教師自身の文学的感動を子どもたちに頒ちたい 山下明 (『教育科学・国語教育』№224 1976.10)
 [掲載号の特集は「教師の教材選択と子どもの教材解釈」であった。その中の「子どもの多様な解釈をひき出す条件」には、奥村幸夫、山下明、徳差健三郎各氏の論考が掲載されている。]
     一 どのような意味の「多様」か
 子どもの多様な解釈をどうしたらひき出すことができるか、ということを考えようとするとき、その多様性がどのような質のものか、なにをどうのように実現するためのそれなのか、ということが問題となってくる。マス・メディアの渦の中に育って、子どもたちのことば刺激・映像刺激に対する反応はおそろしく敏感になっていて、教室でも一見多彩な意見交換がくりひろげられ、なかなか賑やかだ。だが、どうも授業が深まっていきにくい、と感じているのは私だけではあるまい。ピンポン玉を弾き返すような即座の反応があるのだが、いわばみんな玉筋がきまっている感じで、自分でことばを模索し自分のことばで考えた、せいいっぱいと見られる個性的発言は乏しくなってきているようだ。せっかく深まってきたと思っていたら、授業内容とは無関係にただ語呂を合わせて、当世流行の気の効いたギャグが投げ込まれて一座がどっと湧く、などということも珍しくなく、たしかに退屈はしていないようだが、どうも緊張を持続して作品鑑賞を深めていくことは、彼らにとって苦手なことになってきているようだ。いわゆる「多様」化社会にあって、国語教育の任務は、母国語の正しい操作を通じて子どもたち自身に、自己の発想法・反応様式が類型的であることに気づかせ、「自分のことば」を獲得させていくことだと、このごろしみじみ思う。
 所与の課題に対して、教室に活気ある授業風景をつくり出し多様な発言を引き出すための、一般的な技術・手だて について、ここで論じてみてもはじまらないだろう。まずは、どのように構想された授業 に位置づく「多様」性か、そのところが問われる必要があろうし、そこで明らかにされた内容が、実は、意味のある 多様な発言をひき出す、最も基本的な「条件」であろうと、考えるのである。
 ところで、授業が、教師と作品と生徒の三者の相互関係から成り立つとすれば、生徒の作品鑑賞のあり方を条件づけるのもまた、(1)教師がどのような国語教育観・文学観をもち、どのように作品把握をし、授業をどのように構想しているか、(2)そこに選ばれた作品はどのような文体の文章か、(3)生徒のひとりひとりがどのような先行体験をもち、学習集団の中でどのように位置づいているか、の三つのモメントとして考えることができよう。が、やはり、そのいずれについてもつきつめていくと、国語教育・文学教育をどう考えているかという、私たち教師自身の問題にどうしても帰着するのである。
 私は、国語教育は文学の授業を中軸として展開されるべきだと思っている。そこにこそ、他教科では行なえない国語科プロパアの国語教育の任務があると考えるからである。そこで、以下、文学の授業の場合を中心にして、そして、中学での授業を念頭に置きながら、稿を続けようと思う。

     二 子どもの内側に文体をはぐくむ授業
 いわゆる「巧みな授業」というのがある。様々な設問によって一定量の発言をひき出し、その断片の集まりをひとにらみして論理的な脈絡をつけ鮮やかに黒板にまとめる。あるいは、作品を鋭利なメスで切り開き、つぶさに内部構造を解説してみせるというような。いずれも授業の主人公は教師である。初めのうちは、生徒もその手捌きに興味を示すだろうが、そのうち「見せる」授業に飽いてくる。自分たちの反応が授業の道具だてにすぎないこと、発言しても先生が予定している「正解」に及ばないことが解ってくるから。この「巧みな」授業は、決められた手続きを踏めばだれもが「一つの正解」に到達する、するはずだという、「読解指導」なるものといかほども変わらない。そこには、作品との対峙によって主体が揺さぶられるというような、生徒個々の発想の変革への契機が切り落とされているのである。――実はこれが、安易な形で指導技術だけを志向するとき、私たちが陥りやすい授業形態でもある。そして、この点にのみかけられた情熱は、なんのための国語の授業かという問には、おそらく明瞭には答えられないだろう。
 では、私たちはどのような国語教育をめざし、どういう授業を構想しなければならないのか。私が啓発され、大いに共感するのは、「文体づくりの国語教育」という、熊谷孝氏の提唱(同名書・昭45・三省堂刊)である。氏によれば、人間は自分の文体(文体的発想)を持っていてこそ、主体的・個性的にものごとを考えることができる。文体のある文章を与えることによって、子どもたちを文体を持った人間 に育てていくことができる。即ち〝文体づくり〟を措いては母国語の教育は成り立たない、というのである。授業の場に即して私なりに考えてみれば、作品のことばを記号として教えるのでもなく、またことばのありようを離れて思想に還元して教えるのでもない。作家という人間主体が、その文章でしか表わし得なかった現実認識の発想を、まさに、その発想が作品形象として文章への定着をみせようとするその動態においてつかませる、文章のありかたをあくまで発想とのかかわりでまるごとに把握させる、そのような中での文体の育成、ということになろう。
 このような「文体づくりの国語教育」という姿勢に教師が立つとき、教室は、作品の文体と生徒個々の文体のぶつかり合いの場として、そしてそのような中で自己の発想を変革していく場として、ダイナミックにイメージされてこよう。作品を読むということは、すでに、主体を抜きにして批評を加えたりことばを置き換えたりする「解釈」ではなく、生徒ひとりひとりの文学の体験 (現実の体験に準ずる体験=準体験)なのである。ここにおいてはじめて、生徒の「多様な」発言は、主体的なことば操作としての意味を持つのである。
 私たちが、この混迷の現実を前にして、どの方向に現実的で可能な通路を探りそれへ向けてどう行動すればいいのか、どう生きることが人間的なのかを問うとき、イメージにおいてその模索を可能にしてくれるのが、文学の名に値する文学というものであろう。そこには必ず作家自身の真剣な、人間と人生に対する問いがあり、新しい文体を求めての格闘がある。文学史は、そのような「文体の創造・変革の歴史」としてとらえられる必要があるし、その視点からそれぞれの作品が文学史的に位置づけられる必要がある。私たちの現代を基点にして、私たちが文学史意識にもとづく遠近法において作品を把握するとき、それらは、私たち現代の問に豊かに応えてくれるものとなろう。
 文学の授業の原点は、そのような、文学研究に支えられての、教師自身の文学的感動を子どもたちに頒ちたい、たとえそれがいまは無理としても、やがてそれがわかるような子どもの育ってほしいという願いにあるのではなかろうか。働く民衆として未来を担う子どもの内面を豊かにはぐくむ仕事は、教師自身の全人格的な主体的な営みでなければならないと思う。
 教材の選択も教材の研究も、そして授業のプログラムも一貫して、教師自身によって行われなければならない。多忙な悪条件の中になんとか活路を拓いて、「自分のことばを持ち自分のことばで考える子どもを育てよう」と考える仲間と一緒に、日常的に研究と教育実践の統一を図っていかなければならない。

     三 読むべき時期に読むべき文体の文章を

 一説に、「どんな教材でも国語教育は可能だ」というのがあるが、ウソである。その作品の文体に対して教師自身の感ずるところなくして、生徒の心の琴線に触れるところなくして、どうして生き生きとして授業ができようか。また一方に、その作品の素材が、たとえば戦争や貧困など現実社会の矛盾をとりあげたものでありさえすればよい(文章のありかたなど問題でない)とする意見がある。そのいずれも、教材選択をするにあたって「文体」という概念を持ち合わせていないところからくる誤った見解である。
 子どもたちのために教師自身が選び抜いた、文体のある文章を体系的に与える、ここのところで手を抜いてしまったら「文体づくりの国語教育」は実現しない。それがすぐれた文体の作品であるならば、教師は、その作品を子どもたちとの出会いの場を作りさえすればいい、ということにさえなろう。たとえ、その現場が教科書に依拠せざるを得ない条件にあったとしても、少なくとも年間授業計画の中軸には、カチッとした文体の作品を教師自身が選んで位置づけたい。そして、他の教科書教材も、上記の文体づくりの観点から見直して、中心教材との関連で再編成するという、自主編成意識を持つことが必要である。教科書にいくつか、私たちの是とする作品が収められているとしても、教科書全体がどういう発想で編まれているかを吟味して、その教材化の発想から組み変えてかかる必要があろう。
 作品を選択し教材化するときの、もう一つの重要な観点、それは、その作品が子どもの発達段階にみあっているかどうか、ということである。「読むべき時期に読むべき文体の作品を」――私たちは教室の子どもたちに、彼らの精神の発達に即し発達を促すような、すぐれた文体の作品を準備してやらなければならない。

     四 ひとりひとりの印象の追跡を大切にして
 文学の鑑賞は基本的には個別的なものである。めいめいの生徒の先行体験(文学体験を含む)のありようが、一次的には、作品把握の内容を規定する。それぞれのそのような作品への自己の印象を、教師や友だちの印象の媒介を通して、さらに追跡しつづける場、それが授業であろう。したがって教師は、生徒個々の内側で行われる鑑賞体験を尊重しながら授業を進めなければならない。それぞれの生徒が、自己の実感ベッタリに陥らず、自己規制のきいた形で鑑賞を深めていけるように、生徒の読み落としに気づかせるような発問を投げかけたり、生徒相互に意見を交換させたり、時に教師は、必要と思われるコメントを添えたりするのである。
 生徒の多様な発言を基礎に、みんなで作品鑑賞を深めていけるような、そんな授業をつくりあげる条件として、ここでは学習の集団のありかたの面から、いくつかの留意点をあげておこう。
 (1) 個々の意見が大切に扱われて、それが集団討議の中で高められていく、という体験を通して集団への信頼が、国語の授業に限らずその教室の日常に育てられていることが必要であろう。日頃の集団討議での発言のあり方も、「○○君に触発されて……」「○○君の意見に対して……」「○○さんにつづいて…」という形で、前の発言を深める、発展させるという方向で、身についているということが大切である。僕の発言にだれかが続いてくれる、補ってくれるという仲間への信頼に支えられていてはじめて、多くの生徒が手をあげるだろう。
(2) 印象の食い違いによる意見の対立は、あくまでも文章に即し文章に根拠を求めることを通して一致点で整理し、相違点は保留する。鑑賞体験における全員の完全一致はあり得ない。個人差を認め合い、方向差としての狂いを集団討議によって正していくという姿勢が必要であろう。
(3) 一つの作品ですべてをつかませようとする、いわゆる一本勝負であってはならない。それ以前の鑑賞体験が支えとなってその作品把握が確かなものになり、さらにそれが次の豊かな鑑賞の条件となっていく、というように、教材は「教材体系」として構想されている必要がある。
(4) 作品への印象をメモさせるとか、一次感想という形でことばに定着させておいてから発言を求めるということは有効である。書くということば操作を通すことで、自己の曖昧な印象を鮮明にしていくということも、印象の追跡の大切な一過程である。生徒は、そのことで、自信をもって自分の感想をのべることもできるし、一定の鑑賞過程を経てその出発点をふりかえるとき、自己の作品把握の深まり・成長にあらためて驚くものである。このような鑑賞体験における自己の発想の変革に自覚が、次の作品を求める契機ともなるのである。
 紙幅の都合で具体例なしに書き進めてしまった。その点については、私も分担執筆している『文学教育の構造化』(文学教育研究者集団・三省堂刊)を参照していただければ幸いである。
 <東京都 桐朋中学・高校>
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