文学教育よもやま話 5    福田隆義       

 人間が人間として処遇されなかったころ  【「文学と教育」№195(2002.7刊)掲載】

はじめに
 中学校(旧制)同級生の「古稀・思い出の記」という文集を読み返した。その中で某君は、波乱の過去を振り返り 「余生は語り部として生きる」と結んである。やや爺々(じじ)く さいが、サクラ読本一期生は、もうその年齢である。「国民皆兵」時代の遺物になりかけている。最後ではあったが 「徴兵検査」もうけて、戦争にも加担した年代である。私にも語り継ぎたいことは、山はどある。が、あっても語り部にはなれない。思うことの一割も話せない、話下手だか らである。
  けれども、今回は、語り部のつもりで書こうと思う。軍靴の音が響いてくるからである。教え子を再び戦場に送ってはならないからである。文学教育とは、直接関係がないかもしれない。番外と思って、お許しいただきたい。


日本は「神の国」だった
 先号に「回天」で特攻出撃した、上西徳英君をU君と紹介した。が、頭文字などで紹介する必要はなかった。上西君の遺書は『人間魚雷・回天特別攻撃隊員の手記』(毎日新聞社編・昭和四二年九月五日刊)で公開されている。ま た、NHK・ETV特集「お父さんの髭は痛かった」(一九九五 ・九・二一、再放映)は、その後公表された日記「怒涛」 もふくめた構成になっている。あるいは、ご覧になった方 があるのかもしれない。
 その上西君である。彼と私は、村の小さな小学校に一緒に入学し、二人用机の隣同士だった。百姓の子たちの中では、きちんとした身なりをしていたし、成績も抜群だったのだと思う。彼は村の駐在さんの長男。父君は、自転車でよく村内を巡視していた。ご挨拶すると、笑顔と挙手の礼が返ってきた。サーベルが、かっこよかったことを、今でも覚えている。ところが、三年生になったとき、父君の転勤で、彼も転校してしまった。
 それから四年後、中学校で再会した。しかも同じクラス だった。「駐在のボンボン」というあだ名がついていた。が、あだ名とは反対に、たくましい少年になっていた。
 その中学校で私たちは、青年期まで徹底した、皇国主義・ 軍国主義の教育で飼いならされた。登校して、まず「奉安殿」に最敬礼をする。ほかの敬礼は、軍人をまねた挙手の礼だった。が、「現人神(あらひとがみ)」という神様がいらっしやること になっていた奉安殿には、脱帽し四十五度うやうやしく上体をかたむけた。その四十五度にうるさい先生がいて、何度もやり直しを命じられた。
 なかでも、教練の先生が厳しかった。教練? 教練という名の軍事教育の時間である。学校には武器庫があった。手入れのゆきとどいた、三八式歩兵銃と銃剣が一学年分そろっていた。天皇家の「菊の紋章」が刻印された本物だった。あだおろそかには扱えない銃である。それを使う軍事訓練には、現役、ないし予備役の陸軍将校が教官として配属されていた。軍装の配属将校は、かっこうがよかった。 私たちの憧れであり、また恐い教官でもあった。よく「青白きインテリ」だの「軟弱の徒」といって罵られた。当時 十三、四歳の私には、その意味がよくわからなかった。はては「非国民」という殺し文句で罵倒された。「非国民」 という烙印は恐かった。全人格が否定されたと思っていた。 「国史」の先生もしばしばこの言葉を口にした。


軍の「予備校」さながらの中学
 一九四一年、対米英開戦後は、もう学校とはいえなかっ たように思う。勤労奉仕という名で、農作業や飛行場作りに動員された。長距離行軍、連合演習(県内中学の連合軍事演習)。戦意高揚映画「決戦の大空」を全校で見学にでかけた。敵機を撃墜するたびに興奮し大拍手をした。校庭には藁人形がしつらえてあった。銃剣術だの射撃だのと、今 から思えば人をあやめる訓練ばかりに励んだ。が、軍国少年は、おかしいと思わなかった。藁人形は「鬼畜米英」の象徴だったからである。教室に戻ると、戦況や軍神の話、少年兵や飛行兵募集の話でもちきりだった。
 その頃のことを、前記「古稀・思い出の記」から拾って みよう。「(略)来たれ! 海軍航空隊へ! 空は男の征く所、いざ征かん大空の決戦場へ! 諸君の愛国の情熱を信ず!」は、学校掲示板のポスターに刷り込まれた文言である。飛行服で装った美少年が描かれていた。また「学校の往復をはじめ、ことあるごとに『海軍飛行予科練習生』(予科練)の歌を歌ったものだ」と回想する者もある。たしかに、純白で七つ釦の制服、それに腰の短剣はスマートだった。少年の憧れになっていた。  
 ポスターや歌で煽っただけではない。航空兵志願者については「海軍と行政は各中学校へ強制割当を実施」したら しい。今のところ、その事実の確認はできていない。が、それを裏づけるように「担任が人選に苦慮していると聞いて、海軍甲種飛行予科練習生に応募した」と志願の動機を 語る者。級友に「志願しない理由を聞かれて、まともに返 事ができなかった」と振り返る者。はては「親に黙って受 験、合格通知を見て父は驚愕、本当にきつい叱責と体罰を くらった」と告白する者。「海軍兵学校、陸軍士官学校以外は、予科練への受験を半ば強要するようなムードが感じられるようだった」と当時の雰囲気を記す者。「甲種飛行予科練習生は、前後期合わせて六十三名志願、合格した」 と数字を記録してある者。一学年三クラス編成だったので、 せいぜい百五十名。たいへんな率である。
 それら級友の多くは「日本男児として、空の勇士としてお国の為に頑張って来ますと、弱冠十六歳の少年が初陣の晴れやかな姿で堂々と挨拶した」と回想し「憧れの予科練習生として、奈良航空隊に入隊した」と語る。今でいうなら、マスコミも行政も学校も、全てを動員して戦争にかり たてた。中学の卒業式は、歯が抜けたというより、抜けた歯のはうが多いようにさえ思えた。


地獄への勧誘〈特攻隊員の募集〉
 
上西君は、級友たちと一緒に三重海軍航空隊奈良分遣隊に入隊した。一緒に入隊した一人H君は、特攻隊員募集の状況を、次のように書き記している。
 「昭和十九年六月下旬頃、奈良分遣隊所属の練習生全員が大講堂に召集され、雨戸まで閉めきった厳重な警戒体制の中で、海軍中央から派遣された参謀から、戦局の説明と声涙下る弁舌をもって特攻隊への志願者の募集が行なわれた。私は直ちにこれに応募した」。そして「昭和十九年七月十日、特攻隊員に選ばれ、(略)P基地に着任した。この中に上西君が入っていた」と記す。
 もう一人のP君は、奈良から宝塚航空隊に転属。ここでも「昭和一九年一〇月一〇日、総員集合。司令の訓示内容は、帝国海軍は大変不利な戦局に直面し制海・制空権も本土近海まで押し込められている、その戦局を挽回する為特殊新兵器が開発され、その搭乗員は聡明で攻撃精神の旺盛な君等の外にはない、奮って志願する事を望む」と要望したと回想する。さらに「隊員千名の中より七百名が志願、 百九十名が合格、終戦迄訓練に励んだ」と付け加える。
 これはしかし、奈良と宝塚にかぎつたことではない。全国の基地で行われ、少年たちをかりたてたようだ。


死への訓練
 生きるための訓練ならわかる。が、死ぬための、苦しい訓練に耐えたのが、上西君たちである。今では想像もつかないことだが、これが戦争の現実である。その訓練に耐えて、上西君は死んだ。
 彼は、中学校の壮行会で「玉と砕け花と散らばや日の本の大空守る若人われらは」という、いわば辞世の歌を披露した。観念的には、そう思っていたにちがいない。そういい残して、一九四三年(昭和一八年)一二月一日、三重海軍航空隊に入隊した。そこで特殊潜航艇要員とは知らず、 特攻隊員に応募した。選ばれて秘密裏に、完成したばかりの「回天特攻隊光基地」(山口県)に配属される。
 それから、彼等の死ぬための、厳しい訓練が始まる。人をあやめるための訓練でもある。「一人千殺」が教官の口ぐせだったという。小さいとはいえ潜航艇。敵艦まで一人で操縦し、体当りできる技術の習得が必須の要件である。 約八か月間、訓練はつづく。操縦できるようになったときが、死ぬときである。
 訓練の厳しさもさることながら、その間に彼が吐露した、生への執着、家族への惜別の情など、揺れる心が胸をうつ。 日記「怒涛」から引用させてもらう。昭和一九年二月一四日から始まる。「有終の美を光基地にて発揮せん。只出撃の日を待つのみ」(昭和一九・一一・一四)と決意を語る。 「私心あるべからず」とも思う。だが「すべてが精算される日も一日、一日近づいて来る」(同二〇・一・一)と、残された時間を想う。確実に死が近づいて来るのだ。この心情、想像しただけで、震えがくる。
 「家から郵便来る。矢張、母の手紙なし。母はどうしたのだらうか? (略)又もや親の尽きぬ恩愛に切々たり」 (同二〇・一・二)。当然、眠れぬ夜もある。「ふるさとの山を忍びてたらちねの、ははを思ひて夜も更け行く」 (同二〇・三・一二)。だが逃げることは許されない。「やがて、父に先立つこの身、恩愛のきずなを切って行かねばならぬ。父母姉弟、知己にも分かれて……。一人泣きたい。 誰も居ない処で、大声で」(同二〇・三・一六)。千々に乱れる心中、わかるではないか。
 以下日付がない。時に彼は十八歳。「特攻隊員と雖も人間なり」。むろん持攻隊員とは、告げていない。告白は許されなかった。が、相愛の恋人がいた。その純情に「泣いてやりたい。泣こう。さようなら、幸せをお祈りします」 と、届かぬ胸の内を書きとめている。
 人間としての彼の葛藤をこえて、すべてが精算される日が、一日一日と近づいてくる。行かねばならぬのである。 彼は「修養」と「沈思内省」によって、死にたちむかおう とする。「宇宙の大に比べれば、五尺の体躯いずこにありや。小躯に捉われ、何にか迷う」と、自分にいいきかせている。それでも、
 「泣きたい。男の辛さ。
  明日は必ず死なん。
  予感あり。さらば。」
 この言葉で日記は、終わっている。彼の万感の想いが濃縮されているように思う。人間(己ヲ虚(むな)シュウ)すること などできるはずがない。
 しかし、彼の苦悩はまだつづく。一九四五(昭和二十年八月一日、潜水艦に「回天」を搭載。光基地を出港し沖縄方面に向かう。出撃したのは、敗戦四日前の一一日である。ひとたび「回天」に乗り込みハッチを閉めれば、もう生きて還ることはない。潜水艦のなかで十日間、死と向き合っていたわけである。心中察するに余りあり、なんていうありふれた言葉では表現できない。残酷の極である。


ETV特集「お父さんの髭は痛かった」
 「お父さん、お父さんの髭は痛かったです」は、彼の遺書冒頭の言葉である。「ETV特集」は、遺書と日記、それに、姉君豊田静恵さんの解説、特攻兵器「回天」を設計した技術将校、「回天」作戦参謀、「回天」故障で出撃できなかったA氏、上西君の出撃を見送った親友B氏、五人へのインタビューで構成されている。それぞれの方の印象に残った言葉を紹介しょう。
 まず静恵さん。「父は髭が濃かった。でもこの髭、顎髭ではありませんね。頬までざらざらしてました。頬擦りをしてもらったこと、一緒に遊んでもらったこと、魚釣りに連れていってもらったこと、それらがみんなこの言葉に詰まっているのでしょうね。弟は父が大好きでしたからね」。 一見、幼いようにも聞こえるこの言葉に、子供のころからの父への想いが詰まっている。
 いま一つ、出港のようす。「転居する」という友人の知らせで、前夜、光市で最後の夕食を、母上と静恵さん、それに上西君の同僚と一緒にした。その翌日、静恵さんは一人で出港を見送る。「徳英さんの乗った潜水艦が、方向を変えて豊後水道に、吸い込まれるように消えていくのを、見おさめと思ってずうっと、見ていました」と、目頭をおさえられた。そして「母は、見送るにしのびなかったんで しょうね、今朝のうちに帰ってしまいました」と、付け加 えられた。刻一刻とせまってくる死。それに耐えている、 潜水艦の中の上西君。最後の面会にも行けない、行かないお父さん、黙して語らないお母さん、今なお目頭をおさえる静恵さんの気持ち、わかるではないか。何もかも引き裂いて、彼はいってしまった。
 つぎは「回天」を設計した技術将校。「余っている魚雷の威力、命中の精度をたかめるために、魚雷を一回り大き くする。普通の兵器を設計するのと同じですよ」と語る。 最初に必死の兵器「回天」を作れといわれたときどう思いましたか、という質問には「命を落して国を守る。そういう時代になったか。たまたま兵器に人間を乗せる。それ以上のことは考えませんでした。考えたら作れませんよ」とこともなげ。時代とはいえ、私には思考を停止し、人間の命を「回天」という兵器の部品にしたと聞こえた。
 「回天]作戦参謀の話はこうだ。「彼らは、死を覚悟して志願したのだから、有効に死に甲斐のある死に方をさせる。それがわれわれの任務だ」という。そんな任務の人が あったとは。今から思うと、鳥膚がたった。作戦計画の立案者としての責任を問われると「我々下っぱは、責任をとる立場にはない。上の海軍省あたりの……」と、上層部の責任にする。その人が上西君に命令したことになる。
 それから、上西君と一緒に、特攻出撃するはずだったA 氏である。「回天」の故障で「出撃中止の命令が出たときは正直、ホッとしました。『助かった』と思いました。が、口には出せませんでした」と、率直である。口外しないことは、今日までつづいていたらしい。どうして誰にもいえなかったのかの質問には直接答えず、しばらくおいて「帰港したときは、裏口から入ってきましたよ」と、当時を回想しているようだった。そして「言葉は悪いが、いったら、半殺しだったでしょうね」と、付け加えた。生きたいと思っていた仲間もいたのではないでしょうか、とさそいをかける。A氏は「誰かに伝えたい気持ちはあった。が、誰が何を考えているのか、わからなかった。諦めるよりしかたが なかった」ともらす。一糸乱れぬようにみえた隊員相互でさえ、疑心暗鬼だったようだ。上西君も、日記にしか赤裸々な自分は書けなかったのだろう。
 上西君の出撃を見送ったB氏。「おい、後は頼む」の一言が、耳に残っているという。「俺もすぐ征くからな」と 答えたものの敗戦。上西君の位牌を作って今日まで供養をつづけているそうだ。B氏は「怒涛」を目にして、初めて知る友の心中に、声もなかった。
 人間が人間でなくなる。なくしてしまう。それが戦争だっ た。ところが「備えあれば憂いなし」と、かっこよく振る舞う人がいる。″戦争だった″と、過去形では言えなくなりそうだ。語り部のつもりになった理由である。


文学教育よもやま話 目次前頁次頁