文学教育よもやま話 9    福田隆義       

 記憶をたどる――「読み聞かせの時間」と民話   【「文学と教育」№199(2004.5刊)掲載】   

はじめに
 「四十年まえ、あなたは何をしていましたか?」と聞かれて、即座に答えられる人は少ないだろう。むろん、私も答えられない。
 教え子からの年賀状に 「私は四十六歳になりました。息子は大学三年生になります」と、書き加えてあった。これだけの言葉刺激で、私の四十年まえが甦る。その後のことも関連して、次つぎと思い出すから不思議である。四十年まえは、彼女が六歳、小学校入学の年になる。今回は、四
十年まえのことから書き始める。


初めての一年担任
 校長先生が「四十も過ぎて、一年生を担任した経験がないと、一人前にみてもらえないよ」と真顔で忠告してくれた。なぜか私は、一年生の担任はベテランの女の先生と決めていた。恐いのである。避けてきた。恐るおそる担当したのが、彼女たちのクラスだった。
 入学式が終わって、式場から子どもたちを教室に誘導しなければならない。つい、六年生あいての口調で「起立、男性はこつち、女性はこつちに整列」といってしまったらしい。が、誰も立たない。どころか、子どもは面喰らっているようす。こつちも面喰らった。すかさず、補助の先生
が「男の子、こつちにいらっしやい」と、並ばせて引率した。私は、女の子の先頭になった。それから、男の子の後につけて教室にはいった。どつちが補助だか担任だかわか
らない入学式だった。
 一事が万事。子どもを面喰らわせないように、泣かせないように、ぶっつからないように……。まるでお守りである。いきおい、時間をもてあます。下校も私のクラスが一番はやい。ほかのクラスをのぞいて見ると、まだ 「おかえりの歌」なんていうのを大声で歌っている。
 そこで設けたのが 「読み聞かせの時間」。むろん、時間割にはない。椋鳩十さんたちの提唱だった「親と子の五分間読書」が、運動にまで発展していた。それにあやかった命名にすぎない。初めは下校時刻を調節する手段だった。後には、その枠を取り払った。どんなに騒がしいときでも、本を読むというと静かになる。あの一年生が席に着き、期待の眼でこつちを注視する。ひごろの授業が、いかにつまらなかったかを語っているようで気がひける。確かに、私のクラスは騒々しい時間が多かった。新米一年生教師はつらかった。子どもは災難だったと思う。
 図書室から絵本を教室に持ち込んだ。福音館の月刊絵本『おおきなかぶ』『ぐりとぐら』など。そのなかに、後で話題にする『かさじぞう』(瀬田貞二再話、赤羽末吉画)もあった。『ちびくろさんぼ』や『ひとまねこざる』などの「岩波子どもの本」 シリーズ。そのはかに、講談社、小学館、
至光社などの絵本もあった。が、とてもまにあわない。リクエストによって、同じ本を何度も読んだ。それらの本が、私と子どもたちを取り結んだように思う。感動を共有し、言葉を共有する。読みながら、うなづくことも、そうだよねと声をかけることも、よかったよかったの独りごとも、登場人物を怒ることも、子どもたちの反応を、代弁しているように思えた。子どもと同じ平面に立って、ものがいえるようになったと思っている。読み聞かせの効用といえよう。低学年の特質かもしれない。そのなかに、私も子どもも好きになった絵本が、何冊もあった。『かさじぞう』もその一冊である。
 曲がりなりにだが、一年が経ってみると、今度は病みつきになった。あの瞳が忘れられず、一年生を希望した。もちろん「読み聞かせの時間」は、ずうっとつづけた。それくらいの自由を確保することは誰にもはばからなかった。


「読み聞かせ」 その後
 彼女たちが、高校を卒業した年に学年会があって、招待された。私に関する話題はもっぱら「読み聞かせの時間」に集中。一・二年の二年間を担当したのに、他で印象に残ったことはないらしい。私は図書の先生ということになってしまった。つぎの会は、還暦の記念。そのときは、私も招
待するらしい。それまでは生きているようにいわれた。が、もう九十歳を過ぎる。
 学年会から、十年がたった。彼女から「私も息子に『かさじぞう』を読んでやる歳になりました」という、読みようによっては、その歳になるのを待っていたかのような、年賀状をもらった。さらに、何年か後に「息子が『かさじぞう』を読んでいます」という年賀状が届いた。その息子が今年は、大学の三年生になる。親から子に、子から孫へと語り(読み)継がれそうな気がする。民話本来の伝承の場が実現しそうに思う。なぜ彼女が『かさじぞう』に魅力を感じたか。それにはいろいろな理由があろう。が、ここでは問わない。それより、私自身が『かさじぞう』への関心を深めたことは確かである。
 ちょうどそのころ『かさじぞう』に関係する、二つの事象がつづけざまにおこつた。その一つは、自由民主党の、第二次教科書攻撃『いま、教科書は……教育正常化への提言』(一九八〇年一二月・自由民主党広報委員会新聞局発行)の出版である。そのなかで『かさこじぞう』(文・岩崎京子)も批判の対象になった。『おおきなかぶ』や『一つの花』と同じ、乱暴な非難であった。いま一つは〈文教研〉で、ジャンル別の教材化が話題になった。近代小説も説話文学(民話)も、同じ図式で教材化はできない。とうぜん、文体の違いが教材化の違いをもたらすはずだ、というのであ
る。その研究の素材の一つとして浮かんだのが、私には『かさじぞう』だった。彼女の年賀状が、頭にあったからだろう。
 ここでちょっと横道にそれる。第一の話題で補足をしておきたい。私は『かさこじぞう』にどんな難癖をつけたか知りたくて、自由民主党本部に同書を申し込んだ。折り返し本が届いた。そのなかに「いつも、自由民主党をご支持くださって、有難うございます」という挨拶にはじまる、丁重な文章と、請求書が添えてあった。後援会員名簿に載るかもしれないと思ったが、その後、何ともいってこなかったし、誰も来てはくれなかった。
 ちなみに、ここで『かさこじぞう』を非難する全文を紹介しょう。
  これは小学二年の教材で、日本書籍を除き他の教科書 に採用されている。日本書籍の教科書には「かさこじぞ う」よりもっとひどい「おこりじぞう」(山口勇子)が出 ている。「かさこじぞう」は日本民話だが、これはひど く暗い貧乏物語だ。作者・岩崎京子氏は、日本民話の暗 い理由を次のように説明している。
  「歴史は支配者の変遷、興亡を書いたもの。民話は、 その支配者におさえつけられ、こき使われ、しいたげら れた民衆の物語で、これらの民衆こそ歴史をささえてき た人々だ。真の歴史は民話のなかにある。
  教材の「かさこじぞう」という民話は、しいたげられ た民衆の暮らしと心情を描いたものだという。
 ここだけだと、非難の全貌はおわかりにならないだろう。が、その方向はわかっていただけると思う。『かそこじぞう』を「ひどく暗い貧乏物語」という。私は、この非難に反論しようとした。が、なにしろスローで、機会をのがしてしまった。ここでは、自民党のいいかたをもじつて「これはひどく明るい貧乏物語だ」とでもいっておこう。どこをとっても暗いとは思えない。じいさまも、ばあさまも明
るい。絵も明るい。さいわい現在使用中(二〇〇三年度)の教科書にも残っている。


『かさじぞう』と『かさこじぞう』

 ここで再確認しておきたい。絵本『かさじぞう』は、瀬田貞二再話、赤羽末吉画、福音館刊である。『かさこじぞう』は、岩崎京子文、新井五郎絵、ポプラ社刊である。教科書に載ったのは、ポプラ社刊を底本にしている。
 私は、最初『かさこじぞう』を読んだとき、これもいいなあと思った。というより、これの方がいいと思った。スペースははぼ倍、描写が細かい、絵もカラフルで明るい、などがその理由である。後に、父母と一緒に読んだときも『かさこじぞう』のほうが、具体的でよいという意見だった。が、今は違う。説話(民話)の文体として『かさじぞう』の方が優れていると思う。左記は、第二の話題〈文教
研)でジャンル別の教材化を考えたときの、私なりの整理である。
 民話はいうまでもなく、古い時代の産物である。追体験によって、先祖がえりをしようというのではない。民話のなかにはあった人間の相互信頼や、そこでの明るさなどを準体験させたいのである。民話の創造者たちに、自覚した方向性があったわけではない。民話自体に階級的視点があるわけでもない。民話創造の母体であり継承の場でもあった、家族集団なり地域集団のいろり端を想像してみよう。集まったのは、その集団と命運を共にするほかはなかった老若男女。一日の労働を終えた憩いの場である。厳しい現実をふまえながらも、一定の距離をおいた語らいの場であった。そうしたなかでは、現実が苦しければ苦しいはど、自分たちの未来に夢を描いて耐えたのではなかろうか。あるべき未来、あって欲しい未来を想像して楽しんだのだと思う。また、語り手も集団員、聞き手も同じ集団の構成員である。同じ共同体のなかに生きた彼らには、メンタリティーの方向的一致があった。そうした人間関係のなかにあっては、くどくどした心理描写や情景描写は不要である。民話は、登場人物の行動・行為によって快適なテンポで展開する、簡潔な文体である。そこではまた、思ったことと行為の間に隙間がない。観念と行動の分裂・分離いぜんの直接性・直截性が民話の民話性を保障している。『かさじぞう』は、そうしたなかで生まれた民話だろう。もちろん、民話ならなんでもいいというのではない。その出自からいって、子どもには聞かせたくない話だってある。 右のような視点で、記録に残された「笠地蔵」の民話や再話を集めて読み比べた。なかでも『かさじぞう』(瀬田貞二再話)と『かさこじぞう』(岩崎京子文)の絵本は、たんねんに比較した。読み比べているうちに、細かい描写だと思った『かさこじぞう』の表現が、言わずもがなのことであったり、地蔵との間に間隙をつくって間のびしていたり、小説の表現を思わせる部分があったり、絵と文章が矛盾したりなどなど、民話らしくないところが気になってきた。教材化するなら、より民話らしい文体の『かさじぞう』をと、今は思っている。そのことは、本誌「文学と教育」の、一二三号「文学史の中の児童文学……『かさじぞう』」と、一四五号「民話の教材化……絵物語としての『かさじぞう』に詳述したつもりである。 こうなると『かさじぞう」の地蔵さまが、頭から離れない。旅のついでとはいえ、京都の伏見地蔵の「大善寺」に行った。桂地蔵の「地蔵寺」、鞍馬口地蔵の「上善寺」、山科地蔵の「徳林庵」にも寄った。大善寺では、庭掃除をしていた住職さんに、質問した。住職さんは、旅行パンフレットの六地蔵尊縁起にあるような説明をしてくれた。私はさらに質問をかさねた。ところが「如来」と「菩薩」の違いもわからぬ私を見抜いたか、庫裏から本を持ってこられた。『地蔵菩薩の研究』(真鍋広済著・九六〇年・三密堂書店刊)である。そして「あなたはお地蔵に興味があるようだが、これを手がかりに研究なさい」とおっしゃる。あるいは、厄介払いのつもりだったかもしれない。が、丁重にお礼をいって、書名と出版社のメモをとらせてもらった。新書版で安かった。それを読むうちに、大分県杵築の石仏群の地蔵を思いだした。ここではなぜか、地蔵は冥府の厳めしい役人、閻魔大王である。『かさじぞう』の地蔵さまではなかった。不思議な気がした。


「笠地蔵」のルーツ

 現存する民話「笠地蔵」の伝播状況を横軸とするなら、これは縦軸になろう。私の関心は「笠地蔵」のルーツに向かった。お貸しくださった『地蔵菩薩の研究』を手がかりにした。住職さんのおっしゃつた通りになってきた。おもに、岩波刊『日本古典文学大系』の「狂言」『沙石集』『梁塵秘抄』『今昔物語集』『日本霊異記』など。そのほかに、岩波刊『日本思想体系』の『往生要集』などの、地蔵説話を抜き出して読んだ。杵築の石仏群の地蔵像は、後の時代の造像だと思う。が『日本霊異記』の地蔵は、冥府の閻魔大王だった。けれども、地獄に堕ちる心配のない、当時の上層貴族にとって、冥府の役人など、あまり関心がなかったようだ。『往生要集』までくだると、地蔵はちがった姿になる。地獄に定住などしていない。何時でも何処へでもでかけて行き、衆生の苦しみを除く慈悲ぶかい菩薩となっている。『今昔物語集』では多くの説話に、「形チ端正」な小さき僧として登場する。あの世、この世を忙しく駈けまわっている感じである。夢のなかにあらわれ地蔵への帰依を促したり、冥官に会って弁明してくれたり、地嶽の責め苦を代受してくれたりなど、その多くは来世救済の利益である。「笠地蔵」のような現世で利益をもたらす説話は少ない。『梁塵秘抄』では、「海山稼ぐ」者、「萬の仏に疎まれ」た者、つまり地獄は必定と思う者が、来世の救いを求める菩薩として歌われている。
 『宝物集』(『「続群書類集』康頼宝物集所収)までくだると、「現世ノ利益モ浅カラズ。少々其證ヲ申スベシ」と前おきをして「田植地蔵」の原形を思わせる話が収録されている。現世利益の信仰が加わったことを意味しよう。もちろん、それだけでない。来世救済型もある。鎌倉中期の『沙石集』になると、地蔵を「悪趣ヲ以テ栖トシ、罪人ヲ以テ友トス」と規定し、「殺生ヲ業トスル男」を獄卒から乞い受けたり、「若キ女房」に示現し夫となる男にめぐり合わせるなどの利益が語られている。室町期になると、地蔵は「狂言」にまで登場する。「笠地蔵」もこの時期の産物だろう。が、直接の母体と思うものは見あたらない。
 江戸期は、地蔵信仰の最盛期らしい。地蔵さまには迷惑かもしれない。庶民の願望を、なんでも聞いてくれる菩薩にされてしまった。田植地威、刺抜地蔵、子育地蔵、水子地蔵と、この世のことに限らず、あの世のことまで地蔵さまに頼んだようだ。地蔵さまは、庶民の菩薩になって親しまれた。
 本誌、一五五号掲載の「『かさじぞう』……その源流と直接の母体を求めて」は、不完全ながら地蔵説話の、いわば縦紬について書いたつもりである。「笠地威」の直接の母体は見つからなかったが、その源流となる地蔵信仰の流れは、つかめたように思う。 なお、一五五号は、「〈未完〉」になっている。本来は縦軸と横軸をおさえ、自民党の難癖に反論したかった。だが、なにしろスローで時期を逸してしまった。そうこうするうちに、すでに、第三次の教科書問題が世間をにぎあわせている。これは、しつこい。まだつづくだろう。今回は、記憶をたどることに終始した。ご容赦を。


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