思考のプリズム
排他的な世界 ―― 今こそ文学的聴力を 小野 正嗣 |
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| ――朝日新聞 2017.1.11―― |
昨年11月、2015年のノーベル文学賞を受賞したベラルーシのスヴェトラーナ・アレクシェーヴィチが来日した。東京大学でのイベントで質問者として直接話を伺う貴重な機会を得た。
16年は〈歌手〉ボブ・ディランの受賞が大きな話題となったが、〈ノンフィクション作家〉として唯一の受賞者であるアレクシェーヴィチの言葉とたたずまいに触れ、〈文学〉の根幹をなす姿勢とは何なのか考えさせられた。
小説を書いたり論じたりしてきた一人として、文学活動の本質は〈書く〉こと以上に〈読む〉ことにあると考えてきた。しかし、どうやら小説や詩をたくさん読んでいるからといって、人は文学的になれるわけではない。
僕が育った大分の漁村には書物の文化はなかった。ところが、生涯に一冊も本を読んだことがなくとも、まるで本でも読むようにこちらの心の動きを理解し、一緒にいると元気が湧いてくる人間的魅力に溢れた人がいて、そういう人たちのことを、僕は漠然と「文学的だなあ」と感じるようになっていた。だが、どういう点で文学的なのかうまく言葉にできずにいた……。
◇
アレクシェーヴィチの作品を読んでずっと不思議に思っていたことを尋ねた。「どうすればこれほどたくさんの人の心を開くことができるんですか?」
「むずかしいことではないわ。いまあなたといるように、一緒に座って話を聞くだけです」
この小柄で物静かな女性がたぐいまれな〈耳〉の持ち主であることは確かだ。『戦争は女の顔をしていない』から最新刊『セカンドハンドの時代』まで、その著作からは、彼女がインタビューしたおびただしい数の人々の多様な声が響いてくる。
チェルノブイリ原発事故の被災者らの想像を絶する体験が語られる証言集『チェルノブイリの祈り』が、福島第一原発の事故がなかったかのように原発再稼働へと進む日本でこそ読まれ、何度も読み直されるべき作品だと思う。
独ソ戦に従軍した女性兵士、アフガン帰還兵、ソ連崩壊後のロシア社会で多くを失った庶民。アレクシェーヴィチが耳を傾けると、国家の大義やイデオロギーによって沈黙と忘却を強いられた人々が、それまで表現できなかった苦悩にふさわしい言葉を見出したかのように語り出す。
そばに自分の声を受けとめてくれる人がいる。そのとき世界と他者への信頼が回復され、各々の人生における愛や歓喜の瞬間が生き生きと甦る。
アレクシェーヴィチにとって〈書く〉ことは、相手に寄り添い、その声を〈聞く〉ことだ。そして〈聞く〉ことがそのまま〈支える〉ことになっている。
他者の苦悩に注意深く耳を傾け、それがより多くの人に聞き届けられるよう手助けすること。そうやって今度は、その声を耳にした僕たちを促す。自らのうちにあるはずの、他者の苦悩に応えたいと思う人間的な声に耳を澄ませ、と。文学的な態度とは、〈聞く〉ことを学び、人間を取り戻すことなのだ。
◇
だがいま、アレクシェーヴィチの人と作品が体現するこの文学的な聴力が、世界から失われつつある。
沖縄ではオスプレイが墜落し、原因が究明されもいないのに、人々の不安や怒りの声など存在しないがごとく、給油訓練が再開されている。
次期アメリカ大統領の威嚇的な言辞やヨーロッパ各国の厳格化・非人間化していく一方の難民への対応を見るとき、他者の苦悶には耳を閉ざし、己の利得ばかりに執心する排他的態度が時代の空気となりつつあるようで怖い。
もっと文学を! 政治、経済、社会、僕たちの日常を構成するあらゆる領域で、文学的な聴力と姿勢が、かつてないほど必要とされている。(作家)
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