「解釈学主義」批判 −国語教育・文学教育理論の根柢を問い直す−                      
 
 
  垣内松三『国語の力』について    山下 明   

【「文学と教育」bP22 (1982.11) 掲載】


(第31回文教研全国集会「文学教師の条件――異端の文学系譜を探る中で」のゼミ「文学史一九二九年画期説の検討」におけるチューター発言の一部を、「文学と教育」編集部の要請によりまとめたものである。……当サイト掲載に当たっての注)
 「日本の近代文学は井伏鱒二の出現によって対話精神を樹立することが出来た」――そのような『文学史の画期、一九二九年』の事実(本誌前号の拙稿参照)は、正当に評価されず、もとより国語教育界は何らの関心も示さなかった。残念ながら〈文学史と文学教育の接点〉はなかったのである。「なかった」と言うより、大勢において現在もない、と言ったほうがよいだろう。いまも国語教育の現場を支配しつづけている、「作品解釈 」や「読解 指導」と称される方法が、いかに文学の本来的な特質や機能を無視し、したがっていかに文学教育を疎外するものであるか、私たちは、本誌においても、しばしば問題にしてきたところである。いま私たちは、国語教育史・文学教育史の観点からもその問題を考えていく必要を感じている。これまでにも話題にのぼったことであるが、あらためての問題提起である。

 国語教育における解釈学の祖のひとりとして垣内松三(かいとう まつみ)氏(明治11〜昭和27)をあげることは、おそらく的外れではあるまい。その著書『国語の力』(不老閣書房)は、一九二二(大正11)年の初版発行以来、またたく間に版を重ね、全国に普及して、国語教育現場の指導的理論となった。その勢いは、いま私の手許にある昭和八年刊のものが36版であることからもうかがえる。
 その「序」によれば、国語教育現場からの「いつまでもこんなことをしてゐてもよいのか」という要請に応えての書で、モウルトン、ヒューイ、ジェームス等の所説に負いつつ展開された、国語授業の原理と方法を明らかにしようとした書物である。そこでは、従来の些末な「訓詁注釈」主義が批判され、作品の文章全体(「文自体」)を読みの対象とする、「センテンス・メソッド」と称する方法が提示されている。そして、その「読み」の方法に哲学的(それはドイツ観念論でもかなりロー・レベルなものと思われるが)・心理学的根拠を与えて、体系化を試みたもので、その点では国語教育史にとって一つの意義をもつものであろう。が、問題は、ともかくもそこに打ち出された垣内理論なるものが、文学認識論の立場から正しく批判されなければならなかったはずなのに、さらに石山脩平氏らに受け継がれてより明瞭な形で「生の哲学」を基礎とする「解釈学」として構築され、主として師範学校系の「国語科教育法」を通じて教育現場にも定着し、現在もなお国語教育の中で「読解主義」として主流を占めている、ということである。

 垣内氏の主張するところを『国語の力』に見てみよう。
 (1) 「文の真相を観るには、文字に累(わずら)はさるゝことなく、直下に作者の想形を視なければならぬ。文の解釈の第一着手を文の形に求むるといふ時、それは文字の連続の形をいふのではなくして、文字の内に潜在する作者の思想の微妙なる結晶の形象を観取することを意味するのである」。したがって、「解釈の第一着手は、自己 を主観を雑(まじ)へざる純真なる自然の態度に置くことであつて、『文の形』を見る力は自らそこから湧き出づるのではあるまいか」。
(2) そのようにして、「作者が何を書かうと思つたか、ということが分って居たら、それを凝視しながら其の部分々々を見る時、表現の展開が一層明かになって来ると共に、作者がどこまで書かうと思つたことを書き得たか、といふことも考へられる。言語の生命がその文の全体との関連に於(おい)て真に理解せられるのは、その立場から解釈が自然に生ずる時に於てのみ見られるのである。」
(3) そして、「文を熟読して文意を黙会する時、文の上に作者の思想の形が内視せらるゝやうに、また作者の思想の律動が内聴せらるゝのである」。「文の解釈の上から最も作者の心に近づくものは、文に潜む想韻の流動を内聴することであるといふことができる」。「真に作者と一致して文の実相を感得すれば、作者の想念は節奏的流動をなして読者の心耳に達するのである」。
 紙幅の都合上、こういう粗っぽい紹介に終らざるを得ないが、右の所説が、言語本体説と生の哲学に基づく、追体験の解釈学であることは、お分りいただけたと思う。そこでは、「文」が絶対として在り、読者(学習者)は自己を没却してひたすら「作者の思想」に合一することを求められる。そのような「解釈」の手だてがセンテンス・メソットであり、国定教科書教材による教室授業を実例にとりながらの具体的な方法として定式化されているというその即効性に、本書普及の一つの要因がある。そして、具体化の中でこの神秘主義が既に志向していた、国定教科書の絶対化と「国民精神の総向上を希求する」姿勢が、時流に全面的に適合するものだったからである。
 神秘主義との闘いを自己の課題とした芥川の文学認識論――『文芸一般論』『文芸鑑賞』(大正 
14年)
は、それを十二分に批判する達成を示している。が、ここにも文学史と文学教育史の接点はなかった。
   (桐朋高校)  

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