文学教育よもやま話 3    福田隆義       

私と「学習指導要領」
     【「文学と教育」№193(2001.11刊)掲載】


はじめに
 扶桑社版〈新しい歴史教科書をつくる会〉(つくる会)の「歴史教科書」が、いちばん「学習指導要領」に即している、――採択委員のなかには、こういう意見の人もあった、と新聞が報道した。また、〈子どもと教科書全国ネット21〉(教科書ネット21)の事務局長、俵義文氏によると〈つくる会〉は、四年後のリベンジを主張し、二〇〇四年採択の、小学校国語・社会の教科書の出版も企画しているらしい。
 だからだろう、何十年も読んでいない「学習指導要領」を読んでみたいと思った。市立の図書館に電話したが、蔵書のなかにはないという。市内の書店をまわってみたが、どこにも置いていない。新宿まではめんどうだ。しかたなく、帰りに市内の某小学校に寄ってみた。日直の先生が探してくださった。
 『小学校学習指導要領解説・国語編』(著作権所有・文部省/発行所・東洋館出版社/平成一一年五月三一日・初版発行)という本を、見つけてくださった。まっサラである。ほとんどのページが解説で、付録として「学校教育法施行規則(抄)」「小学校学習指導要領・総則」と「小学校学習指導要領・国語」、それに「中学校学習指導要領・国語」が収録されていた。本文は四つあわせて、わずか四四ページ。夏休み中お借りできるか伺ったら、ぺたんと表紙に校印を捺し、手続きをしてくださった。まだ学校図書にも登録してなかったようだ。どなたも手にした形跡がない。恐縮しながら、お借りして帰った。



読まれない「学習指導要領」
 
以前、なにかで読んだ。「学習指導要領」の執筆関係者の文章だったと思う。「学習指導要領」ほど読まれぬ出版物はない。拘束性をもちながら徹底しない規則はない、というような趣旨だったと記憶している。なるほどおもしろくない文章だ。あたりまえのことだが、拘束を感じる。私のような主体性のない弱虫は、読めば読むほど、文章に縛られて萎縮してしまう。授業の足しになるとも思えない。読まれないのが当然だと思った。なまじい読まないほうが健全で、自分の国語科の授業といえるような実践ができるのではないか。OBの率直な印象である。
 ところで、長いあいだ教職にありながら、私がまじめに「学習指導要領」を読んだのは、一九五八年の改訂版ぐらいである。文教研の前身〈サークル文学と教育の会〉の誕生は、この年の一〇月。機関誌「文学と教育」の創刊号(一九五八年一〇月)は「改訂・学習指導要領批判特集」だった。その座談会に出席するために、まじめに読んだ。
 私の二十歳が敗戦の年。戦後十年間で、いくらか民主主義が身についたと思っていた。ところがこのころ、日本の進路を、大きく変えようとする動きが急だった。教育界では、勤務評定をはじめとする諸施策の実施。より端的にいうなら、六〇年安保闘争の前夜である。この改訂で教育の内容も大きく右に旋回すると思っていた。
 危惧していたとおり、「学習指導要領」から「試案」の文字が消え、拘束力をもつようになった。道徳の時間を設けて、道徳教育を強要するなどの形で表面化した。そうしたことへの一定の批判をもって、座談会にくわわった。それにはだれも、異論はなかった。だが、国語科の論議にはいったとき、私は驚いた。思いもしなかった視点からの批判だった。若輩の私は、大先輩の意見を拝聴することに終始した。拝聴? 傍観者ふうの言いかただが、あの時の私には、いちばんぴったりした表現だと思う。



教育の右旋回にたいする怒り(五八年版)
 
いま少し具体的に述べよう。この座談会では、先ず教育の右傾化に対する怒りが、こもごも語られた。改訂版も、言語技術主義であることに変わりはない。が、指導上の留意事項に「学習の素材は、児童の発達段階に即応させ、次のような観点のもとに片寄ることなく用意する」という、教材選択の基準十ヶ条が、新しく加えられていた。そこには「常に正しく強く生きようとする気持ちを養うのに役だつもの」とか「人間性を豊かにし、他人と良く協力しあう態度を育てるもの」などに混じって、「道徳性を高め、教養を身につけるのに役だつもの」「国土や文化などについて理解と愛情を育て、国民的自覚を養うのに役だつもの」などの文言があった。
 教材選択の基準で選択された教材、それも、道徳性を高め、国民的自覚を養うような教材で、言語活動・言語技術の指導をということになろう。これでは、国語科は道徳教育や国民的自覚を養う教育の下請けになってしまう。国語科は下請け教科ではない。言葉は単なる道具ではない。そうした不満や政治性への偏向の危惧が、語りあわれた。
 

文教研のスタートライン
 
いま一つは、先に驚いたと書いた、そのことである。驚いたのは、大先輩や先輩の「学習指導要領」批判の視点だった。言葉は単なるコミュニケーションの道具ではない。思考や思索の手段でもある、というのである。
 その批判の要点を、記憶をたどりながら紹介しよう。一九五一年版もそうだった。この改訂でも、字句の修正ではまにあわない。その根底にある、言語観・文学観の変革なしには、国語教育は成立しない。国語科の学習を「聞く・話す」「読む」「書く」の三領域にわけ、それぞれの指導事項と学習活動が羅列してある。が、これでは言語活動・言語技術の指導にしかならない。だいいち、たんに聞く・話す・読むというようなことはありえない。何かを聞き、何かを話し、何かを読んで、思考や思索をふかめるのであり、その何かが問われなければならない。われわれは、母国語の文化、文学の学習を軸にして、読んだり、話したり、聞いたりの、ひとまとまりの学習活動を文学教育と考える。それは、国語科教育の大事な側面として位置づくはず。それなのに、この改訂でも文学は読むことのなかの、そなまた部分にしかならない。この発想では、国語科のなかに、文学教育は位置づかないし、位置づけようがない。文学教育は、国語科教育にどう位置づくのか、位置づけるのか、そこから学習を始めようということになった。「学習指導要領」の基底になっている、言語観・文学観から問い直そうというのである。それは、教科構造をどう考えるかという問題でもある。
 前記〈サークル文学と教育の会〉の創立宣言「私たちのしごと」には、そう書きつけてある。この座談会は、いわば文教研のスタートラインだった。その後、文学や言語の機能の学習を重ね、国語科の教科構造を世に問うた。その構造の中に文学教育を、国語教育の一側面として位置づけた。「国語教育としての文学教育」の提唱である。教科構造は、またの機会にゆずるとして、私の理解している「国語教育としての文学教育」をつぎに略述しよう。



国語教育としての文学教育
 
その後のことになるが、私も『かさじぞう』(瀬田貞二再話・赤羽末吉画/福音館刊)を、二年生に教材化したことがある。地蔵さん、この言葉には郷愁を誘うような、なつかしい響きがある。私はかつて『日本霊異記』から『今昔物語集』……と地蔵説話を追跡したことがある。地蔵は、それぞれの時代の、仏教の言葉でいうなら衆生の願いや夢を託された、親しみのもてる菩薩だった。後光のさす、仏様ではなかった。今もなお、道ばたの地蔵さんには、折々の花がたむけられている。地蔵という言葉が、なつかしい響きをもつ理由だろう。
 そうしたことをふまえて『かさじぞう』を、子どもたちと読む。民話らしい方言の味を保障しながら、どの地方にも通用する再話である。物語の進展を中断するような、むずかしい質問は避ける。本来の語りの場には、質問などなかったはず。文章だけでなく絵も読む。言語形象と視覚形象の支えあいを実現した、本格的な絵物語だからである。たとえば、笠をかぶせてもらった地蔵の表情と、吹きさらしの中に立っている地蔵の表情との対比である。当然ここでは、話し合いがはずむ。飽食の現代っ子には「すっぽりめし」などの説明は“注”だけではたりないかもしれない。どこからか聞こえてくる、かすかな橇曳きの声に耳をすます。子どもたちの期待がふくらむ場面である。地蔵の「よういさ、よういさ、よういさな」という掛け声に合わせて読む。というより、橇を曳く。じいさまと、ばあさまのところに、橇を曳いていくのである。地蔵といっしょに、ふたりの夢をかなえてやるのである。終わりの一文、「それから ふたりは、しあわせになったとさ」で、子どもたちは満足する。ここに登場した、じいさま、ばあさまは、幸せになって当然なのである。未分化の精神発達段階にある子どもたちには、現実の世界もお話の世界も区別はない。
 民話を生みだした、共同体社会にはあった、じいさまとばあさまのような、やさしさや信頼関係は、今は失われつつある。その美しい関係を感情まるごと体験する。地蔵といっしょに応援する。たとえば、このような『かさじぞう』を軸にした、ひとまとまりの学習が文学教育である。「学習指導要領」の「読む」活動のなかの、そのまた部分にしか位置づかない、“文学の読み”とは異質のものである。


戦後・新教育のなかの国語教育
 ここで、私事を“注記”のつもりで書かせていただく。私の特殊事情かも知れない。が、当時どんな国語教育がおこなわれていたか。なぜ前述の座談会が、強烈な印象として残ったのかをわかっていただくためにである。いわば、その時点での私の下地である。
 私は一九五一年に上京し、下町の某小学校に勤めた。その学校は〈コアカリキュラム連盟〉の、実験校のような存在だった。毎年の公開研究会には、大勢の参観者がつめかけ、私なども授業を公開して恥をかいた。
 戦後新教育の花形「コアカリキュラム」といっても、半世紀も昔のことである。いまや若い方には、“注”がいるのではないかと思う。コアは社会科だった。「総合学習」とか「生活総合単元学習」とよんでいた。今回の改訂で新設された「総合的な学習の時間」を想い起こしていただきたい。多少は参考になるかもしれない。
 たとえば、小学校一年で「おきゃくさまごっこ」という単元を設定する。お客は招待されたお礼をいう、招待した側は歓迎の言葉を述べる、これは国語の「話す」「聞く」活動だ。招待状を書けば「書く」活動もはいる。接待につかう果物を絵に描いて切り抜かせる。これは図工だ。買物に行く活動をおりこめば計算もする。そうしたひとまとまりの学習が、単元学習である。だから、分相応に教科の持ち時間を提供する。それと社会科の時間を合わせて、単元が構成される。低学年では、教科の持ち時間、全部をつぎこんで「おきゃくさまごっこ」をしていた。だが、たとえば挨拶、すでに家庭で子どもは躾られている。指導することはない。あるのは活動だけ。
 たとえ『かさじぞう』を読ませたいと思っても、持ち時間を提供してしまい、その時間がないのである。今回、各教科の持ち時間を減らし新設する「総合的な学習の時間」と形の上ではよくにている。
 学校をあげて、こうした実践をつづけているうちに、単元学習でいう「話す」「聞く」あるいは「読む」活動で、国語教育はいいのだろうか、という疑問や不安が、私にはわいてきた。教科の持ち時間を提供したのが、無駄になってしまうような気がしてきた。「改訂・学習指導要領批判特集」の座談会は、ちょうどその時だった。
 「コアカリキュラム」には、這いまわる経験主義という批判・非難が集中し、まもなく消滅した。これは後になってわかったことだが、多民族国家アメリカでは、こうした学習が必要だったのである。まず、共通語で挨拶がかわせることや、買物ができることは、生活基盤として欠かせなかった。その考え方の日本への直輸入だった。


形をかえた拘束
 今回の改訂でも、国語か教育を「話すこと・聞くこと」「書くこと」「読むこと」と「言語事項」にわける。「三領域・一事項」というのだそうだ。そして、それぞれの指導事項が小学校のばあい、一・二年、三・四年と二学年にまとめて列記してある。考えかたとしては、四十五年前とまったく同じである。一九五八年版への批判がそのままあてはまる。ただ、学校完全五日制、「総合的な学習の時間」の新設などで、国語の時間数も大幅に減らされている。そのしわよせと思いたいが、改訂の基本方針に「特に、文学的な文章の詳細な読解に偏りがちであった指導の在り方を改め」云々とある。なぜ「特に」なのか、しわよせ以上のものがありそうだ。文学を詳細に読む、文学教育を主張する、それは偏向だという、偏見がありはしないか。
 教材選択の基準も、そのまま生きている。六八年、七七年、八九年版と、どう変わってきたかをたしかめる資料が手元にない。が、五八年版とは微妙な違いがある。たとえば、五八年版は「国土や文化などについて愛情を育て、国民的自覚を養うのに役だつもの」だったのが、今回は、より厳しく「わが国の文化と伝統に対する理解と愛情を育てるのに役だつこと」と「日本人としての自覚をもって国を愛し、国家、社会の発展を願う態度を育てるのに役だつこと」の二項目になるなどである。これは、微妙な違いではすまされないのかもしれない。「我が国」とか「日本人」云々は、〈つくる会〉の人たちが、国語教科書をつくるとき楯にしそうな文言である。冒頭紹介した、俵義文氏の、〈つくる会〉は、二〇〇四年採択の「小学校社会・国語の出版も企画しています」という警鐘は重く受け止めなければならない。採択にあたって、この部分を引用し、〈つくる会〉の編集した国語教科書が、いちばん指導要領に即している、という委員がでないとはいえないからである。
 もう一つ、違いがある。この違いのほうが大きいように思う。私には「七夕の会」が三つある。もと同じ学年を組んだ人たちとの集まりである。一つは、七月七日に集まる、正真正銘の七夕の会。平均年齢は喜寿に近い。あとの二つは、年に一度集まるという意味の七夕。まだ現職もいるので、話題も職場の問題が多い。
 そこで、「学習指導要領」は読まなかったし、しらなかったというような話をすると、OBは気楽なものだとか、昔はよかったという話になる。今は違うというのである。指導要領が読まれないのは、今もかわらないらしい。が、読まなくても、徹底させる仕掛けが整っている。それでなくても忙しい教師に、講演会、講習会、研究会への参加が命じられる。いつのまにか、指導要領を先取りする研究指定校になって実践を強いられる。そんな方法で、「学習指導要領」の徹底をはかっているらしい。命令、強要、服従、それは無責任教師のすすめである。さもなくば、面従腹背の教師をつくる、。教育の場にはもっともふさわしくない、教師像が形成されるのではなかろうか。


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