあっただろう」/それは、豊かで貴重な、ヒューマンな時間だった。両手にノミとオノをお持ちの手八丁、口八丁。引いたり突いたりの、そんな語り合いのひとときを私に与えて下さった。そして最後に、ひとこと、こう締めくくられた。/「それを書きなさい」/大先生の指示は明快だった。親切だった。》(増井和子「〈あとがき〉𠮟られた話、褒められた話、懐かしい大先生のこと」 『花森安治戯文集』2011)

《どんなに みじめな気持でゐるときでも/つつましい おしやれ心を失はないでゐよう/かなしい明け暮れを過してゐるときこそ/きよらかな おしやれな心に灯を点けよう/つつましい おしやれは/あなたの心ににほふ一茎の青い花/あなたの夢に流れるとほい子守唄/そして あなたの日日を太陽へ翔けらせる翼/お友だちよ 嘆くのはやめよう/私たちに青春のあるかぎり/私たちには希望がある》(推定花森 巻頭の文章 『スタイルブック』1946.5)
1947年
(昭和22)
 36歳 ・『スタイルブック』の好評に便乗して続々と現われた類書に押され、『スタイルブック』のうち、最も力を注いだ第5冊『働くひとのスタイルブック』(10月刊)さえもあまり売れなかった。
・11月29日、父恒三郎死去。
・杉森久英の依頼で、河出書房の雑誌『文芸』(12月号、23年1、2月号)の表紙画を描く。


・『あなたのイニシャル 服飾手芸のための図案集 』(衣裳研究所)
・「美しいスエタアを編む」(『少女の友』1月)
・「美しい着もの」(『少女の友』3月)
・「フロントジレ 少しの布で出来る美しいおしゃれ」(『婦人公論』3月)
・「装釘と著作権」(『日本読書新聞』5月)
・「一番美しいアクセサリ」(『美貌』8月)
・「少ない毛糸で」(『婦人公論』11月)

〇総司令部、2・1ゼネスト中止を命令(1月31日)
〇教育基本法・学校教育法施行(3月31日)
〇6・3制実施 新制中学校発足(4月1日)
〇日本国憲法施行(5月3日)
〇改正民法公布(12月22)
 
《あれぐらい純粋に自由を考え、人というもの、人間というものを考え、生き方を考え、暮らしというものの重さを考えたときはないですね。具体的にいうと二、三年の間でしょうね。二・一ストまでの間は実にかがやかしかった。そのあと世の中の歯車が少しずつ逆に回ってきたんです。/二十年八月十五日から二十二年二月一日までをぼく流のことばで、幻の時代というんですよ。それは完全に燃焼して、張り切って、ほんとうにいい時代でしたね。いまの目で大人がみたら、なんとたわいがないというでしょうけれども。たわいないとしても、そのことが現実に日本にあったということを、ぼくはやっぱりきちんといっておきたい。一度あったということは、もう一度あり得ることではないかと。環境が違い、状況も違いますから、あしたというわけにはいかないけれど、少なくとも一度はあった、これは重要なことです。》(花森「僕らにとって8月15日とは何であったか」 『1億人の昭和史 4 空襲・敗戦・引揚』毎日新聞社1975.9)    
1948年
(昭和23)
 37歳 ・9月20日、『美しい暮しの手帖』(『暮しの手帖』の初期の名称)創刊。社名を「衣裳研究所」から「暮しの手帖社」に変更。
・『美しい暮しの手帖』1号に「直線裁ちのデザイン」、「シンメトリイでないデザイン」、「自分で作れるアクセサリ」掲載。「服飾の読本」掲載、連載開始。
・この頃、東京美術学校からの依頼で服飾デザインについて講演する。


・デザイン集『アクセサリの実物大型紙』、『家中みんなの下着』(衣裳研究所)
・「スカートへの不思議な郷愁」(『VAN』1月)
・「お手玉のようなアクセサリ」(『婦人朝日』3月)
・「ふたりきりの家」(『ソレイユ』3月)
・「柱を美しく使いましょう」(『ひまわり』4月)
・「美貌43戒」(『美貌』4月)
・「白い服のためのベルト」(『装苑』5月)
・「映画コスチゥム評」(『アメリカ映画』5月)
・「ヒゲ」(『VAN』5月)
・「デザイン読本2/裁☆ち☆く☆ず」(『衣裳』6月)
・「愚劣すぎる男の服装」(『生活と住居』6月)
・「六つ接ぎ帽子のデザイン」(『装苑』6月)
・「夏の部屋着は涼しく美しく」(『美貌』6月)
・「ブラウスをたたえる」(『美貌』7月)
・「部屋を美しくするすこしの工夫」(『ソレイユ』7月)
・「デザイン読本3/直線裁ち」(『衣裳』7月)
・「La Sandale」(『装苑』8月)
・「ジレとジャンパア・スカァト」(『美貌』8月)
・「スカーフの使い方」(『装苑』9月)
・「セエタアを美しく」(『美貌』9月)
・「デザイン読本4」(『衣裳』9月)
・「アクセサリアンサンブル」(『装苑』10月)
・「キルティングの流行」(『美貌』10月)
・「あたたかく着ると心もあたたかい」(『ソレイユ』11月)
・「きもののうつくしさ」(『美貌』11月)
・「美しく着るオーバアコート」(『美貌』12月)
・「外套のアクセサリ/何かたりない」(『装苑』12月)
・「デザイン読本5」(『衣裳』12月)
・「ガス・ストーブ」(『東京大学新聞』12月27日)

〇新制高等学校発足(4月1日)
〇太宰治、入水自殺(6月13日)
〇極東国際軍事裁判判決(11月12日)
〇岸信介・児玉誉士夫・笹川良一らA級戦犯容疑者19人を釈放(12月24日)
〇インフレーションが深刻化。
《これは あなたの手帖です/いろいろのことが ここには書きつけてある/この中の どれか 一つ二つは/すぐ今日 あなたの暮しに役立ち/せめて どれか もう一つ二つは/すぐには役に立たないように見えても/やがて こころの底ふかく沈んで/いつか あなたの暮し方を変えてしまう/そんなふうな/これは あなたの暮しの手帖です》(『美しい暮しの手帖』1号 1948.9 以後現在に至る全号の表紙裏に掲載)

《はげしい風のふく日に、その風のふく方へ、一心に息をつめて歩いてゆくような、お互いに、生きてゆくのが命がけの明け暮れがつづいています。せめて、その日日にちいさな、かすかな灯をともすことができたら……この本を作っていて、考えるのはそのことでございました。》(花森「あとがき」 『暮しの手帖』1号 1948.9)

[「暮しの手帖」は]最初のころは一万部そこそこを同人がリュックにつめてうり歩いた。帰りは、お金の代りにイモを貰って来たという話だ。そのころ神奈川かどこかの大きな本屋さんが、/「こんな本、置くところがない」/とつっぱねたそうだ。》(扇谷正造「反俗漢・花森安治の秘密」 『特集 文芸春秋 人物読本』1957.10) 

《秋にだした第一号は一万部刷った。これをみんなで手わけしてリュックにつめ、毎日東京を中心に、本屋さんをしらみつぶしにまわって置いてもらった。八千部売れて二千部残った。/第二号は一万二千部刷った。おなじように本屋さんにたのんで置いてもらったが、お金が入るのは早くて一カ月かかるから、暮の支払いには間に合わない、あちらこちらから金をかき集めて印刷代や紙代を払い、一緒にやっている仲間にわずかの餅代をわけ、(…)。それでも気持は明るく、はりきっていた。あとで聞くと、印刷屋や紙屋は、もうこの雑誌はつぶれるとおもったらしい。》(花森「なんにもなかったあの頃」 『暮しの手帖』100号 1969.4)   
1949年
(昭和24)
 38歳 ・天皇家第一皇女である東久邇成子の随筆「やりくりの記」を『美しい暮しの手帖』5号に掲載。

・「アクセサリの美しい使い方」(『新女性全集 実用篇』(鎌倉文庫 1月)
・「ギゴクコク」(『週刊朝日』1月2・9合併)
・「アクセサリ・いろはかるた」(『美貌』1月)
・「春のアクセサリは花である」(『それいゆ』2月)
・「Screen fashions」(『スクリーン』3月)
・「早春の陽に飾れ」(『美貌』3月)
・「春を呼ぶスタイル」(『美貌』4月)
・「顔をかくして売る 最近の雑誌の表紙」(『朝日新聞』5月8日)
・「デザイン教室作品集 解説と画」(『衣裳』5月)
・「若いひとに」(『それいゆ』6月)
・「雨の日に」(『装苑』7月)
・「アロハシャツのすすめ」(『新青年』7月)
・「夏のアクセサリ」(『装苑』8月)
・「アロハシャツ」(『VAN』8月)
・「“流行マヒ症”の流行」(『週刊朝日』9月4日)
・「貴女にはどんな色が似合うか?」(『美貌』9月)
・「これからの和服の柄といろについて」(『美貌』10月)
・「ほっときなさい」(『日本読書新聞』11月2日)
・「動物的な親ごころ」(『装苑』11月)
・「冬を暖かく過す暮しの工夫 衣の巻」(『装苑』12月)
・「ヤブニラミの風俗」(『潮流』12月)

〇戦後インフレ終息のための財政金融引き締め政策(ドッジ・ライン)実施。1ドル360円に。(4月25日)
〇下山事件(7月5日)
〇三鷹事件(7月15日)
〇松川事件(8月17日)
〇湯川秀樹博士ノーベル物理学賞を受賞(11月3日)
《この世の中で、女が、どんなふうに扱われているか、女のよろこびと、何よりも、女のかずかずの不幸が、どこから来るのか、それを考えてみてください。/それを考えることは、女の暮らし方を考えることです。あなたのお母さん、あなたのおばあさん、そのまたずっとまえの女のひとたちが、どのように生きて来たかを、ひとごととしてではなく、あなたの体の中を流れている血の歴史として、考えてみることです。/女は、解放されたでしょうか。ノンとこたえるところから、今日からの女の暮しの歴史が、書きはじめられるのです。/そして、着ものといい、身の装いといい、女の暮し方から離れては考えられないことを、しっかりとあなた自身がしった時、美しく着るという、その、ほんとうの美しさとは何か、ということを、あなたは、ハッキリと見るでしょう。》(花森「若いひとに」 『それいゆ』1949.6)
1950年
(昭和25)
 39歳 ・この年、川崎市井田から大田区調布鵜の木町に転居。
・1月、戸板康二『歌舞伎への招待』を刊行。
・2月、『すまいの手帖』(『美しい暮しの手帖』別冊)を発行。
・4月、『美しい暮しの手帖』本誌で初となるプロセスつき料理記事「誰にでも必ず出来るホットケーキ」(7号)
・10月、『美しい部屋の手帖』(『美しい暮しの手帖』別冊)を発行。
・12月9日~15日、日本橋・三越で「暮しの手帖」展を開催。

・「ミイちゃんハアちゃん論」(『文芸春秋』1月)
・「中原淳一を語る」(『婦人公論』4月)
・「ユートピア国の服」(『読売評論』4月)
・「経済的なおしゃれ」(『酪農学校』5月)
・「お店で着る服」(『商店界』5月)
・「紙屑の如き『宝石』」(『日本読書新聞』7月5日)
『服飾の読本』(衣裳研究所 7月)
・「セビロ大学」(+飯沢匡)(『文芸春秋 増刊』10月)
・「エチケットの戒め」(『文芸春秋 増刊』12月)

〇朝鮮戦争勃発(6月25日)
〇警察予備隊令公布(8月10日)
〇レッドパージ方針閣議決定(9月1日)
〇旧軍人初の追放解除(3250名)(11月10日)
 
《父が定職につき、我家の経済状態も安定したのか、二十五年に東京都民となった。父は益々多忙、私も自分のことで忙しくなり、母の相手が出来なくなると、母は洋裁や料理を習ったり、友人達と旅行に行ったりなど、自分の楽しみをみつけていた。/両親の世代では、当たり前のことだったと思うが、母は父に絶対服従で、外での怒りを家に持ち込み、理不尽なことで怒られても、逆らうことはせず、ひたすら嵐の過ぎ去るのを待つという姿勢だった。はがゆがる私に、こういう時に何か云っても、火に油を注ぐようなものだからと申すのが常だった。/父が封建的なワンマンというだけの夫なら、母も辛抱出来なかったかもしれないが、怒りが治まり冷静になると、これは父もまずいと思うらしく、母に関係修復を計ろうとするので、許せていたのだと思う。母も我儘でお嬢様奥様という言葉がふさわしかったが、父の才能や仕事には全幅の信頼を寄せていた。》(土井藍生「〈あとがき〉 母、ももよのこと」 『花森安治戯文集2』LLPブックエンド 2011)
 
1951年
(昭和26)
 40歳 ・5月、『思いつき工夫の手帖』(『美しい暮しの手帖』臨時増刊)を発行。
・6月、『美しい暮しの手帖』12号に「流行を批判する」。季節ごとに海外から入ってくる流行を無批判に真似することへの問題提起。
・7月、『続すまいの手帖』(『美しい暮しの手帖』別冊)を発行。
・7月、花森安治『流行の手帖』刊行。
・8月、『古今東西帖』(『美しい暮しの手帖』増刊)を発行。
・8月より 『ぬりえ』、『ぬりえ練習帖』のシリーズを順次刊行。鈴木信太郎、宮本三郎、三岸節子らが参加。
・12月、開局したラジオ東京(現、TBSラジオ)で、週1回のトーク番組「風俗時評」を始める。

・「ハコと中味」(『放送文化』2月)
・「ファン読本」(『スクリーン』2月)
・「流行と『かくれみの』」(『朝日新聞』2月16日)
・「〈座談会〉国会議員を裏から見れば」(花森、自由党控室給仕ほか)(『日本評論』3月)
・「胃病と音楽」(『音楽之友』4月)
・「銀座八丁」(『芸術新潮』5月)
・「〈座談会〉一等旅客を裏からみれば」(花森、東京鉄道局ボーイほか)(『日本評論』5月)
・「映画ファン分類学」(『スクリーン』6月)
・「〈座談会〉日本の生活を𠮟る」(花森、横山泰三、坂口安吾)(『オール読物』7月)
『流行の手帖』(暮しの手帖社 7月)
・「カラカイの精神」(『文芸春秋』8月)
・「占領は日本に何を齎したか―風俗」(『中央公論』10月)
・「売国奇談―大人の紙芝居」(『オール読物』10月)
・「講和の秋のスタイル―美貌訓」(『オール読物』11月)
・「淑女ならびに紳士諸君よ」(『スクリーン』11月)
・「大阪紳士風景」(『大阪弁』 清文堂)

〇児童憲章制定(5月5日)
〇民間ラジオ放送始まる(9月1日)
〇サンフランシスコ平和条約・日米安全保障条約調印(9月8日)
    
1952年
(昭和27)
 41歳 ・2月、『山のあなたの空とおく 主婦の綴り方』(『美しい暮しの手帖』増刊)を発行。
・5月、『思いつき工夫の手帖 第2集』(『美しい暮しの手帖』増刊)を発行。
・5月、田宮虎彦『足摺岬』を暮しの手帖社から発行。
・5月、中村汀女主宰句誌『風花』の表紙(題字も)を描く。以降、毎年1月号に新しい表紙画を寄せる。
・6月、『美しい暮しの手帖』16号に「カレー料理  料理店にまけないカレーライス」。志賀直哉はこの記事のカレーを気に入り、この雑誌は役に立つ、と会う人ごとに宣伝したという。
・6月10~22日、日本橋・三越で「暮しの手帖」展を開催。
・10月、『自分で作れる家具』(『美しい暮しの手帖』別冊)を発行。
・12月6日~14日、大阪高麗橋・三越で関西初の「暮しの手帖展」を開催。


・「まず、まとまれ」(『図書新聞』1月1日)
・「<談話>現代風俗を斬る」(『美容画報』1月)
・「ファッションショウの外にあるもの」(『装苑』1月)
・「黒い靴」(『装苑』2月)
・「つけすぎるアクセサリ」(『装苑』3月)
・「なつかしきよき日よ」(『明窓』3月)
・「眠間放送  私のページ」(『週刊サンケイ』4月6日)
・「暮しの眼鏡」(『小説新潮』4月~12月 9回)
・「借着の日本」(『毎日新聞』4月28日)
・「疲れているデザイン」(『装苑』5月)
・「日本人のパリ熱」(『芸術新潮』5月)
・「色のない暮し」(『アトリエ』5月)
・「宣伝放談」(『宣伝』6月)
・「誰のためのバッグか」(『装苑』6月)
・「私の好きなレコード」(『婦人公論』6月)
・「ドリトル先生という人」(『図書新聞』6月2日)
・「本作り」(『芸術新潮』6月)
・「デザインは芸術ではない」(『装苑』7月)
・「街で見た夏の服装」(『装苑」8月)
・「ぎゃふん集」(『文芸春秋 増刊』8月)
・「映画広告作法入門」(『スクリーン』9月)
・「紳士のサル真似をわらう」(『装苑』9月)
・「サラリー・ガール十戒」(『オール読物』9月)
・「ビニール・バッグ賛成」(『装苑』10月)
・「レディーメイド倫理」(『週刊サンケイ』10月26日)
・「流行は受取るものか」(『装苑』10)
・「〈座談会〉題名のない座談会」(『オール読物』10月)
・「千円札の文化的使用法」(『芸術新潮』11月)
・「紳士栽培法」(『話』11月)
・「東京昨今」(『朝日新聞』11月4日~53年3月1日 5回)
 ≪「土橋附近」11.4/「自由が丘広場」11.15/「大井三つ叉通り」12.2≫
・「大阪の節季てなもんやないか」(『週刊朝日』12月28日)
・「<講演筆記>最近の服装について」(『女性教養』12月)
・「この本を読む人のために」(E.ギル『衣裳論』 創元社)

〇サンフランシスコ平条約・日米安全保障条約発効(4月28日)
〇血のメーデー事件(5月1日)
〇破壊活動防止法公布(7月21日)
〇警察予備隊を保安隊に改組(10月15日)

〇米、エニウェトク環礁で初の水爆実験(11月1日)  
《自分では、活字が好きで好きで、その意味では、田宮の「足摺岬」の目次と、菊池さんの「英吉利乙女」の表紙の手彩色が、少しばかり気に入っている。》(花森「本づくり」 『芸術新潮』1952.7)

《ことわっておくが、暮しに役立つ、などというと、なにかヌカミソくさい、いわゆる実用一点ばかり、と考える手合が多いが、そういう考え方のなかには、暮しというものを、アタマから、ミミッチイものと、きめてかかっているところがある。暮しに役立つ、ということは、衣服なら衣服が、その人の暮しを、もっと充実させ、高める、ということである。ただ、その日その日何んとか間に合えばいいというものではないのである。/暮しを離れて、なにか別に、ふわふわしたもの、たとえば、芸術みたいなものがあると考えたり、えらく深刻ぶって、つまり芸術家ぶって、デザインしたりするのが、昨今の流行らしいが、だからこれは喜劇である。》(花森「デザインは芸術ではない」(『装苑』1952.7)

《(…)ここに、服装と人間と、その人間のいとなむ暮しとの微妙なつながりがあるのではないか。/季節なら季節に抵抗して生きていくためには、生きていることに、激しい自信と意欲がなければ、かなわぬことである。人間が美しく見えるのは、そういう激しい自信と意欲が、顔にも体にもみちみちている場合である。》(花森「街で見た夏の服装」 『装苑』1952.8)

《独立だ自主性だとわめいてみたところで、実は心の隅に、こういうサル真似根性が、いまだに巣くっているのである。(…)/独立だ何だというと、すぐに羽織ハカマを考えようとする。アサハカなことである。そういうのが、「日本的」だと思いこんでしまうのである。/ほんとうに日本的というのは、夏の男の服装なら、この暑い気候に適ったものを着るということである。五月に合う服装を、七月八月にガマンして着ることをやめる、それが日本的ということである。それがまた真の紳士というものである。》(花森「紳士のサル真似をわらう」(『装苑』1952.9)
1953年
(昭和28)
 42歳 ・港区東麻布に土地を求め、撮影スタジオ兼実験室となる「暮しの手帖研究室」を設立。社屋の設計図は花森が描いた。
・1月5日、NHK第二放送で「社会時評・おかめ八目」ラジオ放送開始。花森は扇谷正造、池島信平とともに出演。
・4月、花森安治『暮しの眼鏡』『風俗時評』刊行。
・6月より、森茉莉が妹・小堀杏奴の紹介により半年間ほど、暮しの手帖社編集部で働く。
・6月18日~29日、札幌・三越で「暮しの手帖展」を開催。
・12月、『美しい暮しの手帖』を『暮しの手帖』に誌名変更(22号より)。
・12月、『暮しの手帖』22号に「歯ならびについて 診療室での会話」。医師との会話形式の医学記事の掲載を始める。のちに『からだの読本』にまとめる。

・「<対談>たぬき問答 5」(花森、大石ヨシエ)(『毎日新聞』1月6日)
・「『モハン』的な解決」(『オール読物』1月)
・「テーブルスピーチのこつ」(『文芸春秋』1月)
・「映画と衣裳」(『映画評論』1月)
・「私が大臣なら 建設大臣」(『朝日新聞』1月8日)
・「東京昨今」(『朝日新聞』52月4日~53年3月1日 5回)
 ≪「時速70キロ」2.11/「関東電車商人」3.1)≫
・「映画鑑賞の副作用的症状について」(『スクリーン』2月)
・「芸術大学参観記」(『芸術新潮』3月)
・「大学一日入学記 日本女子大学」(『週刊朝日』6月14日)
・「サルまねのすすめ」(『改造』4月)
『暮しの眼鏡』(創元社 4月)
『風俗時評』(家庭文庫シリーズ 東洋経済新報社 4月)
・「アホらしき『名画』」(『スクリーン』5月)
・「当る理由の究明を」(『週刊サンケイ』5月24日)
・「〈対談〉徳川夢声連続対談 問答有用」(花森、徳川)(『週刊朝日』5月10日)
・「教祖芸術」(『芸術新潮』6月)
・「人工流行」(『群像』6月)
・「一つのこと 風花5周年大会記」(談)(『風花』6月)
・「僕の雑記帳」(『小説新潮』7月)
・「女性家畜説」(『小説公園』7月)
・「七月の運勢」(『文芸春秋』7月)
・「ボクとオヤジと活動写真」(『スクリーン』8月)
・「無茶苦茶の茶」(『文芸春秋 増刊』9月)
・「一日一善」(『文芸春秋』9月)
・「職人仕事」(『図書』10月)
・「〈対談〉暮しと芸術」(花森、勅使川原蒼風)(『婦人公論』10月)
・「トンチンカンなこと」(『オール読物』11月)
・「女のズボン」(『文芸春秋』12月)
・「はじめて見た国会」(『週刊朝日 新春増刊』12月)
・「現代衣裳哲学」(『自由国民』55号)
・『家中みんなの下着』(暮しの手帖社)

〇NHKテレビ本放送開始(2月1日)  
〇ソ連、「初の」水爆実験(8月12日)
〇民間テレビ放送開始(8月28日)
〇池田・ロバートソン会談開始(10月2日)
〇スーパーマーケット登場(11月、東京・青山 紀ノ国屋)

〇国産初の噴流式洗濯機(三洋電気)登場
《この社会にはいろいろな階級があるというのは、勿論これは誰もご存じのことですけれども、自分は帝大を出たとか、自分は一中、一高、東大という出世コースを辿ったのであるとか、自分は学習院であるとか、自分は慶応であるとか、そういうような、一つの意識を死ぬまで鼻の先にぶら下げて生活をしているということは、(その人がどう考えて生活をしようと、それはボクの知ったことではありませんが)困るのは、そういう人たちには、この世の中をリードする立場や地位にいる人が多いということなのです。その人たちは、個人としては、どうお考えになろうと結構ですけれども、その人の考え方が、国全体をそれだけ歪めているのではないかと思います。(…)/とにかく自分は人と違った階級に属するものであるという気持ほど、いまの日本に要らない、邪魔になる、一番困ったものはないと思います。自分は日本人の一人である、自分は人間の一人であるという気持が、今は一番大事なので、(…)》(花森「大学生の記章」 ラジオ東京・現TBSラジオ「風俗時評」1953.1.30)

《『風俗時評』は、(…)「あとがき」にあるように、当時、花森安治はラジオ東京で週一回、同じタイトルの「風俗時評」というトーク番組をもっていた。その「最近の四ヶ月ほど分」の速記を「どもったり、言いそこなったところだけ、チョイト直して」まとめたものが、この小さな本になったのだとか。》(津野海太郎「〈解説〉『風俗時評』について」 『花森安治戯文集2』LLPブックエンド 2011) 
1954年
(昭和29)
 43歳 ・3月、『暮しの手帖』23号に「山村の水車小屋で ある未亡人の暮し」。連載「ある日本人の暮し」を開始。
・5月、花森安治『逆立ちの世の中』刊行。
・9月、『暮しの手帖』25号に「エプロンメモ」。暮しのちょっとした思いつきを集めたもの。以後連載。
・9月、同じ号に「KITCHEN キッチンの研究」。10回連載の予定で始まる。
・10月、『暮しの手帖』26号に「日用品のテスト報告その1 ソックス」。『暮しの手帖』発行部数30万部達成を機に商品テストの企画を開始。
・12月、『暮しの手帖』27号に「日用品のテスト報告その2 マッチ」。

・「ふだん着について」(『装苑』1月)
・「飛行機と電話」(『風花』1月)
・「芸術祭おやめなさい」(『芸術新潮』1月)
・「日本拝見 その10 東京 郊外」(『週刊朝日』1月3日)
・「日本拝見 その12 札幌」(『週刊朝日』1月17日)
・「私の文芸時評  電車の中でだまされる話」(『読売新聞』1月28日)
・「ケナゲな猿真似―少女歌手をほめる」(『芸術新潮』2月)
・「服装時評」(『女性教養』3月)
・「日本拝見 その19 尼崎」(『週刊朝日』3月7日)
・「日本拝見 その21 松江」(『週刊朝日』3月21日)
・「日本のアンデパンダン」(『芸術新潮』4月)
・「女だけの政治」(『婦人公論』4月)
・「挿画というゲエジツ」(『芸術新潮』5月)
・「男性に関する十二章 服装/日本拝見 その28 芦屋」(『週刊朝日』5月9日)
・「なんにもしないで」(『週刊朝日』5月30日)
『逆立ちの世の中』(河出新書 河出書房 5月)
・「映画という商品―『地獄門』について」(『芸術新潮』6月)
・「きのうきょう」(『朝日新聞』6月6日~11月28日 25回)
 ≪「あたりまえの話」6.6/「お化け退治」6.13/「ブラウスのしみ」6.13/「『外人のくせに』」7.4/「先生のおしゃれ」6.20/「ムダぜに使い」7.18/「待ちくたびれる」7.25/「血迷い給うことなかれ」8.1/「母の英雄」8.8/「暴言のホンヤク」8.15/「アキレタ夫婦美談」8.22/「電気トースター」8.29/「女の政党」9.5/「通じない日本語」9.12/「ケイベツされた職人」9.19/「外国のエラクナイ人」9.26/「『私情』」10.3/「明日はわが身」10.10/「朝の駅で」10.17/「イニシャル趣味」10.24/「眼の高さ」10.31/「暮らしの伴奏」11.7/「三つの悪」11.14/「官邸は貸席か」11.21/「フライパンと洋服」11.28≫
・「付・悩み多き女性生活」(『週刊朝日』6月6日)
・「映画という商品」(『芸術新潮』6月)
・「グラビア カメラ自叙伝」(『週刊サンケイ』6月20日)
・「日本拝見 その35 和歌山」(『週刊朝日』6月27日)
・「〈座談会〉私設日本芸術院」(花森、伊藤整、徳川夢声、横山泰三)(『芸術新潮』7月)
・「〈座談会〉民芸」(花森、棟方志功、福田豊四郎、剣持勇)(『芸術新潮』8月)
・「まあえんとせんかい(今日の世相)」(『世界』8月)
・「日本拝見 その41 浦和」(『週刊朝日』8月8日)
・「日本拝見 その45 彦根」(『週刊朝日』9月5日)
・「花森安治氏に対する12の質問」(『装苑』10月)
・「へんな世の中」(『週刊読売』11月7日~55年新春特別増大号 7回)
・「日本拝見 その56 彦根」(『週刊朝日』11月21日) *彦根?
・「漫画以上のもの 漫画家諸君の奮起を望む」(『文芸春秋臨時増刊 漫画読本』12月)
・「花森氏、特売場を行く」(『週刊朝日』12月12日)
・「日本拝見 その60 下関」(『週刊朝日』12月19日)

〇憲法擁護国民連合結成 議長 片山哲(1月15日)
〇ビキニ水爆実験で第五福竜丸乗組員、久保山愛吉ら23名が被災(3月1日)
 半年後、久保山愛吉死去(9月23日)
〇自由党憲法調査会発足 会長 岸信介(3月12日)
〇自衛隊法公布(6月9日)
〇防衛庁・陸海空自衛隊発足(7月1日)
〇自由党憲法調査会「日本国憲法改正案要綱」を発表(11月5日)
 
《花森は一九五〇年に『服飾の読本』、五十一年に『流行の手帖』、そして五十三年には『暮しの眼鏡』『風俗時評』と、四冊の本を、当時の出版事情からすれば「たてつづけに」といっていいくらいの勢いでだしていた。ところが、それにつづく本書[『逆立ちの世の中』]がでたあと、自著の刊行をピタリとやめてしまう。そして、つぎにでたのがなんと十八年後、それが一九七一年に暮しの手帖社から刊行された『一銭五厘の旗』です。(…)結果として見ると、これが花森安治の最後の本ということになった。/では花森はなぜこの時期に、とつぜん、じぶんの本をだすのをやめたのだろうか。/いや、本だけじゃないな。じぶんの雑誌をのぞいて、ほかの新聞や雑誌に書くことさえやめてしまった。もちろんインタビューなどの取材もうけない。話好きだから親しい人たちとの対談や座談会に顔をだすていどのことはしばらくやっていますが、そこからも徐々に撤退して、発言の場を『暮しの手帖』にかぎってしまう。だからまあ砦ですね。それ以降、一九七八年に急逝するまで『暮しの手帖』という手づくりの「紙の砦」に頑固に立てこもりつづけた。》(津野海太郎「〈解説〉『逆立ちの世の中』について」 『花森安治戯文集1』 LLPブックエンド 2011)

《世間の目を顧慮せず、やりたいことだけを徹底的にやる。じぶんのスタイルで行きたいように生きる。そんなかれの気性からして、新聞にせよ雑誌にせよ、できあいの商業ジャーナリズムにすがって生きるしかない物書きというなりわいが、この時期、ほとほとイヤになっていたんじゃないですか。その証拠に、本書[『逆立ちの世の中』]には、そうしたかれの心境を戯文めかして吐露している箇所がいくつか見つかります。/(…)この本をさらに読みすすめていくと、かれの偽文めかした心情吐露の背後に、もうひとまわり大きなところで、この時期、しだいにめだちはじめた戦後社会の急旋回という風潮へのつよい違和感があったらしいことがわかってくる。急旋回、つまり当時の流行語でいう「逆コース」です。》(津野海太郎「〈解説〉『逆立ちの世の中』について」 『花森安治戯文集1』 LLPブックエンド 2011)

《首相は「国民の政治にたいする信用を取りもどす処置をとりたい」といったそうだが、もし本気でそう考えたのなら、これは大出来、ボクら国民が「政治を信用しなくなるように仕向けた」根本の責任をとって、いますぐおやめなさい。それ以上に「あたりまえ」の処置はない。そして選挙管理内閣の手で衆議院を解散して、ボクら、こんどこそ、もうすこし「あたりまえ」の議員をえらびなおす、そのチャンスを大急ぎで作ってほしい。》(花森「あたりまえの話」 『朝日新聞』 〈きのうきょう〉1954.6.6)

《「伝統」という声がかかると、トタンにウヘッとなる根性が、どうやらお互いのアタマに巣くっているようだ。「伝統」は守らねばならぬ、ときめて、疑いもせぬ根性である。しかし、伝統が、十が十、みんな守るに足る立派なものなら、いまの日本など、とっくに立派すぎて、額に入れて飾りたいほどの国になっているはずだ。ミソもクソも、一しょくたに、「伝統」だから守る、なんてこんなバカげた話はない。/そのミソとクソをよりわけよう、なんてシタリ顔も、実は邪魔だ。ぶっこわしても、ふみにじっても、ほんとに、この国この国民に必要な伝統なら、形こそ変れ、その心は立派に生かされて、新しい時代に必ず芽生えてくる。》(花森「お化け退治」 『朝日新聞』 〈きのうきょう〉1954.6.13)

《久保山[愛吉]さんが、とうとうなくなった。アメリカ人は、これを、どう考えているのだろう。たぶん大ていは、なんにも知らないし、新聞の小さな記事をたまたま読んでも、自分たちと何の関係もないよぐらいで、気にもとめないにちがいない。/◇しかし、エライ人ではダメだが、アメリカのサラリーマンや、お百姓や、裏長屋のおかみさんにひとりずつ会って、説明して、ヒトゴトではないのだとよく言ったら、その人たちは、みんなどういうだろう。それを何とかして聞くてだてはないものだろうか。》(花森「外国のエラクナイ人」 『朝日新聞』 〈きのうきょう〉1954.9.26)

《何に限らず、いつでも若い人たちが、まずとりいれ、はじめは、いやだねえ、などといっていたおばあちゃんも、やがて、それになれてしまい、そして目に見えないようでいて、少しずつ、ボクたちの暮らしは、マトモな方へ歩いてきた。/◇政治みたいなものだけが、相も変らず、アタマの古い、ヨボヨボのおじいちゃんどもの、勝手気ままにされている。世のじいさまも愚劣だが、若いもんも、トンと意気地がなさすぎる。》(花森「フライパンと洋服」 『朝日新聞』 〈きのうきょう〉1954.11.28)

《また「修身」を復活しようとしているらしい。どうせ、世の中の、このへんな組立て方のほうはそのままにしておいて、言葉だけが「親に孝行、君に忠」とならんで「うそをつくな、うそをつくな」と、日本中の空をかけめぐらせようというコンタンにちがいあるまい。「うそをつくな」ということが、何よりの「うそ」である国のことだ。そんな手間ヒマかけるよりも、どこか、首相官邸か、文部省の屋上に、テレビ塔よりまだ高い、ネオン塔でもたてて、「うそをつくな」「うそをつくな」と点滅させる仕掛けにしたらよかろう。》(花森「うそつくな」 『週刊読売』1954.11.21)

《独立国というのは、なにもハチ巻しめて日の丸かついで、君が代を歌うことではあるまい。独立国とは、タダでヒトにものをもらう、コジキ根性をさっぱりとすてることだろう。》(花森「ドルのもらい方」 『週刊読売』1954.11.28)

《一般に生活というと暮しに役立つもの、流行というものは、それと全然逆だと考えているというところが問題だと思う。そのわけは生活のほうは「用」であって流行は美だという考えがあるんだね。生活は「用」のほかに美はないということです。本来は「用」だけが美なんです。「用」以外に美があると思うのが間違いで、そのために流行につられるわけです。》(<聞き書き>花森「花森氏に対する12の質問」 『装苑』1954.10)
1955年
(昭和30)
 44歳 ・2月、花森の着想をもとに執筆された石垣綾子「主婦という第二職業論」(『婦人公論』2月)が、主婦の職場進出の是非をめぐる「第1次主婦論争」の口火を切る。
・7月、『暮しの手帖』30号に「夏のふだん着はショートパンツで」。日本の暑い夏には、無理にスラックスを穿かなくても、ふだん着ならショートパンツが快適であるという提案。
・9月、『暮しの手帖』31号に「しょうゆをテストする」

・「デザイナー第一課」(『装苑』1月)
・「〈座談会〉岡目八目紙上版―あれやこれやの巻」(花森、扇谷正造、池島信平)(『小説公論』1月)
・「各党総裁のお台所拝見」(『週刊朝日』1月16日~30日 3回) ≪「左派社会党の巻」1.16/「右派社会党の巻」1.23/「民主党の巻」1.30≫
・「日本拝見 その65 千葉」(『週刊朝日』1月23日)
・「『おしゃれ』と『身だしなみ』」(『装苑』3月)
・「広告の文章」(『日本語様々』 筑摩書房)
・「いい奴だなあ」(田宮虎彦『随筆たずねびと』カバー袖 光文社)


〇国民文化会議発足(7月17日)
〇砂川町の強制測量開始、労組・学生と警官が正面衝突(9月13日)
〇左・右社会党統一(10月13日)
〇保守合同、自由民主党結成(11月15日)
〇自動炊飯器(東芝)登場
〇神武景気始まる 
 
《花森は、商品テストの狙いをこう記しています。「なにもかしこい消費者でなくても、店にならんでいるものが、ちゃんとした品質と性能をもっているものばかりなら、あとは、じぶんのふところや趣味と相談して、買うか買わないかを決めればよいのである。そんなふうに世の中がなるために、そのために〈商品テスト〉はあるのである」/メーカーは、改良できることも、消費者が気づかなければやろうとしない。批評のないところに進歩はない、と考えた花森は、企業の実名をあげて厳しい批評を始めました。企業に何を言われても真実を貫き通さねばなりません。ところが、誌面に広告を入れて広告料を受け取ると、圧力がかかり、真実がゆがめられる恐れが出てきます。それが『暮しの手帖』が広告を載せない理由のひとつでした。/花森は数多くの商品のなかからテストすべきものを選ぶルールを作ります。第一に、どんな人にとっても毎日の暮らしに欠くことができないもの。たとえば、しょう油や石けん、靴下などです。第二に、それがあるとずいぶん便利になり、快適な暮らしができるというもの。たとえば、洗濯機や冷蔵庫、掃除機などです。/一貫して取り上げなかったのは、暮らしには必ずしも必要ではないレジャー用品や、自動車などの高額すぎるもの。そういうものまで手が回らない、というのも現実でした。》(編者『「暮しの手帖」初代編集長 花森安治』 暮しの手帖社 2016.7)

《河津 花森の最初の心づもりでは、表紙から最後のページまで自分の美意識をこめて編集しているのに、そこに他人が作った商売気たっぷりの広告が土足で入りこんでくるような誌面を共存させたくないということに尽きる。/(…)広告を入れると商品の正しい批評や紹介がやりにくくなるので、一切広告を載せないことが方針になったわけです。》(河津一哉+北村正之+小田『「暮しの手帖」と花森安治の素顔』 論創社 2016.10)    
1956年
(昭和31)
 45歳 ・2月、『暮しの手帖』33号に「おそうざい十二ヵ月」。小島信平による家庭料理の連載を開始。
・2月、「婦人家庭雑誌に新しき形式を生み出した努力」に対して、花森安治と『暮しの手帖』編集部が第4回菊池寛賞。浦松佐美太郎「誠実な『型破り』」が「受賞者寸評」として『文芸春秋』(4月号)に掲載される。

・この年から刊行が始まる『世界推理小説全集』全80巻(東京創元社)の装釘を担当。

・「日本の断面9 味の素」(『週刊朝日』2月26日)
「〈対談〉〝らしさ〟排撃論」(花森、鶴見和子)(『婦人公論』3月)
・「戦塵にまみれし頃」(『特集文芸春秋 赤紙一枚で』4月)
・「〈座談会〉男女共存のすすめ―言論休戦会談」(花森、中屋健一、福島慶子、高峰秀子)(『文芸春秋』4月)
・「衣裳読本」(『週刊朝日』4月29日~6月10日 7回)
・「〈座談会〉雑談空手道場 第1回」(花森、大宅壮一、中野好夫)(『中央公論』4月)
・「〈座談会〉民主主義の倦怠期―雑談空手道場 第2回」(同前)(『中央公論』5月)
・「〈座談会〉ブームのブーム―雑談空手道場 第3回」(同前)(『中央公論』6月)
・「ばかにしなさんな」(『国民』8月)
・「新聞にのぞむ」(『朝日新聞』10月2日)
・「〈座談会〉映画は撮影所を飛び出した―短篇映画・前衛映画・小型シネの近作より」(花森、飯沢匡、横山隆一、羽仁進)(『芸術新潮』10月)
・「〈座談会〉読書の秋というけれど……」(花森、布川角左衛門、相島敏夫、篠原敏之)(『文芸春秋』10月)
・「〈座談会〉新らしい読者層を開拓した東京創元社版『世界推理小説全集』」(花森、戸板康二ほか)(『出版ダイジェスト』214号)
・「世界最初の衣裳美学」(『私の卒業論文』 同文館 12月)


〇原子力委員会発足(1月1日)
〇経済白書、「もはや戦後ではない」と規定(7月17日)
〇砂川町第2次強制測量開始(10月4日~14日)
〇ハンガリー事件(10月23日)
〇国連総会、日本の国連加盟を可決(12月18日)
〇この頃より、電気洗濯機、冷蔵庫、テレビが“三種の神器”
《日本人の「暮し=暗さ」が払拭されるためには、文字通り、薄暗かった台所を煌々と照らす「あかり」が必要だった。その「あかり」を確保するために、僕らは一九五〇年代なかば、急激に「原子力の平和利用」へと舵を切ってしまった。/原子力発電における文字通りの核となる原子炉の開発については、当初より、その技術は国内の科学者の手でいちから開発すべきとする立場が湯川秀樹らによって唱えられていた。が、原子力には膨大な金が動く。すでに既成の原子炉を生産していた戦勝国が、敗戦国での需要を見逃すはずがない。戦後、日本の企業が飛行機の生産を許されず、いまだボーイング社など一握りの戦勝国の企業から「既製品」として購入するしかないように、原子炉もまた、国内の科学者たちの意見を反故にすることで、出来合いの商品をアメリカから「買い物する」道を、政治や財界を通じて選ばされたのであった。/(…)商用原子炉は依然として、国内の科学者や技術者にとっても謎に満ちた、不気味なブラック・ボックスであり続けている。/少々脱線してしまったように読めるだろうか。しかし、僕には原子力の問題は、「暮し」の側から戦後を討った花森安治の思想について考える上で、けっしてはずせない視点であるように思う。ましてや、人々の生活が根底から危機にさらされ、生死にかかわる次元がふたたび顔を見せ始めているいま、僕らの生活を、いかにして「暮し」として回復できるかについて考えるのは、必須のテーマであろう。そして、どんなに立派なお題目を唱えても、しょせん原発が単なる「湯沸かし器」であることを、僕らは忘れるべきではない。/国内の原子力発電所に(…)「ストレス・テスト」(…)もし、天上界の花森がこれを知ったら、どう思うだろうか。》(椹木野衣「たたかえ暮しの〝手〟帖」 『花森安治  美しい「暮し」の創始者』 河出書房新社 2011.12)   
1957年
(昭和32)
 46歳 ・2月、『暮しの手帖』38号に1号からの項目別総目次掲載。この号から発行部数50万部を越える。
・7月、『暮しの手帖』40号に「主婦はどれだけ働いているか」。サラリーマン家庭1169世帯の暮らし方を調査。共稼ぎが増え、専業主婦は自由時間が増えたりと、急激に変わりつつある主婦の暮らしを浮き彫りにした。
・この頃、「シネマ57」(勅使河原蒼風、羽仁進、松山善三、荻昌弘ら8名による芸術実験映画グループ)の主催で「花森映画鑑賞会」が開かれる。
・この頃、日本橋・三越でアルバム展を開催。花森安治による表紙デザインのアルバムを展示即売する。

・「祝辞 風花十周年大会記」(談)(『風花』5月)
・〈対談〉「花森安治連載対談『中近東の旅』」(花森、藤山愛一郎)(『芸術新潮』5月)
・「きのうきょう」(『朝日新聞』7月4日~12月26日 25回)
 ≪「首相の作文」7.4/「イワシとクジラ」7.11/「見ていられない」7.18/「場末の小商人」7.25/「ふしぎな百貨店」8.1/「電気器具を買うコツ」8.8/「上着をつけなさい」8.15/「カン詰とカン切り」8.22/「ミス・ボーテボテ」8.29/「女だけの政治」9.5/「ランニング弁当」9.12/「ワッショイ騒ぎ」9.19/「大学」9.26/「40ページで7円の雑誌」10.3/「カゼ」10.10/「人気を作る法」10.17/「専売公社の商才」10.24/「銀行家の商売知らず」10.31/「ケンカのタネ」11.7/「商品の推薦」11.21/「タダの絵本」11.28/「忙しくはない」12.5/「ふところ手」12.12/「あわれ亭主」12.19/「くちゃね正月」12.26≫
・「コーヒーのふしぎ」(『文芸春秋』11月)

〇売春防止法制施行(4月1日)
〇(英)クリスマス島で最初の水爆実験(5月15日)
〇岸首相、訪米に出発(6月16日) 日米新時代強調の声明を発表(6月21日)
〇パグウォッシュ会議開く(7月6日) 核兵器の脅威と科学者の社会的責任に関する声明発表(7月11日)
〇憲法調査会、社会党不参加のまま発足(8月13日)
〇文部省、勤務評定実施を通達(8月13日)

  
《岸さん[首相]に、一つ忠告したいことがある。(…)読み上げる文章といい、読むあなたの顔や声といい、傍についている官房長官の、さも神妙げな様子といい、およそ「紋切型」の濃縮ジュースみたいなものだ。◇ことに、文章がなってない。一体だれが作っているのかしらないが、当節では、中学生だって、もうすこしマシな文章を書く。第一やたらに「私が」「私は」とならべたてるのは、いったいどういう神経だろう。(…)そんな神経だから、中身もチンプンカンプン、「不肖今回はからずも左様しからばごめん」式で、なんのことやら、さっぱりわからない。/◇(…)国民にものを言うときは、もっと血の通った「ふだんの言葉」を使うことだ。その上で気に入れば人気も出るだろう。もっとも、顔をみせると、トタンにソッポを向かれる心配もありそうですがね。(花森「首相の作文」 『朝日新聞』 〈きのうきょう〉1957.7.4)

《ケンカをしたくなる気持は、よくわかる。だから、やるなというつもりはすこしもない。しかし、ケンカには、やり方というものがあるはずだ。憎い、口惜しいのあまり、ながい間苦労してやっと買った品物まで、投げてこわしてしまうのは、ヒステリーで逆上した夫婦ゲンカのやることだ。そんなマネをして一番困るのはだれだとおもう。(…)/◇ぼくたちだって「権力」や「独占資本」は大きらいだ。そのぼくたちの大きらいなものに、もう一つ「組合」をつけ加えなければならないような、アタマのわるいケンカの仕方だけは、どうか、たのむからやめてくれ。》(花森「見ていられない」 『朝日新聞』 〈きのうきょう〉1957.7.18)

《原水爆実験反対は、日本人みんなの心の底にたぎっている祈りであり、ねがいであろう。その気持をあらわすとすれば、ワッショイは見当外れである。歌もなく、旗もなく、くちびるをかみ、まなざしを上げて、整然とゆるがぬ隊列をくんで、大きく反対のプラカードを先頭に、行進してゆく。ぼくたちのこの気持がもし世界を動かすとすれば、こんなふうな「無言にして痛烈なる抗議行進」の、のしかかるような迫力ではないか。》(花森「ワッショイ騒ぎ」 『朝日新聞』 〈きのうきょう〉1957.9.19)

《政治家なら「いい政治」をすることだ。そうすれば、作り笑いなどしなくたって、ひとりでに人気が出る。作り笑いや、振り手で「キシサアーン」と国民が黄色い声をしぼると考えているのなら、てんで、ぼくたちを甘くみて、なめていることになる。失敬千万です。》(花森「人気を作る法」 『朝日新聞』 〈きのうきょう〉1957.10.17)

《商品のよいわるい、をきめるには、もちろんテストしなければならない。この[主婦連の]運動では、メーカーの差し出した二個についてテストするらしいが、これが危い。万が一、テスト用には入念に作った「優秀品」を差し出し、実際にはそれより質のわるい品が市販されていたら、どうなるか。消費者として行う商品テストは、絶対に、町でいま売っているものを買ってきてやらねばいけない。》(花森「商品の推薦」 『朝日新聞』 〈きのうきょう〉1957.11.21)
1958年
(昭和33)
 47歳 ・4月、武田食品工業から発売の蜜柑汁入り飲料に「プラッシー」と命名。米屋で扱うことも提案。
・5月、『暮しの手帖』44号に「電気釜をテストする」。おいしさ、わずらわしさ、燃料代などを考慮し、「あってもよし、なくて一向差支えない」と結論する。なお、この号より表紙が写真に変わる。花森が画面を構成し、松本政利が撮影した。
・6月、「『暮しの手帖』の独創的な作り方」に対して、社長大橋鎮子に米ペアレンツ・マガジン社よりペアレンツ賞が贈られる。

・「〈座談会〉映画の未来」(花森、安部公房、羽仁進、碧川道夫)(『芸術新潮』1月)
・「〈対談〉本格もの不振の打開策について」(花森、江戸川乱歩)(『宝石』3月)
・「大阪の芸術祭・見本市拝見」(『週刊朝日』4月20日)
・「日本料理をたべない日本人」(『暮しの手帖』44号 5月)*
・「文部省改革案」(談)(『芸術新潮』7月)
・鮎川哲也の推理小説『薔薇荘殺人事件』に対する「解決編」(江戸川乱歩の企画による)(『宝石』8月)
・「逆アイデアの騎士」(藤本倫夫『アイデア時代』 オリオン社)

〇文部省、学習指導要領改正を発表(7月31日)
〇安保条約改定交渉開始(10月4日)
〇警職法改正案国会提出(10月8日)
〇岸首相、憲法第9条廃止の時と明言したとNBC放送で語り、問題となる(10月14日)
〇警職法改悪反対闘争(11月5日) 
 
《私などが入社[1957年]して間もなく安保闘争が始まる。だからどうしても編集会議では政治的、社会的問題をプランとして提出することになる。それだけ社会も昂揚していましたし、編集者だけでなく、読者も日常的な記事ばかりでは時代的にいって退屈だったからです。ところが『暮しの手帖』はそういう政治的、社会的問題を扱わない。それはNHKや『朝日新聞』や『世界』がやってくれるんだから、我々はやらないと、花森は公言していた。また常々も「我々がやるべきなのは国家のことでも政治のことでもない。住宅の隅っこ、便所の隅っこのゴミにはどんなものがあるのか、我々はそういう身近なことから始めるんだ」といっていた。》(河津一哉+北村正之+小田『「暮しの手帖」と花森安治の素顔』 論創社 2016.10) 
1959年
(昭和34)
 48歳 ・5月、『暮しの手帖』49号に「クレヨンとパスをテストする」。品質や耐久性のテストに加え、サブ特集として9人の画家が子ども用の画材の発色や描き心地をテスト。
・『暮しの手帖』の何年も前の内容が読者の役に立たなくなったという理由で、バックナンバーの絶版を告知。

・「大統領とナベカマ」(『朝日新聞』1月1日)
・『家中みんなの下着』(花森編)を再刊(『暮しの手帖社』8月)
・「重田なお」(『暮しの手帖』51号 9月)*

〇日本原子力学会創立(2月14日)
〇安保改定阻止国民会議結成(3月28日)
〇皇太子明仁親王と正田美智子の結婚式(4月10日)
〇安保問題研究会結成(7月7日)
〇マイカー時代到来
  
1960年
(昭和35)
49歳 ・5月、『暮しの手帖』54号にレインコートのテスト。13着の防水性をテスト。水の滲み具合を、毛布を敷いて横になり徹夜で観察。
・9月、『暮しの手帖』56号に「ベビーカーをテストする」。7種類をテスト、赤ん坊位の重さの人形を乗せて、麻布の研究室と高輪の消防署のあいだを毎日朝昼夕3往復。のべ100キロ歩く。夏期のため、冷水と救急箱を乗せた自転車が並走。警官から職務質問を受けたことも。

・12月、『暮しの手帖』57号に「石油ストーブをテストする」。国産6種に加えて外国製1種をテスト。唯一「すばらしい性能」と評価された英国アラジン社製「ブルー・フレーム」が爆発的に売れる。

・「手帖のアンパイヤー」(『あたらしいせんいの手帳』1月)
・「東京だより」(『朝日新聞 日曜版』4月24~10月30日 6回) ≪「デパート買い物案内」4.24/「きょう外出する人のために」5.22/「水上バス」7.17/「無名戦士の墓」8.14≫
・講演抄録と質疑応答(『本を読むお母さん』県立長野図書館)

〇新日米安保条約調印(1月19日)

〇政府与党、警官隊を導入し、衆院で新安保条約承認・会期延長を単独強行採決(5月19日)
〇全国の大学・研究機関の学者1500人、「民主主義を守る全国学者研究者の会」結成(6月2日)
〇安保阻止統一行動、全国で560万人参加(6月4日)
〇米大統領新聞係秘書ハガティー、羽田でデモ隊に包囲される(6月10日)
〇右翼、国会周辺でデモ隊を襲撃 全学連、国会内に入り女子学生樺美智子死亡(6月15日)
〇33万の国会包囲デモ 新安保条約自然成立(6月19日) 岸内閣総辞職(7月15日)
〇池田内閣、所得倍増・高度成長政策発表(9月6日)
〇浅沼社会党委員長、立会演説中に刺殺される(10月12日)
〇カラーテレビの本放送が始まる
 
《(…)/一万五千平方メートル(四千六百坪)のだだっぴろい敷地は、ざっと見わたしたところ、人っ子ひとり見えない。敷きつめた砂利の一つ一つまでが、きちんと真夏の午後の太陽の下でしいんとしずまりかえっていて、いちめんのセミしぐれである。どこもかしこも、やけに明るいのである。そして涼しい風が吹いていた。無名戦士の墓地である。

……兵隊たちは、ひとりのこらず、小判形のシンチュウ製の小さい札を持たされていた。両はしの穴にヒモを通して、肩からじかにはだかにかけていた。札には部隊記号とその兵隊の番号が乱暴にうちこんであった。(…)/戦死したとき、身元を確認するためのもので、「認識票」というのが正しい呼び名だったが、兵隊たちは、「靖国神社のキップ」と言っていた。(…)

……兵隊たちは、行軍で疲れて【歩きつかれて】くると、食べものの話と、家に帰る話をした。ここから日本へ帰るにはどうしたらよいかを、大まじめで研究した。いつもぶつかるのは海であった。陸地はなんとかたどってゆくことにしたが、朝鮮海峡までくると、それまで活気のあった会話が、いつでもポツンと切れた。だまりこんで疲れた足をひきずりながら、ああ帰りたいなあ【帰りたいな】、とおもった。/そんなとき、ひょっとハダの認識票がきになることがあった。「靖国神社直行」、【読点ナシ】日本へ帰るいちばんの早道にはちがいなかった。(…)

……(…)/外国には大てい無名戦士の墓があって、各国の元首や首相級の人物がその国を訪れると、必ずおまいりするのが儀礼である。まえの首相岸信介氏が外遊したときも、もちろんそうしてきたが、出かけるまえ、日本の無名戦士の墓にまいってくれとたのんだら、忙しいからと花束だけをとどけてよこした。(…)/きまったお祭りの日があるわけでもない。憲法記念日とおなじで、作ることは作ったが、作りっぱなしである。

…… (…)/兵隊は、みんな家に帰りたかった。そして帰ってきた者もある。帰ってこなかった者もある。/五年ほどまえの、押しつまった年の暮れ、千葉の稲毛にあった復員局の分室を訪れたことがある。荒れはてた構内の枯草のなかに、もとの部隊の弾薬庫があって、うすぐらい中に、天井までぎっしり遺骨がつまっていた。灯明に火が入ると、どの箱にも「無名」と書いてあった。全部で二千五百柱だと聞かされた。/みんな名前があったにちがいない。それが役場【役所】の戸籍も焼け、連隊区の兵籍簿もなくなってしまったのだろう。そして一目でも【一目で】いいから会いたかった家族も、死んでしまったのかもしれない。/シンチュウの認識票など、なんの役にも立ちはしなかったのだ。この兵隊たちは、靖国神社にさえ入れてもらえないのだ。名ナシノミコトは【では】、まつることができないのだそうだ。

……そのために、この無名戦士の墓を作ることになったのだが、そうときまってからも、なかなかできなかったのは、いろいろ裏があったということである。/一つは靖国神社の反対だったという。戦後、ここも単なる「宗教法人」になって、国からは一銭も出してはならぬということになった。それなのに、無名戦士の墓に何千万という金を出すとは何事であるか、ということだったらしい。(…)

……名前がわからないから、生きていたとき、どんな暮らし【暮し】をしていたひとたちか、わかるはずはない。/わかることは、大部分が、たった一枚の赤紙で、家族と引きさかれてしまって、それっきり死んでしまった兵隊たちだということである。おなじ兵隊でも、えらい将校なら、死んでも名前がわからぬことはあるまい。くず(屑)ラシャ【屑ラシャ】の黄色い星が、ひとつふたつか三つ、つまりただの兵隊だったにちがいない。ひまさえあると、家に帰ることばかり考えていた兵隊たちのうちのだれかなのだ。

……その人たちは帰らなかった。おなじ兵隊のひとり、ぼくは帰ってきて、それから十五年も生きて、いまこの人っ子ひとりいない妙に明るい墓地に立っている。/そして、人には持って生まれた星があるのかと古風なことを考えている。こうして生きて帰った者もあるし、死んだ者【死んで帰ってきた者】もある。死んで靖国神社にまつられている者もあれば、名もわからず弾薬庫のすみにおかれ、やっと墓ができ【出来】ても、国も知らん顔、だれもかえりみようとしない者もある。(こんな国ってあるものか)/この墓には、どういうわけか、【読点ナシ】一字も文字が書かれていない。しかし「祖国のために勇敢に戦って死んだ無名の人たちここに眠る」といった式の【ふうの】言葉だったら、むしろ、なんにもない、このままの方がよい。

……【ナシ】どんなに帰りたかったろう。ぼくならそう書いて上【あ】げたい。/あすは、十五年目の八月十五日である。》(花森「無名戦士の墓」 『朝日新聞 日曜版』1960.8.14)

 ---【 】内は、『暮しの手帖』2世紀7号掲載時に改稿---
1961年
(昭和36)
 50歳 ・2月~7月、『暮しの手帖』58号に「電気掃除機をテストする」、59号に「冷蔵庫のなかのたべもの」、60号に「電気センタク機をテストする」。世の中の関心の高い電化製品を取り上げる。
・花森が命名、ロゴを作成したうまみ調味料「いの一番」(武田食品工業)発売。


〇風流夢譚事件 右翼少年、中央公論社社長〉嶋中社長邸を襲い、家人2人を殺傷(2月1日)
〇朝永振一郎ら七人委員会を結成、平和アピール発表(6月14日)
〇ベルリンの壁構築(8月13日)
   
1962年
(昭和37)
 51歳 ・この年、FM東海「朝のコンサート」放送開始。花森安治が最初のキャスターを務める。
・この頃、森村桂が入社、編集部で働く。後にこの時の体験をもとに『違っているかしら』を執筆。
・2月、『暮しの手帖』63号に「スチームアイロンをテストする」。
・7月、『暮しの手帖』65号に「自動トースターをテストする」。
・12月、『暮しの手帖』67号「石油ストーブをテストする」第二弾。

・「一冊の本」(『朝日新聞 夕刊』3月15日)
・「損をするのはぼくらだから」(『朝日新聞』5月24日)
・「酒とはなにか」(『暮しの手帖』64号 5月)*
・「うけこたえ」(『暮しの手帖』65号 7月)*
・「デパート買い物案内」ほか(『東京だより』朝日新聞編)

〇原研の国産第1号原子炉に点火(9月12日)
〇キューバ危機(10月22日)
〇東京、スモッグ騒動
〇東京の人口1000万人を突破。

 
1963年
(昭和38)
 52歳 ・4月、石井好子『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』刊行。
・9月、『暮しの手帖』71号に「日本紀行」。日本の都市を紹介するグラビアルポの連載を始める。第1回は出身地・神戸。
・10月、ひとり娘の藍生が松下電器で松下幸之助の秘書を務める土井智生と結婚。「新調した、いつものジャンパーとズボン」で結婚式に出席。


・「きのうきょう」(『朝日新聞』1月6日~6月30日 23回)
 ≪「総理大臣閣下」1.6/「ミー・ハー経営者」1.13/「おかずの文句」1.20/「つくりたがりや」1.27/「もし落ちたら」2.3/「けっこうな話」2.10/「『西部開拓史』」2.17/「汽車かバスか」2.14/「医者無し月」3.3/「ケチな根性」3.10/「ゴミ列車進行中」3.17/「『あたる』広告」3.24/「封筒と電話と」3.31/「勇気を出せ」4.7/「バカはどっちだ」4.14/「東京都知事に」4.21/「音楽の水道」4.28/「お二階の汽車」5.5/「顔は邪魔です」5.12/「笑いが止まらん」5.19/「ビンのふた」5.26/「ラーメンの味」6.2/「鎮魂歌」6.30≫
・「大安仏滅」(『暮しの手帖』68号 2月)*
・「リリスプレスコット伝」(『暮しの手帖』69号 5月)*
・「漢文と天ぷらとピアノ」(『暮しの手帖』70号 7月)*


〇原子力科学者154人、原子力潜水艦寄港反対を声明(3月27日)
〇日本初の原子力発電が成功(東海村)(10月26日)
〇ケネディ米大統領暗殺(11月22日)
 
《大学のクラスメートと結婚することになった時、会社の昼休みに呼び出され、ミキモトでネックレスとイヤリングを買ってくれました。これからはちゃんとしたものを持っていた方がいいと申して。/父の心入れの真珠をつけて結婚式の日を迎えました。披露宴の終わり近く、花嫁の父からも一言と父は発言を求め、/「大切に育ててきた娘をどこの馬の骨ともわからない者にやるのに、費用も出した自分達が末席に座らされて云々」/と私の立場を全く無視したことを申しました。一人娘を手離す父のせめてもの抵抗だったのでしょうか。》(土井藍生「〈あとがき〉思い出すことなど 父・花森安治」 『花森安治戯文集1』 LLPブックエンド 2011)

《藍生さんの結婚式の日も、花森さんは暮しの手帖に出て行き、式には、いつもの白っぽいジャンパーの、ただし、よそゆきのを着て、ノーネクタイでした。披露宴のさいごに、ぼくにもしゃべらせてほしいと立ちあがって、どこの馬の骨ともわからない者に、いままで育ててきただいじな娘をやるのに、その結婚式の費用もこちらが出して、もっといい席にすわらせてくれるならともかく、こんな末席にすわらせて……とやったので、藍生さんは「ヤダー」と顔から火が出る、会場は大かっさい、という事態だったそうです。》(酒井寛「あとがき」 『花森安治の仕事』1988.9)

《物ごころついてから、きょうまで、色あいこそちがえ、オリンピックのおもいでには、いつも共通した一つのすがすがしさと、まじりけのない感激とがあった。/いってみれば、そのおもいでには、スモッグに汚されていない、すきとおるような青空、扇風機やクーラーではない、自然の風のにおいがあった。/◇その美しいおもいでも、しかし、このまえのローマで、たぶんおしまいになってしまうだろう。/いま東京のザマが、ぼくのおもいでを、こっぱみじんに打ちくだいてしまったのだ。/汚職と違反と取引と争いと、そのどろどろの上に、どんなにファンファーレがなりひびこうと、旗がひるがえろうと、もうぼくの心のなかに、あの純真なオリンピックのおもいでは、よみがえってこないだろう。》(花森「鎮魂歌」 『朝日新聞』 〈きのうきょう〉1963.6.30) 
1964年
(昭和39)
 53歳 ・5月、『暮しの手帖』74号に「電気ミシンをテストする」。国内8社の製品をテスト。34台のミシンで11ヶ月かけて、1銘柄1万メートルの布を縫う。

・「札幌」(『暮しの手帖』73号 2月)*
・「煮干しの歌」(『暮しの手帖』76号 9月)*
・「塩鮭の歌」(『暮しの手帖』77号 12月)*
・「まいどおおきに」(『暮しの手帖』77号 12月)*


〇海外旅行自由化(4月1日)
〇憲法問題研究会、憲法調査会の多数意見や、伝統と自由の名による憲法改悪に反対声明(5月3日)

〇トンキン湾事件(8月2日)
〇東海道新幹線開業(10月1日)
〇オリンピック東京大会開会(10月10日)
  
1965年
(昭和40)
 54歳 ・日本橋・三越で「飛騨の高山展」を開催。
・7月、『暮しの手帖』80号に「電気冷蔵庫をテストする」。
・9月、『暮しの手帖』81号に「テレビの放送時間を短くしよう」。テレビ中毒者が増加することを案じ、「テレビ放送は朝10時から夜10時までに』と提案する。

・「お互いの年令を10才引下げよう」(『暮しの手帖』78号 2月)*
・「1ケタの保険証」(『暮しの手帖』79号 5月)*
・「民主主義と味噌汁」(談話)(『中央公論』9月)
・「千葉のおばさん」(『暮しの手帖』81号 9月)*
・「暮らし寸評」(『朝日新聞』9月3日~66年3月11日 7回)  ≪「一畳の広さ」9.3/「結婚式はだれのもの」10.8/「西洋料理とハシ」11.5/「嫁も息子も外国人」12.3≫

〇米機等、北ベトナム爆撃開始(2月7日)
〇日韓基本条約等調印(6月22日)
〇大衆乗用車時代到来
〇高校進学率が全国平均70%を超える
  
1966年
(昭和41)
 55歳 ・2月、失火で自宅が全焼。港区南麻布のマンションに転居。
・4月、初孫の陽子誕生。
・7月、映画「私、違っているかしら」公開。森村桂の原作を日活が映画化(花森役:宇野重吉、大橋役:細川ちか子、森村役:吉永小百合)。
・11月、ベンジャミン・スポック著『スポック博士の育児書』を刊行。

・12月、『暮しの手帖』87号に「〈火事〉をテストする」。消防研究所、東京消防庁、建設省建築研究所の協力のもとに家一軒を燃やして検証。

・「暮らし寸評」(『朝日新聞』66年9月3日~66年3月11日 7回) ≪「特集 『つきあい』をめぐって・心をきめる時」1.3」/「お上のなさること」1.14/「国語は国民のもの」2.11/「毒か毒でないか」3.11≫
・「結婚式この奇妙なもの」(『暮しの手帖』84号 5月)*
・「せめて今夜は」(『朝日新聞』12月31日)

〇中国、文化大革命始まる(4月)
〇ビートルズ来日(6月29日)
〇建国記念の日〈2月11日〉決定(12月8日)
《すこしまえ、すさまじい手紙を、つぎつぎにもらうことがあった。はじめは、正直いって、あっけにとられた。/「暮し」という言葉を書くとき、なぜ「暮」と「し」のあいだに「ら」をいれないか、どうして「暮らし」と書かないのか、そういう間違いを平気でやって、いささかも改めないのは、よくない態度である。/そういう意味の手紙である。ぼくたちが作っている雑誌の名前についての、忠告ないし注意だとおもう。/忠告とか注意は素直にきくべきものだろうが、ときには、そうもいかないことがある。ぼくとしては、第一に「暮」という字を「く」と読むのは、いくらなんでもいやなこと、第二に、そう読まなければならないと文部省かどこかで取りきめたらしいが、それより前に、この名前ができていたこと、この二つの理由から、やっぱり態度を改める気にならなかった。(…)/
どうだろう、もうそろそろ、文部省や国語審議会といったものは、国語をいじることから手をひいたら。/テフテフをチョウチョウと書いていい、などはたしかに審議会のお手柄である。しかし「暮」という字をクと読ませたり「お母さん」と書いてはいけなくなってくると、これは、手をひく潮時ではないだろうか。/国語は、ぼくら国民のもので、文部省のものでも審議会のものでもない。ぼくらが毎日使って暮す大切な道具だ。そろそろ、ぼくらのものを、ぼくらの手に返してもらってもよさそうである。/ああだこうだなしで、みんなで毎日使いいいように使っていると、この日本語、そのうち、うまい具合にツボにはまってゆくにちがいない。》(花森「国語は国民のもの」 『朝日新聞』1966.2.11)
1967年
(昭和42)
 56歳 ・5月、『暮しの手帖』89号に「戦争中の暮しの記録を募ります」を掲載。入選は100編の予定。応募締切は同年8月15日。同号に「ポッカレモンとビタミンC」。ポッカレモンにビタミンCが入っていないことを追及。公正取引委員会まで巻き込み、結局、不当表示であることを認めさせる。この89号で「エプロンメモ」が総数1000項目に到達。
・7月、『暮しの手帖』90号に再度、「戦争中の暮しの記録を募ります」を掲載。同号に「どぶねずみ色の若者たち」。人まねをして、どぶねずみ色の背広に身を包む若者の個性のない生き方を批判。
・9月、『暮しの手帖』91号に「この大きな公害」。ヒ素ミルク、水俣病、サリドマイドなどの公害問題を振り返り、加工食品の毒性や成分を調査。

・「どぶねずみ色の若者たち」(『暮しの手帖』90号 7月)*

〇初の建国記念の日(2月11日)
〇公害対策基本法公布(8月3日)
〇ツイッギー来日、ミニスカートがブームに(10月18日)
〇佐藤首相、衆院予算委で非核三原則を言明(12月11日)
〇灘尾文相、国防意識育成の教育が必要と強調(12月28日)
〇カラーテレビ、カー、クーラーの「3C]が新三種の神器に
〇第二次ベビーブーム
《商品テストの対象品目が高額化してくるにつれて、テスト記事の結論だけが、お買い得商品のガイドとして読まれるようになってきた、そんな傾向を花森は危惧していました。そういうプロセスを経て、六八年の96号が特集「戦争中の暮しの記録」を編み、七〇年の2世紀8号に「見よぼくら一銭五厘の旗」を掲載し、七一年に『一銭五厘の旗』の刊行、その翌年に同書で読売文学賞受賞に至るわけです。》(河津一哉+北村正之+小田『「暮しの手帖」と花森安治の素顔』 論創社 2016.10)

《戦争が終って、やがて二十二年になります。戦争中の、あの暗く、苦しく、みじめであった私たちの明け暮れの思い出も、しだいにうすれてゆこうとしています。/おなじ戦争中の記録にしても、特別な人、あるいは大きな事件などについては、くわしく正確なものが残されることでしょう。しかし、名もない一般の庶民が、あの戦争のあいだ、どんなふうに生きてきたか、その具体的な事実は、一見平凡なだけに、このままでは、おそらく散り散りに消えてしまって、何も残らないことになってしまいそうです。/暮しの手帖が、あえてここにひろく戦争中の暮しの記録を募るのは、それを惜しむからに外なりません。ふたたび戦争をくり返さないためにも、あの暗くみじめな思いを、私たちに続く世代に、二度とくり返させないためにも、いまこの記録を残しておくことは、こんどの戦争を生きてきたものの義務だとおもうからです。ふるってご応募下さるようにおねがい申し上げます。》(推定花森「戦争中の暮しの記録を募ります」 『暮しの手帖』89号 1967.5/90号 1967.7)
1968年
(昭和43)
 57歳 ・2月、『暮しの手帖』93号に「戦争中の暮しの記録入選発表」を掲載。126名の手記が入選。同号に「もしも石油ストーブから火が出たら」。この記事を発端に、出火した石油ストーブの初期の火は水で消えるという『暮しの手帖』と、水をかけず毛布で消火するべきという東京都消防庁の主張が対立。このいわゆる“水かけ論争”は、自治省消防研究所で行われた公開実験の結果、『暮しの手帖』に軍配が上がる。
・6月、『暮しの手帖』95号に「ルームクーラーをテストする」。
・8月、『暮しの手帖』96号に「戦争中の暮しの記録」。この号の全頁をあてて特集する。
・特集「戦争中の暮しの記録」(96号)の世評は高く、100万部を超える大部数を発行した。続く97号、98号も極めて順調で、100万部近い部数を維持していた。
・10月、『暮しの手帖』97号に「戦争中の暮しの記録を若い世代はどう読んだか」。応募1215編のうちから22編を掲載。
・12月、『暮しの手帖』98号に「愚劣な食器洗い機」。「こんなふしだらな商品は、はじめてである」と書いた。
・12月、98号に「よくなった国産品」。石油ストーブ20種をテスト。アラジンと肩を並べるものが出てきたと評価。

・「世界はあなたのためにはない」(『暮しの手帖』93号 2月)*
・「8分間の空白」(『暮しの手帖』94号 4月)*
・「美しいものを」(『暮しの手帖』95号 6月)*
・「戦場」(『暮しの手帖』96号 8月)*
・「二十二年目の〝戦争体験〟(薄れゆく戦争体験 インタビュー)(『新潟日報』8月12日)
・「武器をすてよう」(『暮しの手帖』97号 10月)*
・「広告が多すぎる」(『暮しの手帖』98号 12月)*

〇消費者保護基本法公布(5月30日)
〇62カ国、核拡散防止条約調印(7月1日)
〇チェコ自由化問題で、ソ連・東欧軍介入(8月20日)
〇明治百年記念式典開催(10月23日)
〇大学紛争激化
〇GNPが自由経済圏世界第2位になる
〇水俣病、イタイイタイ病が公害病に認定
〇川端康成にノーベル文学賞


 〈戦場〉は
いつでも
海の向うにあった
海の向うの
ずっととおい
手のとどかないところに
あった(…)

ここは
〈戦場〉ではなかった
ここでは みんな
〈じぶんの家〉で
暮していた(…)

海の向うの
心のなかの〈戦場〉では
泥水と 疲労と 炎天と
飢餓と 死と
そのなかを
砲弾が 銃弾が 爆弾が
つんざき 唸り 炸裂し
ていた

〈戦場〉と ここの間に
海があった
兵隊たちは
死ななければ
その〈海〉をこえて
ここへは 帰ってこられ
なかった

いま
その〈海〉をひきさいて
数百数千の爆撃機が
ここの上空に
殺到している

焼夷弾である
焼夷弾が
投下されている(…)

この瞬間も
おそらく ここが
これが〈戦場〉だとは
おもっていなかった(…)


花森安治「戦場」(『暮しの手帖』96号 1968)
《戦争の経過や、それを指導をした人たちや、大きな戦闘については、ずいぶん昔のことでも、くわしく正確な記録が残されている。しかし、その戦争のあいだ、ただ黙々と歯をくいしばって生きてきた人たちが、なにに苦しみ、なにを食べ、なにを着、どんなふうに暮してきたか、どんなふうに死んでいったか、どんなふうに生きのびてきたか、それについての、具体的なことは、どの時代の、どこの戦争でもほとんど、残されていない。/その数すくない記録がここにある。/いま、君は、この一冊を、どの時代の、どこで読もうとしているのか、それはわからない。君が、この一冊を、どんな気持で読むだろうか、それもわからない。/しかし、君がなんとおもおうと、これが戦争なのだ。それを君に知ってもらいたくて、この貧しい一冊を、のこしてゆく。/できることなら、君もまた、君の後に生まれる者のために、そのまた後に生まれる者のために、この一冊を、たとえどんなにぼろぼろになっても、のこしておいてほしい。これが、この戦争を生きてきた者の一人としての、切なる願いである。 編集者》(推定花森「この日の後に生まれてくる人に」 『暮しの手帖』96号 1968.8)

《○ごらんのように、この号は、一冊全部を、戦争中の暮しの記録だけで特集した。一つの号を、一つのテーマだけで埋める、ということは、暮しの手帖としては、創刊以来はじめてのことだが、私たちとしては、どうしても、こうせずにはいられなかったし、またそれだけの価値がある、とおもっている。
○この記録は、ひろく読者から募集したもののなかから、えらんだものである。応募総数千七百三十六篇という、その数には、たいしておどろくものではないが、その半数は、誌面の余裕さえあれば、どれも活字にしたいものばかりで、ながいあいだ編集の仕事をしてきて、こんなことは、まずこんどがはじめてのことであった。(…)
○誤字あて字の多いこと、文章の体をなしていないものが多いこと、なども、こんどの応募原稿の、一つの特色だったといえるだろう。
○しかし、近頃こんなに、心を動かされ、胸にしみる文章を読んだことは、なかった。選がすすむにつれて、一種の昂奮のようなものが、身内をかけめぐるのである。いったい、すぐれた文章とは、なんだろうか。ときに判読に苦しむような文字と文字のあいだから立ちのぼって、読む者の心の深いところに迫ってくるもの、これはなんだろうか。
○一ついえることは、どの文章も、これを書きのこしておきたい、という切な気持から出ている、ということである。書かずにはいられない、そういう切っぱつまったものが、ほとんどの文章の裏に脈うっている。(…)
○編集者として、お願いしたいことがある。この号だけは、なんとか保存して下さって、この後の世代のためにのこしていただきたい、ということである。》(花森「あとがき」 『暮しの手帖』96号 1968.8)

《――〝暮しの手帖〟一冊を全部使って戦争体験、それも戦争中の暮しの記録を集めた理由は何なのですか。
「断層ですよ。戦後二十三年、戦争の体験を持っている世代は若くても四十になっている。こういう戦中派の世代と、いまの十代、二十代の戦争を全然知らない世代との間には隔絶があります。二十年前、日本中の人たちがあれほど苦しんだ戦争なのに、二十年たったいま、その苦しみが若い世代には少しも伝わっていない。しかも戦争をドラマティックなもの、ヒロイックなものとして描くテレビや本がふえはじめると、これを見る人たちが親の戦争体験を知っているかどうかで、その受けとめ方もずいぶん違ってくるのじゃないか。それも個々の親が誇張したり、美化して語る戦争体験でなく、戦争中の暮しはこんなだったのだよと、ありのままの事実を〝歴史〟として若い人に読んでもらいたい。いや読んでもらわなければ困ると思ったのです」(…)
――これほど重い戦争体験を持ち、それに耐えてこれたほどバックボーンのある人たちが、どうして若い世代にそれを伝えることが、いままでできなかったのでしょうか。
「それは自分たちの体験が罪の意識にかわってしまったからです。(…)自分の行動を理性で批判した結果、若い人の前に無力になったのですね。(…)/ただこうしたことは、もっと早くから常識になっていなければならなかった。そうすれば子どもたちにしても、父に対するいたわりがでただろうし、戦争体験の伝わり方も、もっとよくなっていたはずだと思います。そういう面をカバーするためにも、私はこの本をみんなに読んでもらいたいのです。これほどたくさんの無名の人が一つの体験について書いたものを、一冊にまとめたのは、万葉集の巻十九の防人の部以後ないのです。万葉から、千数百年たってやっとみのったのがこの本です。しかしそのテーマが、前と同じように戦争体験であることに、かなしいものを感じますが……」》花森(「インタビュー 二十二年目の〝戦争体験〟」 『新潟日報』1968.8.12) 

《全世界が一斉に武器を捨てたら、いいにきまっている。わかりきったことをつべこべいうな。そんな夢みたいなことができるわけがない、そういって、セセラ笑う人がいるだろう。/どうして、できるわけがないのか。(…)/げんに、人間の歴史はじまって以来、世界中どこの国もやったことのないこと、やれなかったことを、いま、日本はやってのけている。/世界の、百三十七もある国のなかで、それをやってのけたのは、日本だけだ。/日本国憲法第九条。(…)/ぼくは、じぶんの国が、こんなすばらしい憲法をもっていることを、誇りにしている。/あんなものは、押しつけられたものだ、画にかいた餅だ、単なる理想だ、という人がいる。/だれが草案を作ったって、よければ、それでいいではないか。/単なる理想なら、全力をあげて、これを現実にしようではないか。》(花森「武器をすてよう」 『暮しの手帖』97号 10月)
1969年
(昭和44)
 58歳 ・小島信平、松本政利『おそうざい十二ヵ月』刊行。
・2月『暮しの手帖』99号に「戦争を体験した大人から戦争を知らない若いひとへ」。応募866編のうち20編を掲載。同号に「電気トースターをテストする」。各社自選の33台をテスト、43088枚の食パンを焼く。「どれもチャチすぎる。情けなし、日本の『大』メーカーの諸君」、と。
・2月8日、取材先の京都で心筋梗塞により倒れる。以前より親交の深かった松田道雄の計らいで、約2か月間、都ホテルで療養。病室で編集作業を続行。
・4月、『暮しの手帖』が100号を迎える。
・4月、『暮しの手帖』100号に「なんにもなかったあの頃」。戦後の30年間を、『暮しの手帖』の記事でふりかえる。
・7月、『暮しの手帖』通算101号は新しい雑誌を作るつもりで「2世紀第1号」と呼び、判型も一回り大きいA4変形判に変える。
・7月、『暮しの手帖』2世紀1号に「すてきなあなたに」、「家庭学校」連載を始める。
・8月、暮しの手帖社編『戦争中の暮らしの記録』を単行本として暮しの手帖社より刊行。
・9月、『暮しの手帖』2世紀2号に「食器洗い機をテストする」。「手で洗えば10分くらいですむ仕事を1時間近くかけてしかも不完全に洗ってくれるキカイ」、と。

・「男の中の男・二六〇円亭主」(『文芸春秋』2月)
・「なんにもなかったあの頃」(『暮しの手帖』100号 4月)*
・「商品テスト入門」(『暮しの手帖』100号 4月)*
・「もののけじめ」(『暮しの手帖』2世紀1号 7月)*
・「国をまもるということ」(『暮しの手帖』2世紀2号 9月)*
・「総選挙に思う」(『朝日新聞』12月19日)

〇東大安田講堂に機動隊が出動し封鎖解除(1月18日)
〇政府、新全国総合開発計画決定(5月1日)
〇南ベトナム解放民族戦線、南ベトナム臨時革命政府樹立を発表(6月10日)
〇米国のアポロ11号航空士、初の月面着陸に成功(7月20日)
〇全米にベトナム反戦運動広がる(10月15日)
〇ジーンズが流行



(…)雑誌というものは編集者と読者との共同作業で作られるものだということ、これがこの二十二年の年月を通じて、リクツではなく、実感として、ぼくたちが骨身にしみて知らされたことなのです。/この雑誌を育てていこうという気持この雑誌を支えてやろうという気持、それが読者のほうになければ、いくら編集者だけがキリキリ舞いしても、決しておもうような雑誌は作れるものではありません。/そういった意味で、ぼくたちは、分にすぎた質のいい読者の、それも非常に厚い層を、この百号まで、ずっと持ちつづけたということは、なによりの幸せでした。/この雑誌は広告をのせていません、そのために、どんな圧力も感じないでやってこられたのだとおもいます。/この姿勢は、これからさきも、決して崩すことはないでしょう。編集者として、〈何ものにもしばられることなく、つねに自由であること〉これにまさる幸せは、ほかにないからです。(…)

花森安治「あとがき」(『暮しの手帖』100号 1969.4)
 
《貧しさ、ひもじさ、復興、再建の時代から、豊かさと同時に公害、紛争の時代になっている。この国の人々の暮しをよりよくしたいという『暮しの手帖』は、これから新たな2世紀をつくる上で。どう考えたらいいのか。花森さんは、誰かに相談したいと、本当に思ったのだろうか。/この時、取材でもなく、対談でもないのに、わざわざ厳寒の京都へ出かけたのである。》(木榑雅章『花森さん、しずこさん、そして暮しの手帖編集部』 暮しの手帖社2016.6)

《授かった娘がもうすぐ三歳という早春、京都に仕事で来ていた父が、夜中に心筋梗塞の発作を起こしました。絶対安静を医師から言い渡されても入院を拒み続け、かねてから親しくしていただいて、父の性格もよくご存知の松田道雄先生が助け船を出して下さいました。投宿していた蹴上の都ホテルの部屋を病室にして、医療器具を運び込み、松田先生ご自身が毎日、朝から夕方まで病室に詰めて下さり、夜間は先生のお知り合いのお医者さまお二人が交替で泊まって下さるようご手配いただきました。》(土井藍生「〈あとがき〉思い出すことなど 父・花森安治」 『花森安治戯文集1』 LLPブックエンド 2011)

《病気をかかえても、しかし、花森は、書かずにはいられなかった。「政治のあり方をみて、腹も立たず、しかたがないと、うすら笑いをうかべ、ばかげたテレビ番組に、うつつをぬかし、野暮なことはいいっこなしで暮しているうちに、やがて、どういう世の中がやってくるか」(「もののけじめ」、昭和四十四年七月)。しだいに戦争への谷間になだれ落ちていったあの時代を、花森は思い出していたのだと思われる。》(酒井寛『花森安治の仕事』1988.9)

《雑誌作りというのは、どんなに大量生産時代で、情報産業時代で、コンピューター時代であろうと、所詮は〈手づくり〉である、それ以外に作りようがないということ、ぼくはそうおもっています。(…)/ぼくは死ぬまで〈編集者〉でありたい、とねがっています。その瞬間まで、取材し写真をとり原稿を書き校正のペンで指を赤く汚している、現役の編集者でありたいのです。》(花森「あとがき」 『暮しの手帖』100号 1969)

《2世紀の『暮しの手帖』がやるべきことは、これだ、と思い定めた。そのテープが残っている[1969年2月、都ホテル]。ホテルで花森さんが鎮子さんに、つぎのように語った。/「世の中、これからの世の中、どう考えたって悪くなる。荒廃する。/結局、政治は国民のためを考えず、自分たちの利益のために、自分たちの票のために。(…)/今日、だれも国民のこと、日本のことを考えてやっていない。/国民のほうもそれになれている。/それを前提に新しい『暮しの手帖』を考えなければならない。荒廃させるものに対して戦わなければならない。どういう方法で戦うか。(…)/その場合の武器は、ペンである。(…)/ペンはさびている。/ペンはなまっている。(…)/この新しい1号から、われわれは新しい使命に向かってスタートをする。(…)」》(小榑雅章『花森さん、しずこさん、そして暮しの手帖編集室』 暮しの手帖社2016.6)

《その日本という〈くに〉は、いま総生産世界第二位などと大きな顔をし、驚異の繁栄などといわれてやにさがり、そして、したり顔をして、みずから〈くに〉を守る気概を持て、などと𠮟りはじめている。/こんどの戦争で、一銭も返してもらわなかった大ぜいの人たちは、それを忘れてはいない。なにもいわないだけである。いわないのをよいことにして、ふたたび、〈くに〉を守れと言い、着々と兵隊をふやし、兵器をふやしている。/よっぽど、この日本という〈くに〉は、厚かましい〈くに〉である。》(花森「国をまもるということ」 『暮しの手帖』2世紀2号 1969.9)
1970年
(昭和45)
 59歳 ・2月、『暮しの手帖』2世紀4号に「医は算術ではない」。患者置去りの医療を、本来の「仁術」へ引き戻すべきと主張。
・8月、『暮しの手帖』2世紀7号に「無名戦士の墓」。千鳥ヶ淵戦没者墓苑を訪ねて。
・10月、『暮しの手帖』2世紀8号に「見よぼくら一銭五厘の旗」。公害問題を機に、今度こそ自分たちの暮しを守ろうと訴え、その象徴として端布で作った旗を研究室の屋根に立てた。
・10月、『からだの読本 1』を暮しの手帖社より刊行。
・この頃、『暮しの手帖』のテレビCMが放映される。 


・「医は算術ではない」(『暮しの手帖』2世紀4号 2月)*
・「無名戦士の墓」(『暮しの手帖』2世紀7号 8月)*
・「見よぼくら一銭五厘の旗」(『暮しの手帖』2世紀8号 10月)*
・「お人よしで親切で」(『朝日新聞』11月23日)

〇大阪万国博覧会開幕(3月14日) 
〇日航機よど号ハイジャック事件(3月31日)
〇東京地裁、家永教科書第2次訴訟に対し、検定不合格処分取り消しを判決(杉本判決)(7月17日)
〇東京・杉並で高校生40人余、グラウンドで倒れる 光化学スモッグ公害と推定(7月8日)
〇三島由紀夫割腹自殺(11月25日)
〇歩行者天国
〇ウーマンリブ流行
《北村 [1969年入社時]花森さんは最初にいいました。「暮しの手帖社はひとつの運動体だと考えてもらいたい。暮らしやすい世の中にするための運動体だ。そのために自分たちの考えや主張を発表する場が『暮しの手帖』であり、その売上で社員みんなの暮しを支えていくわけだ。そこをはき違えるな。(…)」と。》(河津一哉+北村正之+小田『「暮しの手帖」と花森安治の素顔』 論創社 2016.10) 

《軍隊というところは ものごとを/おそろしく はっきりさせるところだ/星一つの二等兵のころ 教育掛りの軍曹が 突如として どなった/貴様らの代りは 一銭五厘で来る/軍馬は そうはいかんぞ/(…)/そうだったのか/〈草莽の臣〉/〈陛下の赤子〉/〈醜の御楯〉/つまりは/〈一銭五厘〉/ということだったのか/(…)/
民主々義の〈民〉は 庶民の民だ/ぼくらの暮しを なによりも第一にする ということだ/ぼくらの暮しと 企業の利益とが ぶつかったら 企業を倒す ということだ/ぼくらの暮しと 政府の考え方が ぶつかったら 政府を倒す ということだ/それが ほんとうの〈民主々義〉だ/(…)/
今度こそ ぼくらは言う/困まることを 困まるとはっきり言う/葉書だ 七円だ/(…)/七円のハガキに 困まることをはっきり/書いて出す 何通でも じぶんの言葉で/はっきり書く/(…)/
ぼくらは ぼくらの旗を立てる/ぼくらの旗は 借りてきた旗ではない/(…)/ぼくらの旗は こじき旗だ/ぼろ布端布(はぎれ)をつなぎ合せた 暮しの旗だ/ぼくらは 家ごとに その旗を 物干し台や屋根に立てる/見よ/世界ではじめての ぼくら庶民の旗だ/ぼくら こんどは後へひかない》(花森「見よぼくら一銭五厘の旗」 『暮しの手帖』2世紀8号 1970.10)
1971年
(昭和46) 
 60歳 ・5月、『からだの読本 2』を暮しの手帖社より刊行。
・8月、『暮しの手帖』2世紀13号に「ジューサー・ミキサーをテストする」。国産6機種をテスト。各社が調理できるとする30の種の料理を検証。「あんまりバカにするんじゃないよ」、と。
・10月、花森安治著『一銭五厘の旗』を暮しの手帖社より刊行。
・『からだの読本 1』が第25回毎日出版文化賞(人文・社会部門)受賞。


・「生活カレンダー 私の提案」(『朝日新聞』8月15日)
『一銭五厘の旗』(暮しの手帖社 10月)
・「〈対談〉医者と兵隊と戦争と保険と」(花森、松田道雄)(『暮しの手帖』2世紀14号 10月)

〇沖縄返還協定調印(6月17日)
〇マクドナルドの日本1号店開店(7月20日)

〇ニクソン・ショック(1ドル308円に)(8月15日) 
《ボクは、たしかに戦争犯罪をおかした。言訳をさせてもらうなら、当時は何も知らなかった、だまされた。しかしそんなことで免罪されるとは思わない。これからは絶対だまされない。だまされない人たちをふやしていく。その決意と使命感に免じて、過去の罪はせめて執行猶予してもらっている、と思っている。》(花森〈インタビュー〉「花森安治における『一銭五厘』の精神」 『週刊朝日』1971.11.19)

《この[『週刊朝日』のインタビュー記事]1回だけを言質にとって、鬼の首を取ったみたいに戦犯だというのは、まったく滑稽だ。私は、なんで『週刊朝日』にあんなことを言ったのか、思い切って聞いてみた。/「あの若い記者は、はじめから、ああいう答えを欲しがっていたんだよ」と、まるで他人ごとみたいにさらっと言った。そして、「『欲しがりません勝つまでは』も『ぜいたくは敵だ』も自分がつくったものではない。自分がつくったのは『あの旗を射て』だけだ。そんなことは、みんなわかっているよ」/そうだろうか。みんなわかっているだろうか。なんとなく腹立たしい。》(小榑雅章『花森さん、しずこさん、そして暮しの手帖編集室』 暮しの手帖社2016.6)

《戦時中は大政翼賛会のメンバーとなり、(…)そこで、幸か不幸か氏が卓抜の文才、天才的なコピー能力をもってたおかげで一世を風靡する戦時標語を生んでしまい、結果的には戦争完遂へ向って市民の尻を強くたたく役を果すことになった。その自分への強烈な反省と悔悟と、指弾と、贖罪意識があった。私は、花森氏は戦後三十年の仕事の総量で、充分、その罪を贖いえた、と考える。それにしても、氏のあの標語、(…)「欲しがりません勝つまでは」――あれはいけなかったのだ。いったん現状を認めてしまったうえでその場の打開策を考えようとする、そのため結果的に、大きな悪を黙認する場合も出てしまう。――それは花森氏終生の、思考の限界を予告してた点でも、いけない言葉だった。/具体としての戦争に対する呪いと憤怒は、氏の『一銭五厘の旗』一冊のなかにも、充満している。この文章だけは削りも落ちもできなかった、という感じでほうぼうに噴出している。「戦場」がそうであり、(…)「一銭五厘の旗」(…)がそうであり、(…)》(荻昌弘「花森イズムと“暮しの手帖”」 『婦人公論』中央公論社 1978.4)

《花森さんと同じ一九一〇年生れの経験から判断するのだが、花森さんのこじき旗は二重の復讐ですよ。だました錦の御旗と、それにだまされた自分自身とが串刺しにされているのではないでしょうか。》(むの・たけじの談話『週刊朝日』1971.11.19)
1972年
(昭和47)
 61歳 ・2月、『一銭五厘の旗』が第23回読売文学賞受賞( 1971年度 随筆・紀行賞)。記念として社員全員にシェーファーの万年筆を配布。
・4月、『話の特集』(4月号)の「マルチイメージ 4 花森安治」に35名が花森安治へのコメントを寄せる。
・4月、『暮しの手帖』2世紀17号に「蛍光灯をテストする」。4社の製品を1社14本ずつ、総数64本使用。2年半かけ、7500時間の点灯テストを行う。
・8月、『暮しの手帖』2世紀19号に「内閣を倒した無学文盲の三人の女たち」。富山県魚津の3人の女たちが発端となり全国に飛び火した米騒動が、いかにして官僚軍閥内閣を倒閣させたか。
・8月31日、「日本の消費者、ことに抑圧された主婦たちの利益と権利と幸福に説得力のある支援を行った」ことで、花森安治がラモン・マグサイサイ賞を受賞。賞金をフィリッピンの消費者運動のために贈る。
・11月、富本一枝、藤城清治『お母さんが読んで聞かせるお話A・B』を刊行。


・「うちの記者は弁当持ちで取材に行く」(談話)(『新評』1月)
・「君もおまえも聞いてくれ」(『文芸春秋』3月)
・「暮しは基盤“大木よね”にならえ」(『婦人民主新聞』3月31日)
・「わが思索 わが風土」(『朝日新聞』6月13日~17日 5回)
 ≪「校正の神様」6.13/「一夜の教え」6.14/「お母さん」6.15/「子供のけんか」6.16/「一本のペン」6.17≫

〇残留日本兵・横井庄一 グアム島密林で救出(1月24日)
〇浅間山荘事件(2月19日~18日)
〇沖縄施政権変換(沖縄本土復帰)(5月15日)
〇田中角栄、「日本列島改造論」構想発表(6月11日)
〇米国、ウォーターゲート事件発覚(6月17日)
〇田中首相、訪中(9月25日) 日中両国首相、共同声明に調印、国交樹立(9月29日)
《じつをいうと、ぼくは、地球が崩壊するよりまえに、死ぬだろう。この目で、二十一世紀を見とどけることは、不可能なのだ。/それだから、あいつ[危機的な現実を直視せず、「そんなことは、とても出来ない相談だ」と、何の行動も起こそうとしない人たち、さらには自分の中にもある、そうしたもう一人の自分]のように、ずるい奴は、直接じぶんにどうってことはないとおもって、それで、あたまから、できない相談だ、などといって、逃げるのだ。/しかし、ぼくより、ずっと若い人たち。/おそらく、君たちは、世界中がこんなことをしていたら、地球といっしょに、亡(ほろ)んでゆくかもしれないのだ。その日に、立ち会わなければならないのだ。/そういう目に、君たちを会わせる、その責任は、はっきりぼくらにある。それだから、この相談が、できない相談であろうと何であろうと、できる相談にしなければならないのだ。なんとしてでも、そうしなければならないのだ。》(花森「君もおまえも聞いてくれ」 『文芸春秋』1972.3)

《読売文学賞を受けて、花森は喜んだ。花森が好きだった井伏鱒二といっしょの受賞だったことが、よけいうれしかったらしい。[井伏は『早稲田の森』により受賞した]》(酒井寛『花森安治の仕事』1988.9)

《受賞の祝いの会で、花森は、「このごろの若いジャーナリスト諸君は、はじめからペンが降参している」と、会場のジャーナリストを叱咤した(読売新聞、同年三月十六日)。/朝日新聞のシリーズ「わが思索わが風土」の中でも、花森は、「ペンと剣」について、つぎのように書いた(同年六月十七日)。/「(…)そして、戦後だけでなく、明治以来、新聞のやってきた最大のマイナスは、といわれたら、やはり、戦争を防ぐどころか、一生けんめい、それに協力してきたのだ。それだけに、若いころのぼくと、おなじようなことを、いまの若いジャーナリスト諸君が、ちらっちらっとやっている、それを見聞きするのが、つらい。」》(酒井寛『花森安治の仕事』1988.9)

《暮しの手帖の編集会議で、花森がなにかのことで怒りだし、激して、「ペンと剣」にふれてゆくところが、録音テープに残されている。録音の日時はわからない。以下、その部分を再現する。花森は、ときに、どなるようにしゃべっている。/「……もうちょっと、文章をじょうずになれということだ。ジャーナリストは、言葉を軽蔑しておったんでは仕事にならんぞ。自衛隊はどんどん訓練しとるわ。武器の使い方から、人間の動かし方から。われわれは、なにを訓練しておるんだ。/われわれの武器は、文字だよ、言葉だよ。それについて、われわれはどれだけ訓練しているか。(…)/あまっちょろい、きざな文章を書いていて、それで世の中が動くと思うのか。相手の肺腑をえぐるということは、ピストルにはできんぞ。言葉はそれができると、ぼくは思う。その力を諸君が信じなければ、この仕事も無意味だ。/武力は、青春を投入し、欲望も投入し、それをひとすじでやっている。おもしろおかしく世の中を渡って、しかも剣より強いペンを作ることができると思うのか。……(それでは編集会議に入る、という言葉で、テープは終わっている)》(酒井寛『花森安治の仕事』1988.9)
1973年
(昭和48)
 62歳 ・2月、池島信平が心筋梗塞により死去。花森の落胆は大きかった。
・4月、『暮しの手帖』2世紀23号に「自動センタク機はどれだけよくなったか」。
・6月、『暮しの手帖』2世紀24号に「ジグソーパズル 大人のおもちゃ」。ジグソーパズルが輸入され始めた頃、いちはやく熱中し、独断で記事に。
・8月、『暮しの手帖』2世紀25号に「二十八年の日日を痛恨する歌」。

・12月、『暮しの手帖』2世紀27号に「私の浅草」。女優の沢村貞子による連載エッセイを始める。
・12月、『暮しの手帖』2世紀27号に「暮しの手帖はどんなふうに値上げをしたらいいでしょうか」。読者の意見をもとに値上げの幅や方法を決めたいと提案。


・「<座談会>四角四面大雑談会」(花森、入江俊郎、高木健夫、古谷綱正)(『暮しの手帖』2世紀24号)
・「ただごとでなかったひと」(『春寒 清水一追悼文集』暮しの手帖社)

〇ベトナム和平協定調印(1月27日)
〇変動相場制に移行(2月14日)
〇水俣病訴訟 原告が全面勝訴(3月20日)
〇金大中事件(8月8日)
 
〇第一次石油危機(10月25日)
《ぼくらは……/もう一ど あの焼け跡に立ってみよう/あのとき 工場に一すじの煙りもなく 町に一点のネオンサインもなかった/あのとき ぼくらに 住む屋根はなく まとう衣はなく 口に入れる食物はなく 幼い子に与える乳もなかった/ぼくらには なんの名誉もなく……なんの財産もなかった/ぼくらだけは 狂った繁栄とわかれて そこへ戻ろう》(花森「二十八年目の日日を痛恨する歌」 『暮しの手帖』1973.8)

《商品テストは消費者運動の一つと大方の人は思っているようである。しかし花森安治ははっきりと「生産者のためのもの」と言っている。一九六〇年に石油ストーブのテストをして、イギリスのアラジンが抜群という結果が出た。そして、六年ぐらい経て再度テストをしてみると、日本でもアラジンに敗けないものができていたのである。/メーカーへの叱咤激励、人をあまりコケにするなよ、というらんらんのまなこ、暮しの手帖研究室は民衆を代表してメーカーたちと互角にわたりあっている日本で唯一の機関であるといえる。広告料を取らずに何者にも属さずということは強い。》(茨木のり子「『暮しの手帖』の発想と方法」 『講座・コミュニケーション 4 大衆文化の創造』 研究社出版1973)
1974年
(昭和49)
 63歳 ・1月、日吉ビル取り壊しのため、暮しの手帖社が銀座から港区六本木三丁目に移転。
・3月、娘の藍生に第2子、和雄誕生。
・6月、『暮しの手帖』2世紀30号に「もう、時間はいくらも残っていない」。
・12月、『暮しの手帖』2世紀33号に「電子レンジ この奇妙にして愚劣なる商品」。103種の料理を、ガスなどと電子レンジで作って食べ比べ、「万能調理器」という宣伝を批判。
・12月、『暮しの手帖』2世紀33号に「せんたく機以来の傑作」家庭用電気餅つき機2種をテスト。餅ができ上がる行程は「へたなテレビドラマなんか見ているより、よほど楽しい」。

〇小野田寛郎元少将、ルバング島から帰国(3月12日)
〇三菱重工ビル爆破事件(8月30日)
〇原子力船むつ、放射能漏れ事件(9月1日)
〇長嶋茂雄 巨人軍現役引退を表明(10月12日)
《地球が滅びるのが早いか、それを食い止める新しい物を生み出すのが早いか、人間の命を懸けた、いたましく、壮烈なレースを、すぐに始めよう。》(花森「もう、時間はいくらも残っていない」『暮しの手帖』2世紀30号 1974.5)

《手づくりのミニコミみたいな形でスタートしたのに、いつの間にか八十万部とかのお化け雑誌になっちゃったわけでしょう。雑誌がどんどん売れて、権威になってしまったことで、花森さんもすごく影響を受けたんじゃないかな。/それまでは生活や暮しに根ざした本をつくっていたのが、七十年代の途中あたりから、戦争のことも含め、社会的な発言がかなり増えてきますよね。そして、花森さんは戦争に関しては、笑いはなかった。イラストとかデザインとかは遊びのセンスやユーモアはありましたけど、晩年は笑いもパワーもどんどんなくなっていくんですね。》(矢崎泰久「スカートをはいた名編集者」 『花森安治 美しい「暮し」の創始者』(河出書房新社 2011.12)  
1975年
(昭和50)
 64歳 ・3月、大橋鎮子編著『すてきなあなたに』を暮しの手帖社より刊行。造本装幀コンクール入賞。
・6月、『暮しの手帖』2世紀36号に「男のレインコートをテストする」。この号で発行部数が87万部に。
・8月1日、創刊から写真撮影を担当してきた松本政利が死去。
・8月、『暮しの手帖』2世紀37号に「国鉄・この最大の暴走族」。新幹線の減速を訴えるキャンペーンを展開。

・「僕らにとって8月15日とは何であったか」(談話)(『1億人の昭和史 4 空襲・敗戦・引揚 昭和20年』毎日新聞社)

〇ベトナム戦争終結(4月30日)
〇公労協など〈スト権スト〉に突入(11月26日)
〇核家族世帯が64%に
《新幹線は、デパートのおもちゃ売り場を走っているのではない。生きて暮している人間の住んでいるところを、走っているのだ。その騒音につらい思いをしている人がいるのだから、騒音を取りのぞく技術がないなら、まずスピードを落として、その技術を研究し、だいじょうぶとなったときに、スピードをあげればいい。/「国鉄よ。あなた方は、いま、戦争が終って三十年たったいま、昔とおなじように、私たちの暮しを、必死になって生きているその暮しを、一にぎりの人間の〈メンツ〉、一つの企業体の〈メンツ〉に、公共的使命というお面をかぶせて、平然と踏みにじろうというのですか」。花森はそう書いた(昭和五十年七月)。》 (酒井寛『花森安治の仕事』1988.9)

《理屈でいくらいっても理屈には必ず反理屈があるわけですよね。そうすると、そこで議論ばっかりしているうちにめんどうくさくなって、それで少しサーベルの音がガチャガチャしてきたり、牢屋の鍵の音がしてきたりすると、めんどうくさい、はい、賛成、賛成になっちゃう。それはいまいった銀座をうろうろしていた学生時代がちょうど日本の暗い谷間でファッショが台頭してくる時代ですよ。天皇機関説だとかなんだとかいう時代でしょう。そのときにぼくらはまだ学生だけど、総合雑誌なんかに書いているえらい先生とか、あるいは大学の先生とか、あるいは疑似インテリがなにをしたかということが、その敗けたときにはわかったわけですよ。戦争反対していましたよ、独裁反対しておった。それはすべて理論で反対していたからね。》(花森「僕らにとって8月15日とは何であったか」 『1億人の昭和史 4 空襲・敗戦・引揚』毎日新聞社1975.9)
1976年
(昭和51)
 65歳 ・4月、『暮しの手帖』2世紀41号に「作りっぱなし たのしきナンキンマメ」。ロッキード事件を揶揄した創作。
・8月、『暮しの手帖』2世紀43号に「8ミリ映写機をテストする」。
・10月、『暮しの手帖』2世紀44号に「ぼくは、もう、投票しない」。投票用紙に「×」を書いてストライキをするという話から政治家を批判。
・六本木の「暮しの手帖別館」で「花森安治の表紙原画展」を初めて開催。
・沢村貞子『私の浅草』刊行。

〇ロッキード社の国外への巨額工作資金が問題化(ロッキード事件の発端)(2月4日)
〇天安門事件(4月5日)
〇ロッキード事件で田中角栄前首相を逮捕(7月27日) 
《北村 (…)この[1974年の]電子レンジテストを通じて、私がこれまで抱いていた大企業の製品だから間違いないだろうというようなイメージは、まったく払拭され、商品テストの重要性と大切さを学んだことになります。花森に頭で考えた理屈をいうと、「屁理屈をいうな! やってみなければわからないだろう!」と決まって怒鳴られていましたが、その意味と重要性が入社五年目にして、やっと身に沁みたことになります。》(河津一哉+北村正之+小田『「暮しの手帖」と花森安治の素顔』 論創社 2016.10)   
1977年
(昭和52)
 66歳 ・2月、『暮しの手帖』2世紀46号に「ネギを一本買えますか」。全国1078店でネギを1本から買えるか調査。ネギの買い方を例に、暮らしを守る方法を説いた。
・6月、『暮しの手帖』2世紀48号に「ものみな悪くなりゆく」。豆腐がまずくなったことを話のまくらに、政治と政治家の姿勢に言及。
・12月28日、編集室の台所のテーブルで昼食の後片づけをしている大橋鎮子に、自分が死んだときの号のあとがきに、遺言を書いて欲しいとメモをとらせる。


〇原水禁統一世界大会開催(8月3日)
〇ダッカ日航機ハイジャック事件(9月28日)

〇円高突入 1ドル268円に 
《河津 この時代から生活の感覚が違ってきたということですね。『暮しの手帖』の「暮し」とはデパートやスーパーや商店街での買物をすることを中心に想定されていましたが、それが郊外のロードサイドビジネスに移行し、「暮し」自体が変わり始めた。とりわけ生活はコンビニ、ファストフード、ファミレスを抜きにして語れなくなっていく。/―― (…)48号に花森は「ものみな悪くなりゆく」というエッセイを寄せていますし。それから49号の商品テストは「売っている弁当は大丈夫だろうか」ですし、記事として「おかず材料を配達する会社」も挙げられている。花森の時代に対する苛立ちも含まれているような気がする。》(河津一哉+北村正之+小田『「暮しの手帖」と花森安治の素顔』 論創社 2016.10)   
1978年
(昭和53)
  ・1月14日、午前1時半、心筋梗塞のため死去。享年66。
・1月16日、港区東麻布の「暮しの手帖」研究室で社葬が行われる。祭壇や会場は編集部員の手づくりで、花森の好きだった「グリーンスリーブス」を流した。男性編集部員全員が花森のトレードマークだった白いジャンパーを着用。最後に『暮しの手帖』の表紙の裏にある花森のメッセージ「これは あなたの手帖です いろいろのことが ここには書きつけてある……」を全員で朗読。寒い日で、参列者に甘酒がふるまわれた。

・2月、『暮しの手帖』2世紀52号に「卓上コンロをテストする」。6種のカセットコンロを検証。安全装置1000回、ボンベ脱着6000回、点火12000回のテスト。花森安治の関わった最後の号。花森の死はこの号の校了の二日後であった。
・4月、未使用の表紙原画が『暮しの手帖』2世紀53号の表紙を飾る。花森安治の最後の表紙となる。


・「われわれは一体なにをしておるのか」(インタビュー)(『読売新聞』1月18日)
・「人間の手について」(絶筆)(『暮しの手帖』2世紀52号)
・「早春と青春」(絶筆)(『暮しの手帖』2世紀52号)

〇成田空港開港(5月20日)
〇福田首相、防衛庁に有事立法などの研究促進を指示(7月27日)
〇日中平和友好条約調印(8月12日)
〇日米安保協議委員会、「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)を決定(11月27日)
 



まだ風は肌をさし、道からは冷風がひ
しひしと立ち上る、あきらかに冬なの
に、空気のどこかに、よくよく気をつ
けると、ほんのかすかな、甘い気配が
ふっとかすめるような、春は、待つこ
ろにときめきがある。
青春は、待たずにいきなりやってきて
胸をしめつけ、わびしく、苦しく、さ
わがしく、気がつけば、もう一気に過
ぎ去っていて、遠ざかる年月の長さだ
け、悔いと羨やみを残していく。

花森安治「早春と青春」(『暮しの手帖』2世紀52号 1978)

《そして、急に原稿用紙を取り出して、さらさらと書いた。
ほんの5分か10分。
書き上げた原稿を私に渡しながら、ふっと笑った。
そして、早春の写真を探してくれ、と言った。
その原稿が、食前食後の巻頭の「早春と青春」である。
まさに、あとからみれば、
辞世の詩のような、読んでいて胸が張り裂けるような
つらい詩だ。》
(小榑雅章『花森さん、しずこさん、そして暮しの手帖編集室』
《「権威いうのがあるのはジャマですけど、それがただあるんならよろしいわな。二重橋があるのんはよろしいねん。それが朕思うにちゅうようなこと言いかけてきたら、ちょっと待ってくれということになりますねん」》(〈インタビュー〉花森「われわれは一体なにをしておるのか」 『読売新聞(大阪版)』1978.1.18)

《「[細川隆元『戦後日本をダメにした学者・文化人』1977 での花森批判の]中身は、でたらめも甚だしいね。あの中で、事実なのはね、戦争中、大政翼賛会の宣伝部におったちゅうことだけやな。戦争中、あんなことして、いまこんなことやっとるのは何やと言われたこと、一回だけあるねん。その時、答えたんや。知らんとやったとか、だまされてやったとか、ケチなこと、ぼくは言わん。ぼくは、ぼくなりにやね、受けた教育と、それで、とにかく、日本という国を守らんならん、とね。それには、戦争始めた以上は勝たんならん、と。それに一生懸命やったんや、と。いま、それがね、間違いやったということがわかったけども、その時は一生懸命やったんで、それを今さらね、いいかげんにしとったんや、とか、ご都合主義でやっとったとか、ケチなことは言わん、と。ぼくの全生命を燃焼さして戦った、と。協力した、と。そいで、それだけにショックが大きい、と。それだけに、ぼくは、これからはね、絶対に戦争の片棒はかつがん、と。それだけが償いや、と。まあ、しっかり、これからのぼくを見とってくれ、と。(…)その償いは、ぼくなりに仕事を通して、最後の一人になるまで戦争に反対する、と」》(「〈インタビュー〉花森「われわれは一体なにをしておるのか」 『読売新聞(大阪版』1978.1.20)

《絶筆となった「人間の手について」の校正をおえて、花森さんが研究室をあとにしたのは八時ごろだったとおもいます。昭和五十三年一月十二日、夜のことでした。/その日はめずらしく、花森さんひとりで、さきに帰りました。(…)/わたしは鎮子さんによばれて、花森さんが研究室の階段をおりるのを助けにゆきました。疲れていたうえに体重がありましたから、その数日は、階段のあがりおりさえも、つらそうなようすでした。(…)/花森さんは、わたしの肩に手をのせて、階段をおりようとしかけました。しかし、/「いや、きょうはやめた。じぶんの力でおりるよ」/と、肩から手をはなし、一段一段ゆっくりと階段をおりました。/靴をはいていた花森さんは、急にふりかえりました。そして、/「みなさん、どうもありがとう」/と、チョコンと頭をさげて、おじぎをしました。/「いやだわ、花森さんったら、そんなことして……」/鎮子さんが手で、そのことばと行為を払いのけるように、いいました。(…)花森さんはニコッとして手をふり、鎮子さんにはなにもこたえず、玄関を出ました。》(唐沢平吉『花森安治の編集室』 晶文社1997.9) 

《つぎの号[2世紀53号]の「あとがき」のなかに、花森の遺言が載った。暮れの二十八日に、ぼくが死んだら載せてほしい、と大橋に口述したものだった。/「読者のみなさま、本当にながいこと、暮しの手帖をお愛読下さいまして、ありがとうございます。……広告がないので、ほんとに一冊一冊買っていただかなかったら、とても今日までつづけてこられませんでした。そして私の理想の雑誌もつくれなかったと思います。力いっぱい雑誌をつくらせていただき、ほんとうに有難うございました」。そして、「最後のお願い」として、読者に、ひとりだけ新しい読者を紹介していただきたい、と述べていた。》(酒井寛『花森安治の仕事』(1988.9)
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