国語科の本質と人間形成の条件 乾 孝 (『教育科学・国語教育』99 1967.1)
     一
 「期待される人間像」の最終報告がでた。これに賛成するにせよ、賛成できないにせよ「人格形成」にかかわる問題について、もういちど考えてみるべき機会であるように思われる。
 草案が出されたころから「期待される人間像」に対する批判は相当きびしいものがあった。しかし、それらを大胆に概括していえば、おもなものはむしろ、これが「上から」の形で投げだされたことに集中し、それに加えて、「愛国」の項などに対する抵抗が表明されたにとどまったのではあるまいか? だから、これを逆手に、「われわれの期待する人間像」はどうあるべきか、という形の認識も諸方にみられたのである。
 しかし、筆者の考えでは、「期待される人間像」が「上から」与えられる(押しつけられる?)形をとったことも、また、その内容に近代的なもの前近代的なものが混じりあっているのも、じつは、一つの原因から発しているのだ。まず、一定の「人間像」を期待し、これができれば、社会はよくなるという発想――つまり、社会悪は個人の至らなさからおこるものであって、個人個人は社会悪とは無関係に、たとえば宗教的情操や愛などで、りっぱな理想像を実現できるはずだという人間観が基礎に横たわっているのに注目すべきだと思う。為政者はアグラをかいたまま、政策の足らぬところを「家庭」の役目にシワヨセさせ、経済的保証のないところを心がけで補い、そして、「国」を愛することにおいても「天皇」に対する如く、国民不在の名目につかえる形をとり、団結からひとり脱するような姿勢で自らの「個性」を育てるということになる。これは当然のなりゆきなのであって、それが「上から」押しつけられたという形式に、いまさら驚くにはあたらない。「古くさい」といわれる象徴のあつかいこそ、まさに原爆時代にふさわしい現代的な使用法を前提しているものだし、一方、「美しいことばで飾られた近代的な側面」と評されがちなところも、じつは、現代を乗りこえさせず、「砂のような」孤立状態に国民を釘づけにしたいという願いの、まことに率直な表現でしかない。
 このような土俵の上に、いつの間にか自分も乗り込んで、われわれの期待する人間像を描き、それを目指しての「人格形成」を考えるとすれば、そして、そこに「国語教育」の意義を見出そうとすれば、その主観的な意図とは無関係に、国語科の「道徳」教育化――コトダマ信仰の従属国版を案出するにとどまる危険は必至のものとなるのではあるまいか?
 しかも、一定の理想を目指しての、目的意識的な人格形成の営みこそ、教育者のひきうけるべき大きな役割であり、しかも、人格形成の上で、国語のもつ意義は大きい。生き方の問題にかかわる煩しさから、国語教育がおりてしまって、ただ読み書き話しの技法伝授に逃げれば人格形成の責任から逃れられるかといえば、そうもいかない。そのような実利主義的国語観は、やはり、それに見合った人格の形成に片棒かつぐことにしかならない。ただ、教育者自身が、その責任を自覚しないですませることができるだけだ。しかも、このような形での責任回避こそ、こんにちの権力によって、もっとも期待されている人間像の中核なのではないだろうか?

     二
 人間形成の問題から考えてみたい。
 前記で、筆者は、社会的条件と無関係に理想的な人間像が実現できるとするような人格形成観に対する疑念をのべた。しかし、そこから、直線的に、オーエン風の、純受身の人格形成理論を支持していると誤解されてはこまるからである。
 人格形成における主・客の問題を明らかにするために、オーエン風の考えを多少単純化したところから出発してみよう。かれは性格は当人にとって、むしろ与えられたものだとする。だから良好な環境条件を与えれば、良好な性格の持主として育つはずだという前提に立ち、「性格形成学院」を設立したり、模範的な工場経営をくふうしたりした。そして、これをもっとひろめるために、地位ある人びとの間を説いてまわったりもしたのであった。
 揚げ足取りめいて恐縮だが、ここには無視できない矛盾がある。労働者――あるいはその子弟は、悪い環境によって、まったく受動的に歪められた人格形成を強いられるという一方、貴顕名士のかたは、下層の者のために良好な環境を与えてやろうとする能動性を期待されていたのだろうか? それとも、偉い人たちが育てられた環境条件(弱い者たちの犠牲によって適度に充たされた成長の環境)は、恵まれない者に共感を抱きうるような良好な人格を形成するに足るほど良好な条件だとみられたのであろうか? しかし、要するにオーエンの理想は「空想」におわったのであった。
 「揚げ足取り的で恐縮」だと書いたのは、もっとすなおに取れば、かれの考えの中には多くの正当なものがあるのに、ことさら、矛盾した点をつつかなければならなかったからだ。しかし、それはオーエンの名誉をことさらに傷けるためではなく、人格形成における受動・能動の問題――いわゆる環境の産物である人間が、どうして環境をこえ、これを変革進展させることができるのか、という問題にとりつく手掛りをえるためであった。そして、かれほどの人物でも、与える者の立場でこれを考えるときにおちいるワナとして、わたしたち自身をいましめる例にしたかったからである。かれのばあいには歴史的限界をも考えなければならない。しかし、ほんの先きごろでも、大宅壮一氏は「一億総白痴化」というコトバでテレビの低俗化を非難したことがある。テレビ番組が白痴化すれば、視聴者一億すべてが白痴化するという百%受動的な視聴者のイメージは、やはり、氏のエリート意識を反映するものだったのではあるまいか。
 明治の為政者は、教育が民衆の中に、歴史をおしすすめる力をも育てうることを洞察して、この「バクレツ弾」の発火を押えるために教育勅語を用意したという。しかも、勅語暗誦を強いられた子どもたちの間から、これを乗りこえるような人格が培われてきたのは、外来思想の一方的注入によるものではない。だから、社会悪の現状を釘づけにしたいと願う権力は、外書の禁で安心するわけにはいかず、言論集会の自由を押えなければならなかった。現実と対決している者たちの間の対話こそが、現状をこえて、人間の歴史を発展させる力になることに気づかずにはいられなかったからであろう。
 一見、かけはなれたところに話がそれたようだが、人格形成と国語とのかかわり合いの中核は、まさに、このような問題につらなっているのである。
 個々の人間は、すべて環境の影響にさらされているし、その影響をうけとり分析する中枢であるところの大脳は、たかだか信号活動を行なう器官にすぎない。それなのに、なぜ人間は、現状をつきぬけて歴史をここまで進めてくるほども能動的でありえたのか? その鍵は「たかだか信号活動」にすぎぬ働きのなかにひそんでいるように思われる。

     三
 ここで改めてパブロフ学説の紹介をする必要はないだろう。ただ、前節で大脳の「信号活動」といったのは、パブロフ理論を頭においてのことなので、それに附けくわえて、二、三の注釈をしておくべきだと思う。問題はもちろん、いわゆる「第二信号系」のこと――コトバ信号の働きを考えることによって、国語の獲得と、人格形成との関係をみていくことに中心をおくべきであるが、じつは、その前に、コトバをおぼえる前からの、人間の子どもの育ち方についても、一言ふれておかなければならない。人間の赤ん坊は、かれが人間に育つためには、ともかくも一定のコトバで結ばれた人間社会の内に生まれ落ちなければならないからだ。子どもの大脳その他に、コトバを話すようになるための生理学的可能性がそなわっているにしても、それが現実に働くためには、コトバのある社会に生まれなければだめなのである。
 しかも、コトバのある社会に生まれ落ちるということの意義は、その子が自分の中にコトバ系を形成する直接の手掛りをえるというだけに限るものではない。コトバを身につける以前の子どもたちは、自分で予測を立てることはできないし、そこに現前していないものを願望することもできないけれども、その子が、コトバをもった人々の間に生まれおちたということは、まわりの者たちの、予測を伴い、希望の方向に序列づけられた世界の中に生まれおちたということなのである。他の動物たちは、そのとき、その場の現状況に閉じこめられ、現実の直接的な快・不快によって、環境適応の行動パターンを形成されていくのだが、人間の子のばあいは、これに反して、周囲のオトナが現状況の中に見いだした次の時点への手掛りに応じて――つまり、いわば予言された世界への適応を仕込まれることになる。自分には予測の能力がないころから、現在到着した運動感覚性の刺激を、まだ存在しない(未発の)状況の前兆として捉え、予め身構える習慣が身についていく。これは同時に、感覚的な所与を、その社会の処方にしたがって処理する予備的な訓練にもなる。
 こうして、人間の子どもの感覚諸器官は、社会的連帯にとって有効であったがためにその社会成員の間に生きのこり、共有され、洗練された分節を継承することで発達する。他の動物は、直接の感覚的快・不快のフィード・バックによって、各個体別々に形成される外界認知の枠ぐみが、人間ではもともと、間接的に(社会生活の先輩の見通しをくぐって)強化、制止されるという形成過程によって個体の限界をこえ、まさに「人間的な見直し」の習得となる。
 このことは、一面では、、本来未発の事象にかかわる言語を習得する基礎として重要であるばかりでなく、外からの刺激に対して、いつも個の現状を超えた反応を可能にする基礎としての側面も重視されるべきであろう。その場におけるその個体の限界を逸脱した反応こそが、人間独特の創造性――受身でありながら、その限界をのりこえ、行為を触発した状況を逆に見通しをもって変革する――をささえるものだからである。
 いい落としたが、子どもが生まれおちる社会は、共通のコトバとともに、共通の道具をそなえている。道具はただ力学的に、個体の能力にプラスするだけではない。それがヒモであろうと、サジであろうと、その使用は環境支配の連帯に身をつらねることなのである。
 そこへコトバがやってくる。
 子どもたちが言語系を獲得したとき――つまり、他の仲間と共有のコトバ信号の系を大脳にきざみ、その時どきの個々の体験を他者と共通のコトバ信号につなぎ、また、コトバ信号によって他者と共通の体験をひき出すことができるようになったとき、子どもの大脳は、はじめて人間の大脳としての正常な生理を営むこととなる。
 しかも、大脳はあくまで、無から有を生ずるような奇蹟的器官にはならない。たんなる信号活動を、より複雑化するだけだ。その生理学的基礎は、他の高級哺乳類とくらべても、さしたる違いはない。ただ、異なるのは、他の哺乳類の大脳は孤立させて育てられても、一応の生理を営むのに、人間の大脳は、不在の他者の信号系を前提して初めて、「正常」に働くものだという点である。
 まず個体があり、その個体が内部の欲求をみたすために、他者との交通を求め、やがてコトバをえて、これによって他者の協力をうながす――という底の人間観のあやまりは、ここに明らかであろう。そのような抽象的な「個体」は存在しないのである。
 冒頭にふれた諸問題――まず個人が完成して、社会の病がなおるという見方の倒立ぶりは、いまさらいうまでもない。また、環境の影響を受けながら、しかも、その環境を支配するという外見上の矛盾も、いまみてきたように、もともと社会的位置の網の目の中に生まれおち、そのやり方を身に刻みこんだ人間の、個であって個を超える存在様式に目を向ければ、何の動機もない
[ママ]当然のこととして理解できよう。
 人格形成を、抽象された個人中心に考えたときにぶつかる矛盾は、ここに解決される。

     四
 高等哺乳類としては例外的に無能な人間の赤んぼうは、他の動物とは違って、自力で自分の生命を守る能力がない。だから、人間の子の探求反射は、他の動物の子どもたちのそれのように、現状況に密着してはいない。食餌にも防御にも直接は関係のないところをさまようゆとりをもっている。
 しかし、外界への媒介をしてくれるまわりのオトナたちに注意をひかれ、集中する点に著しい特徴を示す。近寄ったオトナの表情に敏感に反応し、また、自分の発声をまわりのオトナの声によって洗練していくのもその表れである。「哺乳期」に子どもたちが発する音の種類は各国語の凡ゆる母音・子音を含んでいるといわれるが、それは急速に母国語の音に整理される、オトナの発音が、それを強化するのである。
 先述したように、共通の道具とコトバとに結ばれた世界の中に生まれおちた子どもたちは、言語習得以前に、言語信号と結合しやすい形の体験を重ねていくが、言語習得後は、逆にコトバが体験を文脈づけていくことになる。コトバ信号と運動感覚的体験との結びつきは、くわしく述べれば、それほど簡単なことではない。最初手掛りとして働いたものが、やがて邪魔者に転化したり、その逆がみられたりする曲がりくねった複雑な過程であるが、それを論ずるのはここの目的ではない。ここではただ、コトバを知ることが、認知のアクセントづけをすることであり、そのアクセントづけは、その事象を他の諸事象との関係 にもち来たすことによって、それを予見的な角度でみなおすこと(これが「人間的見直し」である)であるのを指摘しておけば足りる。
 コトバ信号は、現実の事象(刺激)の働きを代行するといわれる。しかし、正確にいえば、それにとどまらない。コトバ信号は他者と共有の有限の系をなしているために、無限の多様性をもって生起する諸事象を、いろいろマルゴト代表することはできないから、他との関係における一定側面のみを代表する(抽象)にすぎない。だからこそ、不在・未発のものごとを他者に伝達しうるのだ。命名は、体験の公共化であると同時に、予言でもある。コトバが現在は未だ存在しないことにかかわることによって現在の直接的刺激の束縛を解く。サルトルも同じようなことをいっていたと思うが、この未来へのかかわり方は、それぞれのコトバ信号が、代々客観法則と対決してきた民族の歴史の中で煮つめられた信号系に位置していることに由来する。運動感覚系の信号系が、個々の動物において、その個々の特殊性に閉ざされたままではあるが、次第に一般性をもったものに分節統合されることによって、その動物の生活環境の法則の一面(その動物の生活を軸としての「一般化」だから――)を映していくのに似て、伝え合いつつ客観世界変革に協力した民族の歴史の中で、語イは、その民族の生活を軸とした客観法則の側面を切りとってきたのである。単なる約束ごと として共有されているのではない。
 まだコトバを知らぬ子どもを前にした母親が、「ウマウマ・オイチイ」と、いわば一人二役の言語活動を行なうとき、母国語の音に敏感になっている赤んぼうは、食事に関する協力の場で、これを自分の大脳に焼きつけ、やがて、自分のセリフを繰り返すようになり、ついては、そこに存在しない「ウマウマ」を「ウマウマ」という音声で呼び出すにいたる。ここではじめて音声信号はコトバ信号になったというべきであろう。
 こうして、もともと社会内存在であった子どもの、未自覚なうちからの通信活動は、次第に内化して、外的人間関係から一段退いたところで不在のものたちとの対話を行ないうるところまでいく。不在の課題場面に不在の相談相手(これは非人格の、たとえば[法則」であってもよいし、別の時点における自分自身であってもよい)と相談する、これが思考である。
 頭の中に、どれだけ有効な相談相手をよびだし、どれだけ有効に会議を進めることができるかという――いわば、通信活動の効率の面が理知的発達にかかわる側面であり、その内容および様態をふくめたとき、人格形成を語ることになる。

     五
 ようやく本論に入ろうとするところで枚数が限界に近づいてしまった。しかし、国語教育そのものについては別に論ぜられるはずだから、いま「様態」といったものについての説明を書くつけることで責めをふさごうと思う。
 さきほど、頭の中の相談ということをいった。そして、それがまわりの対話の内化であるともいった。しかし、じつはそれは言語機能の可能性をいったのであって、必ずしも、いつもその可能性が現実のものとなるわけではない。たとえば、冒頭近くでふれたように、人間社会のこれ以上の発展をおそれる側は国民内部の対話をきらうのだが、そこで行なわれる言語操作は命令型とでもいうべき形をとる。現実を前に肩をならべた協力者たちの相談は、いつも現状を乗りこえ現状を変革するための協力を支えるが、命令は、現状をピンでとめた上で、それに応ずる行動を下達する、いわば現状維持のための言語操作である。これは実験者の体験をくぐって発展することを、はじめから拒否した形であるから言語学を体験から説いた場所で空転させることになる。むかしの言い換えを中心にした国語教育を想起すれば、この間の事情は明白であろう。
 上意下達型のコミュニケーションを中心にした社会で、権威型の人格が形成されやすいのはこのためである。子どもをめぐる人間間の言語活動も命令下達型となり、これが子どもの個体内コミュニケーション――思考の原型となるからである。家庭におけるコトバの「しつけ」が、まず敬体の教えこみであったこと、学校における国語が漢字の物神崇拝的な伝授に偏っていたことなども、そのひとつに数えられよう。
 しかも、この形式はこんにちでもなくなってはいない。たとえばマス・コミがいくら「視聴者参加番組」で民主的対話を装っても、その内実はわが放送を視聴せよ、わがスポンサーの商品を買えという命令型伝達を基本としている。
 こういう現実の中で人格形成において、国語教育の負うべき役割は、状況が切断してくる相談型コミュニケーションを絶えず再結合するような信号活動の形成を助けるところに中心をおくべきだと思われる。したがって個々の児童の「国語能力」を競争的な場でテストして、相談すべき仲間との連帯を絶つようなやり方は、国語教育の本質に対立し、人格形成に逆行する試みであろう。
 <法政大学教授>
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